いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

日本国憲法と第9条に関する論点整理~4

2016年05月16日 15時47分15秒 | 法関係
 2)自衛権放棄は9条1項から導けないというのが政府答弁


21年9月5日貴族院 憲法改正案特別委員会

○南原繁君 昨日吉田外務大臣が御出席がございませぬでしたが爲に、保留して置きました問題、即ち戰爭抛棄に關聯致しまして、御尋ね申上げたいと存じます、一つは我が國が將來國際聯合加入の場合に、今囘成立すべき新憲法の更に改正を豫想するものでありますかどうかと云ふことを吉田外務大臣に御尋ね申上げたいのが第一點でございます、其の點は本會議に於ても私が申上げましたやうに、國際聯合の憲章に依りますと、其の加入國家の自衞權が一面に於て認められて居ります、其の外に重要なことは、兵力を提供する義務が課せられて居りますことは御存じの通りであります、然るに今囘の我が憲法の改正草案に於きましては、自衞權の抛棄は勿論のことでありますけれども、一切の兵力を持ちませぬが爲に、國際聯合へ加入の場合の國家としての義務と云ふものを、そこで實行することが出來ないと云ふ状態となつて居るのではないかと云ふ問題があるのではないかと存じます、處で一昨日でございましたか、本委員會に於きまして、吉田首相の御説明の中に此の憲法草案は國際聯合の場合を必ずしも直接に考へて起草して居ないと云ふやうな意味の御答辯があつたやうに私ちよつと承つたのでございます、それと併せて考へまする時に於て、將來愈愈現實的に國際聯合に加入すると云ふ場合が起つて來た場合に、さう云つた點に付て憲法の更に改正、詰り第九條を繞りまして、更に改正を豫想せらるるやうな意味でありますかどうかと云ふことを先づ吉田外務大臣に御尋ね申上げたいのであります

○國務大臣(吉田茂君) 御答へ致します、國際聯合に加入するかどうか、是は私の意味合は成るべく早く國際團體に復歸することは日本の利益であり、又日本國としても希望する所であり、又經濟的利害の上から申しましても、政治的の關係から申しましても、國際團體に早く復歸すると云ふことが政府と致しましても、努力もし、又希望も致して居る所であります、扨、然らば國際聯合に加入するかどうか、是は加入することは無論の希望せざる所ではありませぬが、併しながら加入には御話の通り色々な條件がありまして、其の條件を滿し得ると言ひますか、滿すだけの資格が滿し得ない場合には或は加入を許さないと云ふこともありませうが、然らば如何なる條件で、如何なる事態に於て加入するかと云ふことは、今日の場合に豫想出來ない所でありまして、今日我々の考へて居ります所は、國際團體に復歸する、其の前に講和會議と言ひますか、講和條約を結ぶ、此の時期を成るべく早めると云ふことに專心努力して居るのでありまして、さうして講和條約の出來た、講和條約の締結前後の國際情勢、或は日本内部の情勢等を考へて、さうして國際聯合に入ることが善いか惡いかと云ふことも考へなければならぬ、現に又加入して居らない國もございますことは御承知の通りでございます、講和條約締結後のことを今日に於て直ちに斯う云ふ條件であるとか、或は憲法を改正することを豫想するかと云ふことに付ては御答へしにくいのであります、其の時の講和條約締結後の國際情勢、國内情勢に依つて判斷すべきもの、斯う私は考へます




同9月13日

○高柳賢三君 九條の一項、二項に付きまして、第一項の字句を讀みまして所謂「ケロッグ・ブリアン」條約を思ひ出すのであります、尤も其所では國策の手段としてと云ふ文字が使つてあるのに對して、此處では國際紛爭を解決する手段と云ふ風に變つて居ります、又不戰條約では戰爭のみが抛棄されることになつて居りますが、此所では不戰條約の解釋に付て學者の間に非常な爭ひがあつた、武力に依る威嚇、武力の行使、是が所謂平和的手段、「パシィフィック・メヂャー」と云ふことが言へるかどうかと云ふことは國際法學者の間に非常に議論が分れて居つたのが、此處では其の一派の意見に從つて、それが廢棄の對象として此所に入つて居る、さう云ふことか之を讀んで感ずるのであります、此の不戰條約の後に出來ました千九百三十一年の「スペイン」の憲法には矢張り戰爭の廢棄が謳つてあり、更に「ラテン・アメリカ」の祖國の憲法の中にも同樣な規定があり、更にずつと古く遡つて言へば「フランス」革命後の千七百九十一年の憲法の中にも、戰爭を廢棄すると云ふ條項が見出だされる、それ等の意味で必ずしも戰爭を廢棄すると云ふ憲法の條項は珍らしいものではないと思ふのでありますが、併しそれ等の總ての過去に於ける憲法の戰爭抛棄に關する條項と云ふものは自衞權と云ふものが留保され、不戰條約に於ても自衞權と云ふものが留保され、而も其の自衞權と云ふものは國内法に於ける正當防衞權と違ふのでありまして、國内法に於きましては、正當なりや否やを決定すべき第三者たる裁判所と云ふものが最高の決定權を持つて居る、然るに國際社會に於てはさう云ふ第三者に自衞權の行使の判定と云ふものを委せることを、從來孰れの國と雖も承諾しなかつた、從つて不戰條約に於て戰爭は棄てられましたけれども、自衞戰爭と云ふものは棄てられない、而も自衞なりや否やは、各國の自衞權を行使する國の判斷と云ふものが最終的なものである、是は國際法の一般的に了解された國際法規でありますから、不戰條約と云ふものは大した意味はないのだと云ふのが當時の國際法學者の通説であつたのであります、唯昔は正當な戰爭と正しからざる、戰爭との區別であつたのが、侵略戰爭と防衞戰爭との區別に言葉が變つただけだ、斯う云ふことが言はれたのであります、のみならず戰爭は廢棄しましたけれども、戰力を廢棄すると云ふことは何處の國でもやらない、斯う云ふ譯でどうも不戰條約と云ふやうな條約が出來て之を基礎にした憲法が出來ても大した實際上の意味と云ふものが出て來ないと云ふことが國際關係と云ふものを研究して居る人達の十分に熟知、認識して居つた所であると考へます、然るに私共第二項を讀みますると、從來のそれ等の戰爭抛棄とは非常に違ふので、第一は戰力を抛棄する、是は何處の國でもやらなかつたことである、第二は國の交戰權を抛棄する、是で恐らくは自衞權も抛棄する、斯う云ふ意味合が出て來るのであります、さう云ふやうな意味で此の九條の第一項と第二項と云ふものを併せて讀みますると、從來の條約或は憲法の條項に於て見出される戰爭抛棄とは本質的に違つた條項であると云ふことを感ずるのでございます、さう云ふやうな意味で私は此の條項は非常に劃期的なものである、併しながら現代に於ては戰爭の分野に於て陸軍や海軍、從來のやうな意味の陸軍や海軍が何處迄役に立つかと云ふことが段段怪しくなつて來た「アトミック・ボーム」原子爆彈と云ふものの發見以來、武力の問題に付ても從來の考へ方と云ふものに革命が起つて來て居る、之に依つて從來武裝された主權國家と云ふものが殆ど「ナンセンス」になつて來たのではないか、寧ろ世界と云ふものが聯邦となつて、そこに警察力と云ふものが、何處の國にも屬しない警察力と云ふものが世界の平和を確保する、さう云ふ時代に向ふべきものではないか、さう云ふやうな意味と照合致しまして初めて此の條項と云ふものが活きて來るのである、さう云ふ世界と云ふものが來れば是は孰れの國家も此の條文のやうな條項を採用しなければならない、丁度「アメリカ」の各州と云ふものが武力を持たないと同じやうに、各國と云ふものは武力を持たないと云ふことが原則になると云ふことが世界平和確保に對して必要なことであると云ふ風になる、さう云ふ一つの將來の世界と云ふものに照して此の條項の意味があるのだらうと云ふことを總會で簡單に申上げました、さうでありますので此の規定は非常に重大だと思はれますが、併し一般の國民は此の條項の意味と云ふものを十分に恐らくは理解しないのではないか、少くも法律家でも是はどう云ふ意味合があるのであるかと云ふことを十分に理解すると云ふことはなかなか困難だと思ひます、併しそれはどう云ふ事態が來るのかと云ふことをはつきり我々の意識に上ぼせて置くと云ふことが必要なことではないかと思ふのであります、そこで數箇の點に付きまして、政府の見解を御尋ねしたいと思ふのであります、極めて具體的な點から申上げます、日本が或國から侵略を受けた場合でも、改正案を原則と云ふものは之に對して武力抗爭をしないと云ふこと、即ち少くも一時は侵略に委せると云ふことになると思ふが、其の點はどうですか

