たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その16 <紀州流><川上船><吉野杉筏流し>をちょっと考えてみる

2018-02-26 | 大畑才蔵

180226 大畑才蔵考その16 <紀州流><川上船><吉野杉筏流し>をちょっと考えてみる

 

今日もいろいろ雑用をしていて、体調がいまいちのせいか、ボッとしていたらもう業務終了時間になっています。といって本日の話題を考えるのに材料は特になしということで、困ったときの才蔵さん頼みで、思いつきをまた書いてみようかと思います。

 

才蔵やその上司で吉宗の命を受けて関東で活躍した井沢弥惣兵衛の河川工法について、紀州流と称され、それまでの関東流に対峙して紹介されることがあり、現在も多くの公刊物やネット情報でも当たり前に取りあげられています。

 

この点は、過去のブログでも取りあげましたが、治水技術として連続堤防により水流を科船内に閉じ込めて一気に海に流すといった趣旨で紀州流というのであれば、そのような工法の実例は(一部の小規模な例外を除き)基本的には見当たらないと思いますので、適切でないと思うのです。

 

私自身は、才蔵の名著『積方見合帳』の解説を書かれた林敬氏が簡潔明瞭に指摘されている見解が最も腑に落ちる解釈ではないかと思っています。

 

それは「かりに『紀州流』農業土木技術の存在を認めるとするならば、①用水堰築造が困難であった河川中流域における微勾配の長大な用水路設定とそれに伴う新田開発、②その前提となる精密な測量技術と用水の補給と洪水の排除を可能にした井筋設定技術、③漏水を抑える用水路築造技術にあると考えられるのである。」

 

この微勾配というのは、ほんとうに超が付くほど勾配がわずかしかないのですね。「小田井は丘陵地帯六六か村の土地に通水する延長約三三キロメートル、井口から井尻までの勾配約二二・三メートルの用水路である」というのですから、1万分の6ないし7ですね。以前、取りあげた江戸の玉川上水は延長43kmで標高差約100mですので、1000分の2くらいですから、やっぱり才蔵の測量・土木技術はすごいですね。

 

井澤が行った「吉田用水は鬼怒川中流域右岸の下野国河内郡曽田村現(栃木県河内郡南河内町吉田)に用水堰を設置して'飯沼新田までの丘陵地帯八八か村の土地に通水する延長約五七キロメートル、勾配約三・九メートルの用水路である。」というのですから、10万分の7くらいということで、才蔵より一桁小さい超々微勾配ですね。しかし、勾配が小さすぎるなどのため、結局、末端まで完工できなかったようです。

 

で、これまでが前口上でして、別に才蔵の土木技術の優れた部分を今回とりあげようという趣旨ではありません。

 

紀ノ川の特徴をこの緩勾配というか、まるで西欧の平坦なゆったりした流れで有名なドナウ川やライン川など、日本の滝のような河川群と異なるタイプとして紀ノ川が滔々と流れていたことを少し取りあげたいと思ったのです。

 

この平坦に近い流れは、ある意味では手こぎや帆船時代では、運行に便利だったことを推測してもいいのではないかと思うのです。ここで再び、神功皇后の東遷が紀ノ川を上っていったことに一つの材料を提供できるのかなと思うのです。よくこの神功皇后・応神天皇母子の東遷は神武天皇のそれと類似する点が多いことから、両者は一つで、後者が架空のものと言われることもあります。その議論は別にして、少なくとも神功皇后については各地での伝承記録がありますので、軽視せず、心にとめておいても良いのではと思うのです。

 

実際、江戸時代の紀ノ川はまさに川上船が頻繁に上ったり下ったりして、荷物の運搬に活躍していたと思うのです。それは19世紀初頭に描かれた紀伊国名所図会でも描かれています。

 

で、ここでちょっと心配になったのは、享保期に小田井を開設して大量の河川水を引き込むと、河川流量を減少させることになって、運行に支障を来すことがなかったのだろうかという点です。実際にそうでなかったから、小田井用水がその後今日まで用水として利用されてきたわけですが、通常、船舶仲間たちが自分たちの業務に影響があると心配して反対したのではないかと愚考するのですが、どうもそれらしい話しはありません。

 

これは、一つには藩財政立て直し策として、新田開発、コメ増産事業は成し遂げないといけないという吉宗の一大方針だったからかもしれません。いや、そうではなく、かんがい用水の引水ではさほど河川交通に影響しないものであったのではないか、それは当時の紀ノ川の河川構造からいえるのではないかということです。

 

明治35年の地形図があり、当時の紀ノ川、とくに上流の橋本から下流の九度山までを見ていますと、川幅が100mかせいぜい150mくらいしかないように見えるのです。水が流れている河と両岸との境には明確な堤防は作られていない様子で、すこし後退したところに、おそらく土堤らしきものが間断的に設けら得ている程度です。

 

現在の紀ノ川は、大雨でも降らない限り(その場合は両岸の堤防まで300mかそれ以上全面水につかりますが)、多くのダムにより貯留されているため、同じ箇所では水流のある川幅は50mかせいぜい100m未満で水深も数10cmと、カヤックで川下りもできないところがほとんどです。

 

ただ、現在水が流れているところは、昔の河川が流れていたところと大きな違いはないように思えます。とりわけおもしろいのは、五条の上流から渓谷を通って、橋本に入り、西に向かって真っ直ぐ進んでいた河が大きく左に曲がり、次には右に曲がり、小田に向かい、そこを過ぎると、再び右に曲がるのです。その最初の曲がりは岸上という岸壁のような高台があり、次には才蔵が居住していた学文路(かむろ)の岩盤にぶつかり、そして、その後に真田庵などがある九度山の岩盤にぶつかるのです。

 

江戸時代の川上船は長さが10m、幅が2.3mくらいの小さな船でしたから、平坦で曲がりくねっている紀ノ川を上ったり下ったりするにはちょうどよい大きさだったのかもしれません。カヤックで下ったらとても楽しめたと思います。

 

ただもう一つ問題があります。江戸時代頃から始まった吉野杉の筏流しです。通常、吉野付近の上流で、筏流しをするときは、堰き止めて水をためて、一気に流す方法をとっていたようですが、小田井の取水堰はこの筏流しに支障がなかったのでしょうか。

 

むろん現在の小田井堰のように川幅一杯に堰を設ければ、筏組から猛反対を浴びたでしょう。彼らは相当な利権を持っていたようで、彼らの筏流しに支障があるようなことは難しかったと思われます。彼らはまた紀州藩ではなかったでしょうし。

 

しかし、当時の小田井の堰はあまり長いものでなく、極めて短いものでしたから、筏流しに支障を来すことがなかったと思います。あるいは灌漑期を回避して流していた可能性もありますが。

 

と勝手な推測を交えて、紀ノ川と小田井を少し検討してみました。次はもう少し文献を読んだ上で、きちんと考証して言及してみたいと思います。

 

一時間を過ぎてしまいました。ちょうどよい頃合いとなりました。また明日。