仕事でコミュニケーションを教えることに関わっている私です。
振り返れば、コールセンターで電話によるコミュニケーションに関わっていた30代の半ばで、交流分析心理学に出会い、心理やコミュニケーションへの興味が加速化して以来、日々、行動と学びが続いている状況です。
研修で扱いながら思うのは、『傾聴』の3つの条件
「共感的理解」
「無条件の受容」
「自己一致」
とは、これもまた「言うが易し・行うが難し」であること。
ずっと気になっているのは、研修で扱えるのが「技法どまり」になっていること。
安心してたくさん話してもらうこと。
聴いてもらった相手は、頭を整理し、自己問題解決をしていくこと。
そこが1つの限界となっています。
しかし、組織の中では、自己問題解決だけでなく、「他者と共に問題を解決すること」が頻繁に起きます。
そのためには、関わる相手の話や行動を、事実ベースでありのままに見聞きし理解することが出発点になります。
じゃないと、我々は好きなように聞き、好きなように解釈しますので、すれ違い満載のコミュニケーションになってしまいますし。
この難しさを日々痛感する・・・
我々が、長年積み上げてきた経験や価値観は、相手の言っていることにバイアスをかけ、「きっとこうだ」「こうなんじゃないの」「それはちがうんじゃないか」という決めつけや思いこみといった【判断】をしがちであります。
もう7年前になりますが、カウンセリングの勉強の際に、自分が何に囚われて聴いているのかを知り、それを手放し、聴きはじめた時に、自分に起きたことは、
海の中で、捕まる場所を失った自分の状態。
そこで見た自分は、「どうしていいかわからない自分」つまり「何を基準にして判断していいかわからない自分」でした。
振り返れば、不安や恐怖の波間にさまよいながら一体、どっちに行ったらいいの?
って状態でした。
その時に気づいたのは、どんだけ、前提を持ちながら、判断しながらきいてたんだよって話です。
今も、その反省は日々繰り返しです。
アクションラーニングでコーチをしていて思うのですが、
質問の中でも、全てが役に立たないという訳ではないですが、「Yes,No」で回答を求める『クローズ型質問』が、自己の持つ前提や仮説から発せられる問いになっている時、
頭の中の自分のイメージは、すでに聞き手が勝手に作っており、それを話し手の話の内容で修正しているような状態自体が、新鮮味のない「条件付きの受容みたいな状態」のようにも感じるし。
自戒の念を含めて表現するなら、
脱力し、海にぷっかり浮かびながら聞いた内容の新鮮さを楽しみながら、青空に浮かぶ白い雲に描く。
ところどころ、こんな感じですか?と確認しながら、描き足りないところを尋ねる。
ありのままに見聞きして理解する。
ピーター・センゲの『出現する未来』の中に、
「保留、つまり習慣的な思考の流れから、自分自身を切り離すこと」を学ばなくてはならないとあります。
習慣的な思考の中には、染みついた思考として愛着を持っているものもあるけど、
それを一旦保留した時の、自分の中に起きる「言い分」は聞いてあげながらも
「それはそれとして」としてとおだやかに決別する覚悟が必要だなぁと感じる日々です。
(鈴木大拙先生と「それはそれとして」)
まずは、ありのままに見聞きすることなしに、
真の個人や組織の問題解決や変容もないのだろうから。
振り返れば、コールセンターで電話によるコミュニケーションに関わっていた30代の半ばで、交流分析心理学に出会い、心理やコミュニケーションへの興味が加速化して以来、日々、行動と学びが続いている状況です。
研修で扱いながら思うのは、『傾聴』の3つの条件
「共感的理解」
「無条件の受容」
「自己一致」
とは、これもまた「言うが易し・行うが難し」であること。
ずっと気になっているのは、研修で扱えるのが「技法どまり」になっていること。
安心してたくさん話してもらうこと。
聴いてもらった相手は、頭を整理し、自己問題解決をしていくこと。
そこが1つの限界となっています。
しかし、組織の中では、自己問題解決だけでなく、「他者と共に問題を解決すること」が頻繁に起きます。
そのためには、関わる相手の話や行動を、事実ベースでありのままに見聞きし理解することが出発点になります。
じゃないと、我々は好きなように聞き、好きなように解釈しますので、すれ違い満載のコミュニケーションになってしまいますし。
この難しさを日々痛感する・・・
我々が、長年積み上げてきた経験や価値観は、相手の言っていることにバイアスをかけ、「きっとこうだ」「こうなんじゃないの」「それはちがうんじゃないか」という決めつけや思いこみといった【判断】をしがちであります。
もう7年前になりますが、カウンセリングの勉強の際に、自分が何に囚われて聴いているのかを知り、それを手放し、聴きはじめた時に、自分に起きたことは、
海の中で、捕まる場所を失った自分の状態。
そこで見た自分は、「どうしていいかわからない自分」つまり「何を基準にして判断していいかわからない自分」でした。
振り返れば、不安や恐怖の波間にさまよいながら一体、どっちに行ったらいいの?
