硬派なおじ様と言う感じの作家北方謙三さん(佐賀県唐津市出身)は
トシチャンをずーっと見つめてくださっている作家さんです。
北方さんは主に男の生き様や死についての
著作が多いので、トシチャンの強い生き方に興味をもたれたの
だと思います。以下北方さんの著書より引用させていただきます。
自分のポジションというやつがあるらしい。
つまり、自分がどんな人間かを自分で決める。
あるいはほかで決められたものを受け入れる。
そういうネガティブな意味でのポジションである。
なぜそんな風に自分のポジションを決めてしまうのだろうか。
そう考えて行き着くのは偏差値である。
偏差値により、自分のポジションをいつでも確認できる、
あるいは確認させられる教育を受けてきたからである。
と、私は思っている。
言ってみれば羊を大量に作り出す教育である。
羊の中で毛質がよくていい羊毛がとれる順番を決めている。
全部が羊だから、扱いやすいし見えやすい。
狼などはじめから排除されているので、羊の中に一匹狼が
紛れ込むこともない。
柵の中で平和に従順に、栄養素の多い草を食んでいる。
柵が壊れることなど考えてもいないのだ。
しかし、そういう体制の柵などというものが時として
たやすくこわれてしまうことは、東欧やソ連の情勢を見る
までもなく、明らかなのだ。
柵が壊れた時羊たちは生き残っていられるのか。
偏差値と言うヒエラルキーに、多少でも信頼性が残っているのか。
柵の中の羊は、死ぬ。
なぜなら戦い方を知らないからだ。
柵から排除された一匹狼と、草もない荒野でどうやって
闘っていくのか。
いや、草のない荒野に放り出されただけで闘う前に死ぬ。
だから、柵など乗り越えてしまえ。
それはラディカルにすぎる意見だろう。
社会というものがその柵を中心に構成されている以上、
ある程度羊の姿でいることは仕方ないのである。
私はただ、羊になりきってほしくないだけだ。
羊の仮面をかぶった狼。
心の中にそういう思いを秘めていればいいのだ。
仮面をとった時、本物の狼なのかどうか試される機会は必ず来る。
野心をもつ。トップに躍り出る。
そういう気持ちを抱いた若者が、いるのかどうかは知らない。
いたとしても偏差値で上位へ、トップへ出ると言うことでは
ないのだろうか。
断言するが、偏差値だけでトップにたった青年と私がぶつかり
合うということになった時、その青年を叩き潰すことはたやすい。
私には偏差値などなく、したがってその青年は何も
比較することができずに、立ち尽くしているだけであろう。
そして私にはほんの少しだが、偏差値の中で確認したので
はなく、自分自身で闘って確認した力がある。
その力に対抗できるのは、羊の仮面の下の狼だけなのである。
トップに躍り出よ。言うのはたやすい、柵を乗り越えろと
言うのもたやすい。
しかしそのための闘いがどれほど困難かは、想像を絶する
ものだろう。
柵の中で従順に草を食み、立派な羊に成長して、質のいい
羊毛を提供するのが一番楽なのである。
田原俊彦という男がいる。
会うたびに眼の光が変わっている。
力強い眼差しになっているのだ。
この男が心の底に抱いた野心は本物なのだろう。
彼は柵の中を拒絶せず、しかし羊になりきることもなく、
立派に羊の仮面を被り通してきた。
その仮面の下に荒々しい狼の顔を持ちその狼を成長させ
ながらである。
彼の活動をよく見ていると徐々に徐々に変化している。
これからも変化を続けていくだろう。
3年後5年後にどういう変化を遂げているか考えただけでも
スリリングである。
野心とひと時の夢の相違は、まさにこういう持続性にあるのでは
ないのだろうか。
柵の中で狼の心を持ち続けることはつらく孤独なことである。
それに耐えるからこそ、狼なのである。
今、柵の中の無数の羊たちの中で何頭の狼が眼を光らせて
いるのだろうか。
さすが、プロのもの書きさん。
北方謙三さんと言えば。
ハードボイルドな読み物がほとんどで、わたしも何冊か読んでいます。
一匹狼の探偵が活躍する物語。
そんな「男を語る」ことを身上とされる作家に目をつけられた「田原俊彦」は、本物なのだという証ですね。
北方さんのこの文章。
男にだけではなく、男女の区別なしに、今を生きる人間にとって道しるべのような文章でした。
羊の仮面を被った狼。
わたしもそんな人間でいれたら・・と思います。
北方さんはいまだに精悍な顔、だんだん素敵になっていかれますね。
内に秘めた怒りが大きくても外観は柔和でなくてはいけない、ひび格闘中です。わかっちゃいるけど。
あー、また言ってしまった!と自己嫌悪。
おお、ちょっと横道それました。