○國務大臣(金森徳次郎君) ちよつと聽き落しましたが、多分戰爭を仕掛けられた時に、こちらに防衞力はないのであるからして、一時其の戰爭の禍を我が國が受けると云ふことになるのではないかと云ふこと、それは場合に依りましてさう云ふことになることは避け得られぬと云ふことに考へて居ります、武力なくして防衞することは自ら限定されて居りますからして、自然さうなります

○高柳賢三君 即ち謂はば「ガンヂー」の無抵抗主義に依つて、侵略に委せる、併し後は世界の正義公平と云ふものに信頼してさう云ふことが是正されて行く、斯う云ふことを信じて、一時は武力に對して武を以て抗爭すると云ふことはしない、斯う云ふことが即ち此の第九條の精神であると云ふ風に理解して宜しうございますか

○國務大臣(金森徳次郎君) 實際の場合の想定がないと云ふと、之に對してはつきり御答は出來ないのでありまするが、第二項は、武力は持つことを禁止して居りますけれども、武力以外の方法に依つて或程度防衞して損害の限度を少くすると云ふ餘地は殘つて居ると思ひます、でありますから、今御尋になりました所は事の情勢に依つて考へなければならぬのでありまして、どうせ戰爭は是は出來ませぬ、第一項に於きましては自衞戰爭を必ずしも禁止して居りませぬ、が今御示になりましたやうに第二項になつて自衞戰爭を行ふべき力を全然奪はれて居りますからして、其の形は出來ませぬ、併し各人が自己を保全すると云ふことは固より可能なことと思ひますから、戰爭以外の方法でのみ防衞する、其の他は御説の通りです

○高柳賢三君 此の憲法に依りまして自衞戰爭と云ふものを抛棄致しましても、それだけでは右の場合に日本は國際法上の自衞權を喪失せざるものと思ひますが、此の點はどうでありますか、即ち侵略者に對して武力抗爭をすればそれは憲法違反にはなるけれども、國際法違反にはならないものと解釋致しますが、此の點はどうですか

○國務大臣(金森徳次郎君) 法律學的に申しますれば御説の通りと考へて居ります、元來さう云ふ徹底したる自衞權抛棄の方が正當なことかとも思ひますけれども、是は憲法でありまするが故に、其の能ふ限りに於てのみ效果を持つことになるのであります

○高柳賢三君 交戰國の權利義務に關する色々な條約、それから俘虜の待遇に關する日本の國際法上の權利義務、それ等は此の憲法の規定に拘らず、其の儘日本に存續するものと云ふ風に私は理解しまするけれども此の點は如何ですか

○國務大臣(金森徳次郎君) 國際法的には存續するものと考へて居ります

○高柳賢三君 外國の軍隊に依つて侵略を受けた場合に、所謂國際法で知られて居る群民蜂起と申しますか、「ルヴェー・アン・マス」正式に國際法の要件を備へた群民蜂起の場合には防衞の爲に群民蜂起が起る、さう云ふやうな場合に、其の國際法上及び國内法上の地位はどうか、私は國際法的には是は適法であつて、交戰者は戰鬪員として矢張り取扱はれ、又俘虜になれば俘虜たる待遇を受けると云ふことになると思ひますが、國内法では國の交戰權を否認した憲法上の規定に反することになると云ふことになると思ひますが、其の點はどうでありますか

○國務大臣(金森徳次郎君) 左樣の場合はどう云ふことになりますか、新らしき事態に伴ふ種々なる法律上の研究を要すると思ひますが、緊急必要な正當防衞の原理が當嵌つて、解釋の根據となるものかと考へて居ります

○高柳賢三君 今の御答は國際法的に…

○國務大臣(金森徳次郎君) 國内法的に…

○高柳賢三君 此の憲法の條項に依つて所謂攻守同盟條約、又所謂侵略國に對する共同制裁を目的とする國際的な取決め、國際條約と云ふものを締結することは、憲法違反になると思ひますが、其の點はどうですか

○國務大臣(金森徳次郎君) 當然に第九條第一項第二項に違反するやうな形に於ける趣旨の條約でありますれば、固より憲法違反になると存じます、併し場合に依りましては、或は第一條第二項のやうなことをしなくても濟むやうな條約が結べるとすれば、其の場合には又別に考へなければならぬと思ひます

○高柳賢三君 自衞權を抛棄したと云ふ言葉は、是は自衞の名の下に所謂國策の手段としての戰爭が行はれる國際間の通弊に照して爲されたものと云ふ御説明がありましたが、其の通りでございませうか

○國務大臣(金森徳次郎君) 全く其の通りでありまして、從つて第一項で正式に自衞權に依る戰爭は抛棄して居りませぬ、併し第二項に依つて實質上抛棄して居る、斯う云ふ形になります

○高柳賢三君 共同制裁を目的とした戰爭への加入と云ふものを封じて居ると云ふことは、共同制裁と云ふものを目的とする、戰爭も矢張り國策の手段として行はれると云ふ弊害に照してなされたものと見て宜いか、即ち自衞權或は共同制裁と云ふやうな名目の下に戰爭が行はれるのであるけれども、それは名目であつて戰爭其のものがいけないのである、戰爭其のものが人類の福祉に反すると云ふ根本思想に此の規定は基くのではないか、其の點を御説明願ひたい

○國務大臣(金森徳次郎君) 是も實際の具體的な形を想定しないと正確には御答へ申し兼ねるのでありますけれども、普通の形を豫想しますれば御説の通りと考へます

○高柳賢三君 國際聯合の憲章と云ふものは、是は自衞戰爭、それから共同制裁としての戰爭と云ふものを認めて居るのでありますが、此の改正案は其の孰れを斷乎拜撃せむとするのである、從つて國際聯合憲章の世界平和思想と、改正案の世界平和思想とは、根本的に其の哲學を異にするものであると云ふ風に思ひますが、其の點はどうでありませうか

