たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

修験者と登山家 <「わたしの“奥駈道”をゆく~山伏修行の5日間~」>と<「銀嶺の空白地帯に挑む・・」を見て思うこと

2018-02-07 | 人間力

180207 修験者と登山家 <「わたしの“奥駈道”をゆく~山伏修行の5日間~」>と<「銀嶺の空白地帯に挑む・・」を見て思うこと

 

役小角(えんのおづぬ、その他呼称はいくつか)については、当地にやってきて、なにかと気になる存在でした。紀ノ川が東西に水平線を横切る中、和泉山脈は天空を遮るような雄大さを感じさせます。奈良の遺跡を訪ね歩くと、生駒山から葛城山、金剛山は西方にどしんと構えて屹立しています。この山並みは紀ノ川が吉野川に変わる辺りで、見事に東西方向から南北方向にカーブを描き、ブーメランのような形状をしています。いずれも役行者が切り開いた修験道と言われています。また、吉野川をまたいで熊野まで延びる大峰山脈も役行者によるとされています。

 

伝説的で架空の存在ともいわれることがありますが、続日本紀にも言及があるくらいですから、7世紀以降、相当な威厳をもっていたのでしょう。だいたい、記紀で言及されている偉大な大王、雄略が参りましたという一言主神ですら、役行者は折檻したというのですから、尋常ではないですね。一時期、奈良の地裁支部で事件を抱えていて、なんども葛城山の麓を通っていましたので、時折、一言主神社を訪れたこともあります。霊力もなにもないので、一言主も役行者も、現れるといったことはむろんありませんでしたが。

 

役行者は結構有名で、あちこちにいろいろなものがあり、たとえば生駒山麓公園にはフィールドアスレチックが用意されていますが、その中に役行者のコースといった面白いものも用意されています。子どもを連れて行ったのですが、昔取った杵柄で、こういった種類のスポーツは高齢者といえども若者には負けない自信が芽生え、軽く完了してしまいました。

 

修験道の根本道場である大峯山寺を訪れたときは、ちょうど修験者の人たちが松明を焚いていたのでしたか、やはり威厳を感じました。だいたい役行者の像があった記憶ですが、とてつもなく怖い人相に仕上がっていましたね。

 

と余分な前口上を書きましたが、何冊か役小角に関する書籍を読んで、興味を抱いたのですが、どうもその内容が曖昧になっているので、書きながら思い出すかと思ったのですが、出てきませんので、このあたりでおしまいにします。

 

本題の<BS1スペシャル「わたしの“奥駈道”をゆく~山伏修行の5日間~」>は、一度は歩いてみたいと思っていた大峯奥駈道(おおみね・おくがけみち)でしたので、興味深く見ました。たしか西行もこの修行に参加したけど挫折したとかといった記述がどこかにあった記憶で、相当大変なところとの印象でした。が、参加者の顔ぶれ、歩く様子を見て、これはちょっと違うかなと思ってしまいました。

 

高知県の山深い村からやってきた住職兼養豚農家の親子であったり、僧侶の研修中の10代の女性であったり、やり手塗装業者であったり、それぞれですが、とても危険な修験道を行くタイプには見えなかったのです。

 

実際、多くの山道は整備され歩きやすいもので、危険な岩場と言われるところも、登山家であればなんでもないようなところで、鎖も必要がない程度の凹凸・傾斜でした。絶壁の上から体を張りだして下を覗きながら祈願する様子も、高所恐怖症でなければ、とくに怖さとか危険を感じるものではないですね。

 

おそらく本来の修験者たちの場合は相当条件が厳しい中で修行をするのでしょう。比叡山僧侶が生死をかけて行う千日回峰行もそのような危険な行でしょう。

 

他方で、先に挙げた3組は、ある意味、普通の方々で、彼らにとっては生死の境を感じるぐらい、厳しい行であったかもしれません。実際、塗装業の人は、なれない山歩きでほとんど歩けない状態の中、もう膝が人形のようにぶらぶら状態で、最後までやり遂げました。また、住職の後継者も、日常にはない厳しい行であったと思いますが、それを耐え抜き、弱った父親を助けるほどに体を慣らすまでになっていました。最も若い女性僧侶研修者も、かつてこれだけの厳しい条件を経験したことがない中で、男性にも負けない頑張りを示したと思います。