って状態でした。
その時に気づいたのは、どんだけ、前提を持ちながら、判断しながらきいてたんだよって話です。
今も、その反省は日々繰り返しです。
アクションラーニングでコーチをしていて思うのですが、
質問の中でも、全てが役に立たないという訳ではないですが、「Yes,No」で回答を求める『クローズ型質問』が、自己の持つ前提や仮説から発せられる問いになっている時、
頭の中の自分のイメージは、すでに聞き手が勝手に作っており、それを話し手の話の内容で修正しているような状態自体が、新鮮味のない「条件付きの受容みたいな状態」のようにも感じるし。
自戒の念を含めて表現するなら、
脱力し、海にぷっかり浮かびながら聞いた内容の新鮮さを楽しみながら、青空に浮かぶ白い雲に描く。
ところどころ、こんな感じですか?と確認しながら、描き足りないところを尋ねる。
ありのままに見聞きして理解する。
出現する未来 (講談社BIZ) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
ピーター・センゲの『出現する未来』の中に、
「保留、つまり習慣的な思考の流れから、自分自身を切り離すこと」を学ばなくてはならないとあります。
習慣的な思考の中には、染みついた思考として愛着を持っているものもあるけど、
それを一旦保留した時の、自分の中に起きる「言い分」は聞いてあげながらも
「それはそれとして」としてとおだやかに決別する覚悟が必要だなぁと感じる日々です。
(鈴木大拙先生と「それはそれとして」)
まずは、ありのままに見聞きすることなしに、
真の個人や組織の問題解決や変容もないのだろうから。
前回の記事と併せて読んで考えていました。
現在、行われているかはよくわかならいのですが、
森田療法を思い出しました。
昔、母が友人から森田療法の本を借りていました。
当時、その本自体は難しすぎて読まなかったのですが、
社会人になってから、新書か、ムック本か何かで、
心理についての本を読んでいて、
森田療法についての説明がありました。
受ける側もサポートする側も結構大変そうだけど、
根本というか、これが心理なのかなあ、
と考えたりしました。
おひさしぶりです。
ありのままに見る、聞くって毎度難しいなぁと思っている私です。
でも、「ありのまま」に見れていない、聞けていない自分も「あるがまま」に認めて、受け容れることなんじゃないかなと落ち着いています。
そういう自分でも「どうしようもない自分」も自分なんで。
森田療法はあるがまま療法といったりもしますね。
神経症の方が、こうして病と向き合い自分の不合理な信念と向き合って回復していかれるのは
これらの保留の能力を培うことも可能にするのだと思えます。
治療は、難解ですが、完治された時には、ちょっとやそっとではたじろがなさそうですね。
苦しいことを乗り越えるのは容易ではないかもしれませんが、数倍も大きくなれそうですね。