○國務大臣(金森徳次郎君) 國際聯合の趣旨と此の條とが如何なる點に於て違つて居るか、同じであるかと云ふことに付きましては、必ずしも一括して之を解決することは出來ないと思つて居ります、此の案は國際聯合の規定して居りまする個々の趣旨を必ずしも批判することなくして、日本自身が適當と認むる所に於て限界を定めて規定をした譯であります、衆議院に於きましても、其の關係に於きまして御質疑があつて、國際聯合に入る場合に於て、何處かに破綻を生ずるのではないかと云ふやうな御尋がありました、政府の只今の考へ方は、自分達の見て正しいと思ふ所に規定を置きましたから、それより起る國際聯合との關係は別途將來の問題として必要があれば研究すべき餘地があると思ひます


○高柳賢三君 次に第三國の間に戰爭が勃發した場合に、日本の中立の問題が起りますが、中立國と云ふものは中立國としての義務がある、例へば一方の交戰國の飛行場を日本に作らせると云ふやうなことをしてはいかぬ、或は海軍根據地を提供してはいかぬと云ふやうな義務を中立國として當然負ふことになると思ひますが、日本は武力を全然抛棄した場合に於きましては、此の中立國の義務は、實質上に於て履行すると云ふことは出來なくなり、從つて他の交戰國は一方の交戰國に對してさう云ふことを許したと云ふので、同樣なる行爲を報復的にやると云ふやうな状態になつて、其處で日本が戰場化すると云ふやうな危險が相當濃厚ではないか、其の點を一應御説明を御願ひ致します

○國務大臣(男爵幣原喜重郎君) 一言私の意見だけを申上げます、是から世界の將來を考へて見ますると、どうしても世界の輿論と云ふものを、日本に有利な方に導入するより外仕方がない、是が即ち日本の安全を守る唯一の良い方法であらうと思ひます、日本が袋叩きになつて、世界の輿論が侵略國である、惡い國であると云ふやうな感じを持つて居ります以上は、日本が如何に武力を持つて居つたつて、實は役に立たないと思ひます、我等の進んで行く途が正しければ「徳孤ならず必ず隣りあり」で、日本の進んで行く途は必ずそれから拓けて行くものだと私は考へて居るのであります、只今の御質問の點も私は同樣に考へて居るのぢあります、日本は如何にも武力は持つて居りませぬ、それ故に若し現實の問題として、日本が國際聯合に加入すると云ふ問題が起つて參りました時は、我々はどうしても憲法と云ふものの適用、第九條の適用と云ふことを申して、之を留保しなければならぬと思ひます、是でも宜しいかと云ふことでありますれば、國際聯合の趣旨目的と云ふものは實は我々の共鳴する所が少くないのである、大體の目的はそれで宜しいのでありますから、我々は協力するけれども、併し我々の憲法の第九條がある以上は、此の適用に付ては我々は留保しなければならない、即ち我々の中立を破つて、さうして何處かの國に制裁を加へると云ふのに、協力をしなければならぬと云ふやうな命令と云ふか、さう云ふ註文を日本にして來る場合がありますれば、それは到底出來ぬ、留保に依つてそれは出來ないと云ふやうな方針を執つて行くのが一番宜からう、我々は其の方針を以て進んで行きますならば、世界の輿論は翕然として日本に集つて來るだらうと思ひます、兵隊のない、武力のない、交戰權のないと云ふことは、別に意とするに足りない、それが一番日本の權利、自由を守るのに良い方法である、私等はさう云ふ信念から出發致して居るのでございますから、ちよつと一言附加へて置きます

○高柳賢三君 能く分りました、最後に此の條項は國に關する規定でありますが、國民に付ても此の同じ精神で、例へば他國間に戰爭がある場合に於て其の一方の國の軍隊と云ふものに入つて戰爭をやると云ふやうなことは之を禁止する、丁度「イギリス」の「フォーレン・エンリストメント・アクト」と云ふのが千八百七十年でしたかの法律でありますが、それと同種類のやうな法律と云ふものを拵へて、日本人が外國の軍隊に入つて外國の武器を使つて戰爭をすると云ふやうなことをもしないやうにすること迄國内法的に徹底させると云ふことが此の憲法の精神の上から必要であると思ふのが、其の點に付てどうでせうか

○國務大臣(金森徳次郎君) 今御示のありました處は全く同感でありまして、必要に應じて機宜の措置を法律的に設けることは心掛けて居る處でございます





○佐々木惣一君 私の戰爭抛棄と云ふ午前に御伺ひしましたことは實は時間上非當に端折つてやつたのですが、併し只今高柳さんからの質問及び之に對する御答辯で實は私が言はなくても宜かつたと云ふことをはつきりしましたが、唯此の戰爭抛棄の問題は一面外國、詰り國際的と、それから一面國内的と兩面に亙りますから非常に複雜な問題が起るのであります、それで實は今私が午前に御尋ね致しましたのは、詰り目下國際聯合と云ふやうなこととの關聯に於て日本が何かそれに對して働き掛ける、意思表示をすると云ふやうなことがないかと云ふ風に申上げたのは、結局入つても入れないことになる、入つても役に立たないですから、共同制裁の戰力に加入すると云ふことが出來ないことになりますから、それは併し今幣原國務大臣の御答辯でさう云ふ事情を言うて、と云ふことになりまして、それは非常に宜いですけれども、其の事情を言ふと云ふことが、併しながら前以て言ふのですか、國際聯合に入るとか入らぬとか云ふことが具體的に問題になつた時に至つて言ふのであるか、さう云ふやうなことはまだ問題として殘つて居ります、それは例へば今の、詰り外交關係に日本が認められるやうになつてから言ふのであるか、それ前に今でも言ふのであるかと云ふやうなことがまだ殘つて居りますけれども、それはまあ御尋ね致しませぬ、それよりも一つもう一點御尋ね致したいのは、詰り外國から不當に戰爭でも日本に挑んで來ました時に、それでも今の不戰條約に依ると云ふと、さう云ふ即ち「セルフ・デフェンス」の手段としての戰爭抛棄は是は決して許されぬのではない、牢固として殘つて居るんだと云ふ意味であるやうであります、さう云ふ許された客觀的に誰が見ても許されるやうな「セルフ・デフェンス」と考へられるやうな時でも、日本は國内的にはどうも今の憲法の規定があつて戰爭することが出來ないと云ふ状態に今置かれて居る、私は其の時に、今度國際關係でなしに國内の國民がさう云ふ場合にどう云ふ感じを持つであらうかと云ふやうなことも懸念をして晝前御尋ねしたのでありますが、其處迄言ふ時間がなかつた、そこで誰が見ても客觀的に日本が攻められることが不當である、日本を攻めることが不都合だ、許されることではない、從つて日本から言へば「パーミシブル」に許された「セルフ・デフェンス」と云ふ時でも、尚憲法の規定に依つてじつとして居らなければならぬと云ふ、さう云ふ場合が出て來ると云ふことは考へられるのですが、國民はどう云ふ感じを持つだらう、斯う云ふことをちよつと御尋ね致したいのであります、晝迄の問題に關係するから金森國務大臣に…さう云ふ時に果して國民はそれで納得するだらうかと云ふやうなことですが