 

私も若い頃から山登りや沢登りを経験していますので、今回のコースくらいだとあまり負担にならないと一瞬思うのですが、最近の登山の経験から歩くのもやっとですから、いま挑戦すると、一日ももたないかもしれません。長い訓練が必要ですが、最近は歩くこともしないのですから、これではえらそうなことはいえません。

 

とはいえ、凄いことをやる挑戦者には感動します。おそらく昔は修験者たちがさまざまな危険に対峙する挑戦者だったかもしれませんが、現代は多様なアスリートがそうかもしれません。録画していてこの奥駈道の前に、見た<BS1スペシャル「銀嶺の空白地帯に挑む~カラコルム・シスパーレ~」>はとても痺れる内容でした。

 

二人の登山家は、まだ30代ですが、その意気と体力は鍛えられた鋼のように、強靱です。挑戦するカラコルム・シスパーレという山は、まさに絶壁です。しかも雪が厚く残っていていつ雪崩が起こってもおかしくない状態、それに絶壁の岩盤には薄く氷が張っていて、アイゼンもピッケルも効きそうにないのです。

 

しかも3000m級ですから、酸素が薄い。とてつもなく厳しい条件です。

 

実際、彼らの登攀途中、なんども雪崩が襲ってきて、間一髪で逃げることができました。私も小さな雪崩はなんども経験したことがありますが、彼らが直面したのはどれも一発でアウトになる脅威的な巨大さです。

 

なんどか退却を検討しつつも、最後は登頂への思い、亡くなった相棒への思いなど、熱い気持ちが勝って、成し遂げます。凄いです。グレートレースに参加するメンバーたちも素晴らしいスピリッツを持っていますが、この二人には感動させられました。

 

今日はなんの話しをしようとしたのかよくわからなくなりましたが、もう危険なことをするような気持ちを抱かなくなった自分を省みて、かれらの挑戦に拍手を送りたかったのかもしれません。

 


空海に学ぶ(5) <第五 抜業因種心>と<増える“子どもがほしい”同性カップル>への対応を考えてみる

2018-02-07 | 空海と高野山

180207 空海に学ぶ(5) <第五 抜業因種心>と<増える“子どもがほしい”同性カップル>への対応を考えてみる

 

吉村氏の仏教入門は、第四以降になると、どんどん縁遠く感じるのは仏教の心得が欠けているからでしょうか、仏教用語がわからないこともあり、その段階の差も混沌としてきます。

 

ま、わからないなりに、最後まで続けるかはともかく、もう少し背伸びしてみたいと思います。

 

今回は「第五 抜業因種心」(ばつごういんしゅしん)ということで、これは「独覚の心」(どくかく)ということのようです。

 

ますます仏教特有の世界に入り込み、他の仏教を念頭に置きながら解説しているように思えます。その意味では世俗の世界、現代社会の複雑多様な悩みを超克している、あるいは普遍性を求める内容のようにも思えるのです。

 

今回は割合、簡潔な説明に終わっています。見出しも、「十二支縁起を観想し解脱する」、「三世両重(さんぜりょうじゅう)の縁起」、「声門・独覚の限界」の三つだけです。

 

「十二支縁起」が何かとかをまず理解しないと感想も解脱もできないわけですが、これも難解ですね。

 

空海の言葉では「身を十二に修して、無名種を抜く。業生己に除いて、無言に果を得。」ということでしょうか。吉村氏の読み下しでしょうか、それを現代訳にすると「十二支縁起を観じて、苦しみの根源である無明の種を除きます。原因がなくなれば、それによって積まれる業とそれによる生も除かれて、その結果として、言葉で教えを説くことのない独覚仏の境地を得ます。」というようです。

 

私なりの理解では、「十二支縁起を観想し解脱する」ということは前者により苦しみの根源である無明の種を取り除き、苦はなくなるという風にも思えるのです。苦の原因がなくなる結果、言葉ではない、ここでの目標、「独覚仏の境地」に至るということでしょうね。

 

素人には具体的イメージが意識の中に取り込むことが容易でないですが、なんとなくわかった気になりそう?とも言えます。

 

