11月23日夜、NHK総合で特別番組『安室奈美恵「告白」』が放映されました。来年9月16日に引退する安室奈美恵(40)が、過去の番組映像などを観ながら、その時々の想いを語る――という内容でした。
とはいえ、昔からの安室ファンからすると、物足りなかったったのでは?
ある時期から、インタビューで家族・離婚・母の死などには触れない、というのが芸能界の掟になっているそうで、昨日のNHKでもスルーされていました。
ですが彼女の試練はそのつど報道されてきたし、40〜50代ならみんな知っていること。何があっても動じなかった、ズバ抜けたタフさが、安室さんのカッコよさの真髄とも言えるでしょう。
◆貧しく「ネクラ」だった子ども時代
NHK特番ではデビューして上京したところから話がスタートしていました。でも「沖縄時代」のエピソードを知ると、根性の座り方がハンパじゃない彼女の原点が見えてくるのです。
亡き母・平良恵美子さんが書いた自伝『約束 わが娘・安室奈美恵へ』(98年刊)には、安室さんの子供時代が赤裸々に書かれています。若いファンが意外と知らないかもしれない事実を、一部を引用してみると――。
●「白人」とのクォーター
恵美子さんの母親(つまり安室さんの祖母)は、米軍基地で働きながら、恵美子さんを生みました。
「父親がどこの誰かは知りません」、父親の国籍も不明で「わかっていることは私が白人とのハーフであることだけ」(同書より)。当時の沖縄では珍しいことではありませんでした。
ずいぶん“ハーフ差別”を受けた恵美子さんは、娘・奈美恵さんが“クォーター差別”を受けるのではと心配したそうです。
●極貧だった子供時代
安室さんが4歳の時、両親が離婚。夜逃げ同然で家を出て、恵美子さんが保育士とスナックのホステスをかけもちして3人の子供を育てました。
安室さんが小学校4年で「沖縄アクターズスクール」に学費免除でスカウトされた時も、往復260円×週3回のバス代が払えない。そこで往復3時間かけて歩いて通ったのは有名な話です。小学生が3時間ですよ!?
「バス代が欲しいとか弱音を吐いたことは一度もなかった」と同書。「ネクラ」で、何も欲しがらない、文句ひとつ言わない子だったそうです。
●「中学を卒業したって食べられない」
アクターズのイベント出演等で中学校を休みがちになり、教育委員会に呼び出された時のこと。中3の安室さんは、こうタンカを切ったのです。
「卒業できなくてもかまいません。中学の卒業証書があっても将来ごはんが食べられるわけではありません。私は歌でお金を稼ぎ、りっぱにやっていきます。そしてお母さんを楽にさせてあげたいんです」(同書より)
そして「スーパーモンキーズ」として上京。デビュー後に、テレビの企画でようやく卒業証書をもらったそう。
以上は、『約束 わが娘・安室奈美恵へ』に書かれたデビュー前の姿です。安室さんの強さの原点は、子供時代にあるのかも。米国のスターなら、こういったルーツから成功をおさめたことを勲章にするのですが…。
◆離婚、母の死でも、悲しみを一切見せなかった
●元夫のSAMは超おぼっちゃん
引退発表後、あるコメンテーターがこんな発言をしていました。「“三高男”と結婚するのがトレンドだった時代に、安室は人気絶頂の20歳で自身より知名度が低い相手(ダンサーのSAM)と結婚した。新しい女性の生き方だ」と。
これは、当時を知っている人なら首をかしげるでしょう。
というのは、SAMの実家は江戸時代から代々医者で、地元で総合病院を経営し、親戚には政治家もいるような名家なのです。むしろ安室さんにとって“玉の輿”で、「育った環境が違いすぎて心配」などという報道もあったのです。
結局、結婚から4年9ヶ月の2002年、24歳で電撃離婚。祖母・母・安室さんと、3代続けてシングルマザーになったのでした。
●母の殺害事件から、わずか13日で大舞台へ
前述のように、安室さんの支えでありつづけた母・恵美子さんが、1999年3月17日に死去。それも義弟に殺害され、その義弟もほどなく自殺するという凄惨な事件でした。
そんな事件があったら当分立ち直れない…と思いきや、安室さんは事件13日目の29日、テレビに生出演し、観客1万人のホールで熱唱してみせたのです。ドレッドヘアに花柄スカートで登場し、笑顔で「元気です!」と言う姿に、「やっぱりタダ者ではない…」と痛感したものです。
こう見てくると、気軽に「安室ちゃんに憧れる」とか言えなくなるほど、重い荷物を背負って走り続けてきた彼女。そろそろ平穏な日々を送りたいのかもしれませんが、やはり引退は惜しい!という思いが募るのです。