○國務大臣(金森徳次郎君) 此の第二章の規定は實は大乘的にと云ふことを繰返して言ひましたし、本當に捨身になつて國際平和の爲に貢獻すると云ふことでありますから、それより起る普通の眼で見た若干の故障は豫め覺悟の前と云ふ形になつて居る譯であります、從つて今御示になりましたやうな場合に於て自衞權は法律上は國内法的に行使して、自衞戰爭は其の場合に行ふことは國内法的に禁止されて居りませぬけれども、武力も何にもない譯でありますから、事實防衞は出來ない、國民が相當の變つた状況に置かれるやうになると云ふことは、是は已むを得ぬと思ふ譯であります、併し其時に國民が何とか考へるであらうと云ふことは、今から架空に豫想することは困難でありますが、國民亦斯くの如き大きな世界平和に進む其の道程に於て若干の不愉快なことが起つて來ることは覺悟して、之を何等か適切な方法で通り拔けようとする努力をするものと考へて居ります






○子爵織田信恒君 私は實は先程牧野委員の御質疑の關聯質問として御尋ね致したいと思ひますが、議事の進行を御妨げしてはいけないと思ひまして、御遠慮して最後に廻して戴いたのであります、それは牧野委員がさつき御述になりまして、其の後他の委員からも質問が出たのでありますが、戰力と云ふ言葉の内容であります、大體武力と同じやうに使つて居ると云ふ話でありまするが、戰力と云ふのはどう云ふ意味を持つて居りませうか、纒めて私の方から御尋ねして御答辯の便利を圖りたいと思ひますが、或一つの兵器、科學的兵器と云ふものと、それに伴ふ戰爭を目的とした組織體、それを合せたものが戰力と言ふのでありませうか、それが一つ、それから次には戰力と云ふものが今假定しましたやうなことにして、武器の内容と云ふものが特に科學文明の或一定の文化を中心にして、それを兵器と申しますのですか、例へばさつき牧野委員の御話に竹槍を持つて行つてやるのも武力だと云ふやうな御話がありましたが、そこ迄廣く廣範圍に見るのですか、近代科學文化を目標にして或一つの兵器と云ふものから考へるものでありますか、是は矢張り將來の取締に影響すると思ふのでありますが、如何でありますか、先づ其の二點を伺つて置きます

○國務大臣(金森徳次郎君) 此の戰力と申しますのは、戰爭又は之に類似する行爲に於て、之を使用することに依つて目的を達成し得る一切の人的及び物的力と云ふことにならうと考へて居ります、從つて御尋になつて居りまする或戰爭目的に用ひることを本質とする科學的な或力の元、及び之を作成するに必要なる設備と云ふものは戰力と云ふことにならうと思つて居るのであります、又次に竹槍の類が問題になりましたが、斯樣な戰力と云ふものは、其の國其の時代の文化を標準として判斷をしなければならぬのでありますから、臨時に拵へた竹槍と云ふものは戰力にはならぬものと實は思つて居ります

(中略)

○國務大臣(金森徳次郎君) 仰せになりました所は、大體のと言ひますか、事柄としては其の通りであります、唯私の方の説明が第一項では自衞戰爭は出來ることになつて居ります、第二項では出來なくなる、斯う云ふ風に申しました、第九條の第一項では自衞戰爭が出來ないと云ふ規定を含んで居りませぬ、處が第二項へ行きまして自衞戰爭たると何たるとを問はず、戰力は之を持つていけない、又何か事を仕出かしても交戰權は之を認めない、さうすると自衞の目的を以て始めましても交戰權は認められないのですから、本當の戰爭にはなりませぬ、だから結果から言ふと、今一項には入らないが、二項の結果として自衞戰爭はやれないと云ふことになります

○子爵大河内輝耕君 能く意味は分りましたが、私の伺ふ所は國際的に考へても日本は自衞戰爭はやれない、戰爭は一切やるべきものでないと云ふやうな風に國際の形勢の動き方からさう云ふ風に見るのが穩當ぢやないかと斯う云ふ意味なんです

○國務大臣(金森徳次郎君) 其の點は今ちよつと私から右と申しても左と申しても結果が恐しいものですから御答へ出來ませぬ、常識として此の憲法が認めるやうな趣旨だらうと思つて居ります




何か、法学者が後付けで都合のよい解釈論を引っ張り出してきたかのような、無益な批判が多いわけであるが、制定前の当時の議論において、ほぼ論点は出尽くされている感があり、それは、当時の人々の見識が今よりも優れていたからであろう、という印象を受けるわけである。


政府答弁、大臣の政府見解が、こうなっているものなのであるから、最初から「戦争放棄=自衛権が放棄された」という解釈論を意図して制定していたものではないことは、明らかなのである。


自衛権と国際法上の論点というのも、当然に議論されており、当時の人々は不戦条約を批准するかどうか、に伴う国際法上の解釈論に詳しかったものと見える。当然、軍隊の運用を念頭に置くならば、国際法に精通しているべき義務があったから、とも言えよう。現代の日本では、そのような素養は欠片も感じられない。

軍隊の運用も、原発の運用も、大差なのものなのだ。危険なものを管理するべく能力が、日本人には決定的に欠如している。



※要点:

※3  9条1項は、自衛権を放棄していない、自己防衛の為戦うことも否定していない、というのが制定趣旨であることを、政府も帝国議会でも十分認識した上で、憲法改正を行った




日本国憲法と第9条に関する論点整理~3

2016年05月16日 14時50分55秒 | 法関係
今の日本の国会議員たちのレベルがいかに低いものであるか、ということが如実に顕われているだろう。国会議員だけじゃなく、一般の有識者というレベルにおいても、はるかに賢かったのではないかとさえ思う。


3 自衛権の論点は、制定前から分かっていた

前項の記事で、衆議院での審議が始まる前の世論調査において、一般人からの回答で自衛権の論点が出されていたのであるから、憲法制定後になってから自衛隊の違憲問題を処理する為に生み出された論法ではない、ということは確実である。

つまり、最初は自衛権も全部なかったものとして制定したのに、自衛隊を持つことになったものだから、憲法解釈を捻じ曲げて都合よく解釈変更したんだ、というような批判は、全くの出鱈目である、ということだ。

当時の人々は、既に現代の人間が言い出すようなことは、とっくの昔に知っていたんだ、ということである。


 1)帝国議会での議論ではどうだったのか

世論調査でも出された論点であるから、議会でも議論の俎上に上らないはずがなかった。国連憲章の文言も、51条は勿論、その他の条章も相応に理解されていたということである。