従来の宗派の説明では、「三世両重(さんぜりょうじゅう)の縁起」の三世は、前世、今世、来世で、それぞれ煩悩、業、苦としての生があり、十二支縁起を分類説明するようですが、空海は独自の説明をしているとのこと。どちらにしてもこれだけではなかなか理解に至りません。

 

最後の「声門・独覚の限界」は、第五住心の中核になるように思い、その趣旨の空海の言葉もあるようですが、他方で最後にはその限界で締めくくられていると指摘されているように思います。声聞・独覚自体を理解することが容易でない、いや無理なのに、その限界と言われても・・・ ともかく最後のまとめ的な部分を引用しておきます。

 

「で仏陀を目指す菩提心が生じるのは、過去に仏陀を信じた縁で、諸仏菩薩の加持力を得ることによってである。そうやって長い長い時間をかけてようやく仏陀の境地に至るのだから、声聞・独覚の智慧は狭いものであり、それを願ってはならない」

 

これを理解するのはたぶん生まれ変わってからかもしれません・・・

 

ところで、今朝のNHKおはよう日本では<増える“子どもがほしい”同性カップル。妊活や子育てを取り巻く現状は?>が放映されていました。

 

同性カップルの結婚自体がようやく社会の中で一部で認容される方向に動いている中で、こんどは子どもを育てたいという要望が強まっているというのです。

 

画像に現れたカップルは女性同士が多かったような印象ですが、ともかく相当数のカップルが子育ての希望を強く持っているようです。

 

私自身、同性カップルの存在は特段違和感を感じることがないようになってきましたが、子どもを育てるということもその延長で自然な流れかとも思うのです。

 

ただ、それが体外受精で自分のお腹で育てるという希望については、多少ひっかかります。それは血縁というものにこだわるのでしょうか。そうでなく胎児かとして自分のお腹で育て出産し、その成長に携わりたいという、肉親の感情からでしょうか、それはこの番組だけではわかりませんでした。

 

世の中、幼子が両親と離れたり、虐待を受けて一人で育てられている、気の毒な例はたくさんあります。そういう幼子への気持ちはないのでしょうか。どうもそこが気になります。

 

もし血縁にこだわったり、自分のお腹で育てたいという気持ちが強いのであれば、なぜそういう心のあり方が当然の要望なのか、改めて考えても良いのではと思うのです。友人であろうが、全く知らない赤の他人であろうが、精子の提供を受けてまで、子を産むには、それなりの合理性・必要性を他の選択と比較して検討されても良いのではと思うのです。

 

人のそれぞれの欲望は、とどまることがないと思います。その欲望を時代に応じてどう調整というか調和的に解決するか、それはその個人と社会が真剣に考えていかなければならないものでしょう。

 

わが国の産婦人科学会のガイドラインでは、男女のカップル以外には、体外受精を認めない対応をしているようですが、現代の状況では合理性があるように思えます。むろん同性カップルの要望も今後しっかり受け止めて検討する必要がありますが、親としての要望だけで対処することは望ましいあり方でないことは学会も承知しているから、あまり動きがないのかもしれません。

 

他方で、子の将来を考えたとき、いまの社会で受け入れ体制がどこまでできているのか、慎重に考える必要があるでしょう。しかも他方で、いったいどのくらいの幼児・赤ん坊が捨てられ、あるいは虐待を受け、そうでなくても親子間がうまくいっていないか、その問題への解決・対応が十分できていない中、はたして親になりたいという要望だけで、対処して良いかは慎重な判断が求められると思います。

 

空海の十住心論は、現代の様々な苦痛・悩みの切実さ、真剣さにどう答えてくれるのか、それは空海思想を体現する僧侶をはじめ、思想を承継する人たちの役目でもあるように思うのです。かれらは、こういった問題について、いや次々と起こる問題について、より発言をしていってもらいたいと思うのですが、それは期待できないのでしょうかね。

 

それこそ空海の現代的な意義であり、かりに高野山信仰がさらに人の救いとなることを願うのであれば、それこそ期待したいところです。それは観光に訪れる場所といった「誤った」広報を是正する意味でも、また、財テクに走ってしまった金剛峯寺財務会計のあり方を是正する意味でも、考えてもらいたいと思うのです。