以下、かなり長文ですが、ご容赦を。当時の息吹と言いますか、議員の見識とか困難な課題を目の前にした議会の努力が伝わってきます。



7月9日衆議院 帝国憲法改正案委員会

○藤田委員 それでは行政組織の問題に付きましては是は後廻しに致します、戰爭抛棄の問題に關しまして實は總理からも御説明があつたのでありまするが、若干御質問したい點がありますので、總理がおいでにならなければ、關係の大臣から御話を戴きたいと思ひます、憲法草案第二章の戰爭抛棄が制裁としての戰爭、自衞としての戰爭を含むのかと云ふ點に關する質問であります、詰り第二項の交戰權の否認と云ふことは、是等制裁の戰爭或は自衞の戰爭をなす場合にも、之を含んで居るのかと云ふ解釋上の問題であります、或る國家が他の國家に對して違法に戰爭に訴へて、第三國が此の後者を援助して前者に對抗して戰爭を行ふ場合には此の第三國に取つて其の戰爭は制裁の戰爭として認められるのであります、制裁の戰爭は適法な戰爭でありまして、それは特定の國家の利益を増進する爲の手段としての戰爭でもなければ、又粉爭解決の手段としての戰爭でもないのでありまして、隨てそれは不戰條約に依つて禁止された戰爭ではないのであり、此のことは國際法上一般に諒解されて居るのであります、然らば斯樣な制裁としての戰爭をも否認すると云ふのは如何なる理由に基くものであるか、是が一點、又一般に自衞行爲は適法な行爲であつて、自衞の戰爭もそれが自衞行爲である限りに於ては當然に適法であります、不戰條約に依つても、國家の政策の手段としての戰爭、紛爭解決の手段としての戰爭が禁止されて居るのみでありまして、自衞の爲の戰爭は特定の國家の利益を増進する爲の戰爭でもなければ、又紛爭解決の手段としての戰爭でもないのであつて、斯樣な戰爭が一般に國際法上適法であることは諒解されて居る所であります、然るに政府は此の自衞の戰爭を否認する理由として、七月四日の此の委員會の席上で、吉田首相は、自衞權に依る戰爭を認めると云ふことは、其の前提として侵略に依る戰爭がある、詰り違法の戰爭と私は解釋するのでありますが、侵略に依る戰爭が存在することになる、而も若し侵略に依る戰爭が將來起つたならばそれは國際平和團體に對する冒犯であり、謀叛であつて、世界の平和愛好國が擧げて之を壓伏するのであるから、其の意味よりすれば交戰權に、侵略に依る戰爭、自衞の戰爭を擧げる必要はない、又自衞の戰爭を認めると云ふことは從來兎角侵略戰爭を惹起する原因となつたのであるから、自衞に依る戰爭と云ふものも否定したのだと云ふ御説明があつたのでありまするが、私は他國との粉爭の解決の手段としての戰爭を永久に抛棄すると云ふ此の第九條第一項は洵に結構であると考へるのでありまするが、第二項の交戰權の否認がなぜ制裁としての戰爭或は自衞の戰爭をも含まなければならぬか解釋に苦しむのであります、勿論戰爭は兵力に依る鬪爭でありまして隨てそれは双方的の行爲であり一方的の行爲は戰爭を構成せず、一方の兵力が他方の領域に侵入しても、他方が之に抵抗しないか、或は戰爭宣言をしない限りは戰爭は生じないのでありまするが、一方戰爭宣言があれば鬪爭がなくても戰爭状態に入り得るのであります、なぜならば戰爭は鬪爭其のものではなく、鬪爭を中心とした状態であることは、國際法上一般に認められて居る所でありまして、隨て日本が事實上陸海空の戰力を保持しないと云ふことは、斯樣な制裁の戰爭なり或は自衞の戰爭、詰り交戰權を直ちに否認しなければならぬ理由とはならぬと考へるのであります、若し交戰權の否認が制裁としての戰爭をも含む、詰り違法な戰爭當事國に對して其の違法な戰爭當事國に對する制裁の戰爭に參加出來ないと云ふことになるならば、日本は違法な戰爭當事國に對する戰爭裁判を請求する權利を留保しなければならぬ、同時に日本國は第三國間に於ける如何なる戰爭にも事實上參加しないし又參加させられないと云ふ保障を確保しなければならぬと考へるのであります、又自衞の爲の戰爭をも一切禁止する理由として、先程引用しましたやうに、國際平和團體に對する冒犯に對しては、世界の平和愛好國が擧げて之を壓伏する、隨て自衞の戰爭は要らないと云ふのでありまするが、將來平和愛好國として發足した日本に對する假に違法な戰爭が仕掛けられた場合には、世界の平和愛好國が此の違法な戰爭挑發者に對して之を壓伏すると云ふことは、日本に對して如何樣な形で實現されるか換言すれば我が國の獨立と安全は他の諸國家に依つて保障されなければならぬのでありますが、交戰權否認に付ての憲法の規定は、如何にして國際法上の安全保障と直結するかと云ふ問題であります、草案に付て見れば、草案の前文に「我らの安全と生存をあげて、平和を愛する世界の諸國民の公正と信義に委ねようと決意した。」とあるのでありまするが斯樣な日本國憲法に於ける決意だけでは、何等國際法上の權威たり得るものではないのでありまして、國際法團體に依る安全保障制度の全貌、其の中に占める日本國の地位に付て、政府は如何なる具體的な努力をして居られるか、或は國際聯合に參加すると言ひ、或は國際安全保障の憲章に依つて日本は安全保障を受けるのだと言ひますが、如何なる具體的な努力をして居られるか、若し第二項の交戰權の否認が制裁としての戰爭、自衞としての戰爭も抛棄するならば、如何にして我々の生存と安全とを保障するか、國際法上の單なる國内事項に過ぎない所の日本の憲法に依り、それを否認したからと云つて國際法上當然我々の安全が保全されたとは言へないのであります、如何なる努力をされて居るか、斯樣な畫期的な規定を挿入されるからには相當具體的な根拠と自信があられなければならぬと考へるのでありまして其の點に付ての御考へを承りたいのであります

○金森國務大臣 憲法第九條の前段の第一項の言葉の意味する所は固より自衞的戰爭を否定すると云ふ明文を備へて居りませぬ、併し第二項に於きましては、其の原因が何であるとに拘らず、陸海空軍を保持することなく、交戰權を主張することなし云ふ風に定まつて居る譯であります、是は豫ね豫ね色々な機會に意見が述べられました通り日本が捨身になつて、世界の平和的秩序を實現するの方向に土臺石を作つて行かうと云ふ大決心に基くものである譯であります御説の如く此の規定を設けました限り、將來世界の大いなる舞臺に對して日本が十分平和貢獻の役割を、國際法の各規定を十分利用しつつ進むべきことは、我々の理想とする所である譯であります、併し現在日本の置かれて居りまする立場は、それを高らかに主張するだけの時期に入つて居ないと思ふのであります、隨て心の中には左樣な理想を烈しく抱いては居りますけれども、規定の上には第九條の如き定めを設けた次第でございます

○藤田委員 是は私の希望でありまして、由來國際法上の條約にしましても、是は必要の前には常に蹂躪されて參つたのでありまして況んや日本國の憲法に於て國際法上の國内事項に過ぎない日本國の憲法に於て、交戰權を否認して、捨身になつて世界の平和愛好諸國の中に入らうと云ふのでありまするから、將來、而も制裁としての戰爭、自衞としての戰爭も交戰權否認の名に於て捨てて掛らうと云ふのでありますから、將來違法なる戰爭當事國が生じた場合には、其の違法な戰爭當事國に對する戰爭裁判を請求するの權利、又戰力の國際管理に對する日本國の參加又日本國が將來第三國間に於ける戰爭に對しては事實上參加しないし、又參加させられないと云ふ保障を、政府は此の際是非憲法が實施されるまでには國民の前に公表して戴いて、眞に國民をして納得せしむるだけの措置を講ぜられんことを希望するのであります
 次に解釋の問題に付きまして、更に草案第九條第二項の交戰權の否認は、交戰團體に對する場合も適用されるかと云ふ問題であります、交戰團體は國際法上の交戰者としての資格を認められた叛徒の團體でありまして、一つの國家に於て政府を顛覆したり或は本國から分離する目的を以て叛徒が一定の地方を占め、自ら一つの政府を組織する場合に、斯樣な叛徒の團體に對して國際法上第三國が之を交戰團體として承認する場合があります、叛徒と政府の間の鬪爭は戰爭ではなくて内亂でありまするが、叛徒が第三國より交戰團體としての承認を受けた場合は、其の叛徒團體と政府の間は國際法上の戰爭關係になる、例へば斯樣な交戰團體が第三國に依つて日本國内に承認された場合に、政府は左樣な場合でも交戰權の否認を以て之に對處されるかと云ふ點に付て、解釋の問題として承りたいのであります

○金森國務大臣 第九條第二項の規定は、其の中の交戰權の問題は普通國際法上に認められて居ります交戰權を指して言つて居るのでありまして、隨て國内に成立することあるべき交戰團體に對しても此の規定は當嵌つて來るものと考へて居ります


(中略)

○芦田委員長 更に問題を具體的に考へまして、改正案第九條を檢討致しますと、ここに三つの問題があると思ひます
 第一は、法案第九條の規定に依れば、我が國は自衞權をも抛棄する結果となるかどうか、此の點は本委員會に於て多數の議員諸君より繰返し論議せられた點であります
 第二には、其の結果日本は何だか國際的保障でも取付けない限り、自己防衞をも全うすることが出來ないのか、延いて他國間の戰爭に容易に戰場となる虞はないかと云ふ點であります
 第三は、一切の戰爭を抛棄した結果、日本は國際聯合の加盟國として武裝兵力を提供する義務を果すことが出來ないから、國際聯合への參加を拒否せられる虞はないかと云ふ諸點であります
 以上の三點に付て國際聯合憲章の規定と照し合せて考へる場合、私は次の如き結論が正しいのではないかと思ひます、不幸にして自衞權の問題に付ての政府の答辨は、稍明瞭を缺いて居ります、自衞權は國際聯合憲章に於ても第五十一條に於て明白に之を認めて居ります、唯自衞權の濫用を防止する爲に、其の自衞權の行使に付ては安全保障理事會の監督の下に置くやうに仕組まれて居るのであります、憲法改正案第九條が成立しても、日本が國際聯合に加入を認められる場合には、憲章第五十一條の制限の下に自衞權の行使は當然に認められるのであります、唯其の場合に於ても、武力なくして自衞權の行使は有名無實に歸するではないかと云ふ論がありませう併しながら國際聯合の憲章より言へば、日本に對する侵略が世界の平和を脅威して行はれる如き場合には、安全保障理事會は、其の使用し得る武裝軍隊を以て日本を防衞する義務を負ふのであります、又我が國に對しましても自衞の爲に適宜の措置を執ることを許すものと考へて多く誤りはないと思ひます、此の點に付て政府の今日までの御答辨は、稍明瞭を缺くやに考へられますから、此の場合明白に其の態度を表明せられんことを希望致します(拍手)

○金森國務大臣 將來國際聯合に日本が加入すると云ふことを念頭に置きまする場合に、現在の憲法の定めて居りまする所と、國際聯合の具體的なる規定が要請して居りまする所との間に、若干の連繋上不十分なる部分があることは、是は認めなければならぬと思ひます、併しながら其の時に何等かの方法を以て此の連絡を十分ならしるむ措置は考慮し得るものと考へて居りまして、必要なる措置を其の場合に講ずると云ふ豫想を持つて居ります

○芦田委員長 法第九條に關する第三の點、即ち日本が一切の戰力を廢止する結果、國際聯合國としての義務を果し得なくなるから、聯合加盟を許されないかも知れないと云ふ論、餘りに形式論理的であります、日本が眞に平和愛好國たる事實を認められる場合には、斯かる事態はあり得ないと考へて間違ひはないと思ふのであります何れに致しましても本改正案の目標は、我が國が國際聯合に加盟することに依つて初めて完全に貫徹し得るものであることは明かであらうと思ひます、けれども問題はそればかりで終るのではありませぬ、日本が平和國家、文化國家として内外に認められるに至るには、我が國民の間斷なき努力を必要とするもとと信じます、私は最近文化國家と云ふ文字が、餘りに手輕に易々と叫ばれることに不安の念を抱くものであります、一つの民族の實力、世界に於ける地位民族生存の意義、人類に對する責任、總て是等が文化にあると云ふことは、心ある者の皆知る所であります、然るに日本の今日に立至つたのは、現代に住む我々日本人が歴史最大の過ちを犯したと云ふのは、全く日本の文化の程度が低く、其の内容が貧弱であり、又文化の精神と本質とが國民に十分理解せられて居なかつたことに基くものであると信じます(拍手)此の憲法改正案を提案された吉田内閣は、單に紙に書いた案文を議會に呑込ませることを以て責任が終るのではありませぬ此の憲法の目指す方向を國民に理解させ、憲法改正の裏付けとなるべき國民文化の向上に渾身の努力を致さるべきであると思ひます(拍手)それのみが戰爭の勃發を防止する方法であるとさへ信ずるのであります、吉田内閣は此の畫期的な時期に國民指導の大責任を負うて政府に立たれました、此の機會にこそ閣僚諸公は奮起して國民の自覺を呼び起し、世界に呼び掛けて國際平和の實現に挺身せらるべきであると思ひます、然るに憲法改正案の審議に於てさへ、閣僚諸公の熱意は甚だ上らざるが如くに見えまするが故に、此のことは決して國民を安堵せしむる所以ではないと思ひます、幸ひ吉田内閣には多年憲政の爲に盡瘁せられた多くの政治家を持つて居られる是等の政治家が眞に其の熱意と其の氣魄とを以て國民の指導に當られることは、我我の日夜念願致して居る所であります、之に付て政府より答辨を得ることは期待致して居りませぬ、併しながら若し何等か此の際其の所信を御表明下さるならば、喜んで拜聽致したいと思ひます(拍手)

○金森國務大臣 總理大臣から御答辨を願はうと思つて居りましたが、私が此の問題に付きまして、當面の責任の地位に立つて居りまするが故に、一言御答へする御許しを願ひたいと存じます、此の憲法は御覽の如く、又御承認を多分は載いて居るかの如く、何千年の歴史を經過致しました日本に於て、未だ曾て考へられたこともない大いなる變革を齎すものであります、我々は單に變革を齎すことを目的として居るものではない、眞に此の變革の現實の效果を世界の舞臺に於て、又日本國民の爲に完全に遂行して、有終の美を遂げたいと思ふのでありまして、此の憲法の草案は、是は確かに「インク」を以て書かれて居るものでありますけれども、私共の立場から申しますれば、全精神を以て之を文字に表はしたものと信じて居るのでありまして、今委員長から御話になりました點は、今までの私共の態度が惡かつたかも知れぬ、或は努力が足りなかつたかも知れませぬが、内心は決してさうではない、十分此の憲法を實現し、同時に日本全局の文化國家建設の一路に、唯私一人の立場をここに挟んで申しますれば、捨石の捨石となつても宜しいと云ふ信念の下に臨んで居る次第であります(拍手)



ここでも「文化国家」なる文言が出るわけですが、日本が戦後に目指したのは、軍事国家や覇権国家などではなく、平和と安全を大事にする文化国家だったのだ、ということです。包丁もそうすると、「文化包丁」ということになるくらいの、安全を求める国、国民に生まれ変わりましょう、とそういうことだったのです。ふざけすぎました。

ただ、自衛権は放棄してないんだ、と。けれども、裸一貫なんだから、戦力はないので、現実問題として軍もないわけだし、軍備もないから行使できない「見えない権利」みたいなものであり、交戦権もない、と。そういうことにならざるを得ないんだ、と。
こんな話は、制定前の最初っから分かっていたことだったのです。



1946年8月25日 衆議院本会議

○芦田均君 本日いとも嚴肅なる本會議の議場に於て、憲法改正案委員會の議事の經過竝に結果を御報告し得ることは深く私の光榮とする所であります
 本委員會は六月二十九日より改正案の審議に入りまして、前後二十一囘の會合を開きました、七月二十三日質疑を終了して懇談會に入り、小委員會を開くこと十三囘、案文の條正案を得て、八月二十一日之を委員會に報告し、委員會は多數を以て之を可決致しました、其の間に於ける質疑應答の概要竝に修正案文に付て説明致します
(中略)

「第二章戰爭の抛棄」に付て説明致します、改正案第二章に於て戰爭の否認を聲明したことは、我が國家再建の門出に於て、我が國民が平和に對する熱望を大膽率直に表明したものでありまして、憲法改正の御詔勅は、此の點に付て日本國民が正義の自覺に依り平和の生活を享有することを希求し、進んで戰爭を抛棄して誼を萬邦に修むる決意である旨を宣明せられて居ります、憲法草案は戰爭否認の具體的な裏付けとして、陸海軍其の他の戰力の保持を許さず、國の交戰權は認めないと規定して居ります、尤も侵略戰爭を否認する思想を憲法に法制化した前例は絶無ではありませぬ、例へば一七九一年の「フランス」憲法、一八九一年の「ブラジル」憲法の如きであります、併し我が新憲法の如く全面的に軍備を撤去し、總ての戰爭を否認することを規定した憲法は、恐らく世界に於て之を嚆矢とするでありませう(拍手)近代科學が原子爆彈を生んだ結果、將來萬一にも大國の間に戰爭が開かれる場合には、人類の受ける慘禍は測り知るべからざるものがあることは何人も一致する所でありませう、我等が進んで戰爭の否認を提唱するのは、單り過去の戰禍に依つて戰爭の忌むべきことを痛感したと云ふ理由ばかりではなく、世界を文明の壞滅から救はんとする理想に發足することは言ふまでもありませぬ(拍手)
 委員會に於ては此の問題を繞つて最も熱心な論議が展開せられました、委員會の關心の中心點は、第九條の規定に依り我が國は自衞權をも抛棄する結果となるかどうか、自衞權は抛棄しないとしても、軍備を持たない日本國は、何か國際的保障でも取付けなければ、自己防衞の方法を有しないではないかと云ふ問題、竝に我が國としては單に日本が戰爭を否認すると云ふ一方的行爲のみでなく、進んで世界に呼び掛けて、永久平和の樹立に努力すべきであるとの點でありました、政府の見解は、第九條の一項が自衞の爲の戰爭を否認するものではないけれども、第二項に依つて其の場合の交戰權も否定せられて居ると言ふのであります、之に對し委員の一人は、國際聯合憲章第五十一條には、明かに自衞權を認めて居り、且つ日本が國際聯合に加入する場合を想像するならば、國際聯合憲章には、世界の平和を脅威する如き侵略の行はれる時には、安全保障理事會は其の兵力を以て被侵略國を防衞する義務を負ふのであるから、今後に於ける我が國の防衞は、國際聯合に參加することに依つて全うせられるのではないかとの質問がありました、政府は之に對して大體同見である旨の囘答を與へました、更に第九條に依つて我が國が戰爭の否認を宣言しても、他國が之に贊同しない限り、其の實效は保障されぬではないかとの質問に對して、政府は次の如き所見を明かに致しました、即ち第九條の規定は我が國が好戰國であるとの世界の疑惑を除く消極的效果と、國際聯合自身も理想として掲げて居る所の、戰爭は國際平和團體に對する犯罪であるとの精神を、我が國が率先して實現すると云ふ積極的效果があり、現在の我が國は未だ十分な發言權を持つて、此の後の理想を主張し得る段階には達して居ないけれども、必ずや何時の日にか世界の支持を受けるであらうと云ふ答辨でありました、委員會に於ては更に一歩を進めて、單に我が國が戰爭を否認すると云ふ一方的行爲のみを以ては、地球表面より戰爭を絶滅することが出來ない、今日成立して居る國際聯合でさへも、其の組織は戰勝國の平和維持に偏重した機構であつて、今尚ほ敵味方の觀念に支配されて居る状況であるから、我が國としては、更に進んで四海同胞の思想に依る普遍的國際聯合の建設に邁進すべきであるとの意見が表示せられ、此の點に關する政府の努力に付て注意を喚起したのでありました。



後日、法学の世界において「芦田修正」と言われる、9条の文言変更が話し合われたとされるのが、憲法改正委員会と小委員会だったが、その概要が説明されているものである。



同年9月3日 貴族院本会議

松本学

次に御伺したいことは、戰爭抛棄のことであります、戰爭抛棄と世界平和との關係のことに付て本會議の質疑應答の中で、疑を持つたのであります、本會議での質問に對しての御答辯は將來國際聯合に加入するのだと云ふことが一つと、それから幣原國務相からは戰爭は廢めるけれども、文化國家としての國内文化から強化して行く、又林伯爵の御質問に御答になつて、鬪爭の本能と云ふものもそれに依つて滿足させるやうにするのだ、斯う云ふやうな御答であつた、私は是だけではどうも滿足がいかない、國際聯合加入と云ふことになりますと、是は無論將來のことでありまして、是には自衞權と武備と云ふものが條件として加はるのではないかと思ひますが、此の點は私は詳しくは存じませぬので、其の加入すると云ふ時に當つて、全然自衞の武備を持たない國家として容易く入り得るかどうかと云ふことに疑問を持ちます、それから國内宣言として國内に向つて戰爭の抛棄をした、さうして文化國家として起つたのだから國民も其の積りでやれと云ふことだけでは、どうも何だか戰爭抛棄の大きな理想は十分でないと思ふ、苟くも戰爭抛棄と云ふやうな劃期的な世界を驚かすやうな宣言を爲さる、是は憲法の第九條と云ふ一條項でありますけれども、是は世界に向つての宣言だと思ふ、日本國の名譽に懸けての大宣言であります、此の大宣言を爲さる以上は國際聯合に加入して貰ふのだ位では濟まぬ、適當な時が來たならば國際聯合に入れて貰ふ前提にやつたと云ふことだけでは濟まぬと思ふ、又國内の文化力を強化すると云ふことだけでも片附かぬことである、世間では之を「アメリカ」なんかでも「ユートピア」と批評して居る、成る程さうでありませう、「アメリカ」人から見れば斯んなに慘敗をして立つことも出來ぬやうな國情になり、全部の武備は剥ぎ取られてしまつて居る、無防備な、武備なき日本國民が戰爭抛棄なんと云ふことは是は負惜しみを言つて居るのだ曳かれ者の小唄のやうなものだ、自分で實力を持つて居つて、其の實力を持つて居りながら戰爭を抛棄するぞと言ふのならば成る程と言ひませうけれども、實力のない四等國、五等國になつた最も弱い此の日本國家が斯う云ふ理想を言つた所で、誰も納得する者はなくして、「ユートピア」と言ふのは是は無理もありませぬ、私は恐らく是だけの世界に向つての大宣言を爲さつた以上は政府に於て必ずや世界平和への何かの具體案を持つておいでになるのだらうと思ふ、具體案なくして俺は戰爭を廢めたと言つたのでは世界の物嗤ひになる、私は繰返して申しますが、第九條は決して一日本國憲法の一條項ではありませぬ、世界に向つての大宣言であります、世界人類の幸福の爲に日本國民が本當の眞心から出た叫び聲であらうと思ふ、さうであるならば何か具體案を持つて居るに違ひない、文化國日本として世界人類、文化の爲に貢獻するに付て戰爭と云ふやうなものは廢める、そして斯くの如き具體案に依つて世界に呼び掛けるぞ、君方贊成するかせぬか、斯う云ふ何か腹案を持つて居るのだらうと私は思ふ、それがなくして唯空念佛のやうなことを仰しやつて居るのではないか、數年前確か昭和十三年だつたと思ひますが「ローズヴェルト」夫人「ミセス・ローズヴェルト」が、「ザ・トラブルド・ウァールド」と云ふ小さい「パンフレット」を著はしました、是は例の第二次世界大戰が將に始らむとして居るあの不安な世界情勢の中で此の著書を出したのでありますが、其の中い書いてありますことは、世界の平和と云ふものは人間性の根本的改革が起らなければいかぬのだ、さうして「ブラザーフッドラヴ」兄弟愛と云ふものを基本に置いて世界人類が結んで、茲に初めて國際平和と云ふものが出來るのであつて、其の具體的な方法として紛爭等が起つた場合の解決策としては國際結合を強化しなければならぬと云ふやうな意味の小さい「パンフレット」であります、斯う書いて居られるのであります、斯う云ふやうな一つの考へ方が或は國際聯合の因を成して居るのではないか、即ち「ミスター・ローズヴェルト」があの當時頻りに國政の上に表はして居つたことが「ミセス・ローズヴェルト」の此の著書にも反映して居るやうに私は觀た、是も一つの案で、具體案のない嘲りを受けるよりも同じ「ユートピア」と片附けられるにしても、斯く我は信ずると云ふ具體案を持つて「ユートピア」と嗤はれるならば其の方が宜い、此の「ローズヴェルト」大人の説などは觀樣に依つては「ユートピア」夢かも知れない、併しながら私は夢を説くことが必要だと思ふ、殊に今日の此の世界情勢に處して、此の日本の難局を切り拔けて行かうとする時の政治家は夢を持たなければなりませぬ、其の日其の日の出來事を唯片附けて行くとかと云ふことだけでは政治家の本當の素質ではない、夢を説き、「ユートピア」を説き、哲學を持たなければいかぬのであります、斯んな諺があります、「スティツマン・イズ・ザ・ウォーキング・フィロソフイア」政治家は歩いて居る所の哲學者である、是が私は必要だと思ふ、歩いて居る、活動する哲學者である、さうして夢を説かなければならぬ、夢を考へることが今日最も要求せられたる政治家ではないでありませうか、今から何百年かの前に、丁度「オランダ」が「イギリス」に段々と蠶食されて、「イギリス」の勢力が強くなつて「オランダ」が段々下火になつて行つた時に、「オープン・シー」に於て「イギリス」の權力が非常に盛んになつて、「オランダ」が壓迫された、其の當時國際法學者の「グローチウス」が公海の自由と云ふことを唱へたのであります、其の當時は物笑になりました、實力を持つて居る「イギリス」なんかからも一笑に附せられて居るのであります

此の公海の自由と云ふ「ユートピア」が二百年ばかりの後には、是が國際公法の原理になつた、今日具體案を御持ちになりますならば、其の具體案を世界に御發表になり、世界に呼掛けて戴くならば、今は「ユートピア」と云ふかも知れないが何百年かの後には恐らく國際公法の原理になるかも知れませぬ、其の意味に於て何か具體案を御持ちになつて居るかどうか、之を總理大臣から承りたい、前に私が御尋したことは金森國務大臣から伺つて結構であります、もうあと一つ二つありますから、あとで質問を御許し願ひたいと思ひます


○國務大臣(吉田茂君) 松本委員に御答へ致しますが、御質問の戰爭抛棄の條項に關して、私の説明が國際聯合に入る爲にあの條項を作つたと云ふやうな意味合のやうにも承りましたが、是は屡屡本會議其の他に於て申して居ります通り、所謂御話の、世界に先立つて戰爭を抛棄することに依つて平和日本の平和精神を徹底せしめる、世界に闡明せしめると云ふのに先づ趣意があるのでありまして、單に國際聯合に入る爲のみに此の條項を設けたのではない、是は松本委員に於ても無論御了承のことと思ひます、又此の條項を憲法に挿入した以上は、何か具體案を持つて居つての話であらうと云ふやうな御尋でありますが、政府と致しましては、現在の國際情勢及び將來の國際情勢を考へまして、斯かる戰爭抛棄の決意をすると云ふことが現在の國際情勢に合ひ、又將來國家として存置する爲にも宜しいと云ふ觀點から挿入致しましたので、偖今日に於て如何なる意味に、如何なる具體案を持つかと云ふ御尋に對しては、政府としては甚だ答辯に苦しむのであります、何となれば、政府と致しましては、政策と致しましては單に夢を見るばかりでなく、其の時其の時の状況に於て考を決めべきものであり、又今日の國際情勢及び將來の國際情勢は可なり複雜を極め、現に微妙を極めて居りますので、今日斯う云ふ案を持つて居る、斯う云ふ考を持つて居ると云ふことを、假にありました所が、發表することが宜いか惡いかと云ふ、國際關係もございますから、其の點に付ては説明を致し兼ねると御了承を願ひたいと思ひます、昨日松本委員から御尋があつたさうでありますが、それは植原、齋藤兩國務大臣から政治的方面、又は法理上乃至は倫理上方面から、各各國體に付ての表現に付て發表がありました、其の發表、表現は、説明の方法、表現の形等に於て色々異つては居りますが、其の間に政府と致しましては、從來金森國務大臣が説明し來つた所と結論に於ては相違ないと、斯う云ふ見解であるのであります、植原國務大臣は現行憲法第一條、第四條は主權の所在を定めて居るのではなく、統治權の所在を定めたものである、統治權の所在は改正案に依つて明瞭に變更されたさうでありますが是は金森國務大臣が繰返して述べて居らる、政體の變更、政體は變更されたと云ふ同一趣意と御承知を願ひたいと思ひます、又齋藤國務大臣が倫理上の意味に於ける國體は改正案に依つても變つて居ないと述べられたさうでありますが是は金森國務大臣の所謂國の根本特色と名付けられるもの、即ち國體と言はれるものであつて、兩大臣の意見、金森、齋藤兩大臣の意見に於ても相違した所はないと、斯う政府は考へるのであります、此の段御了承を願ひたい




これまでにも、ネトウヨ連中の如き人々が用いるのが、「ユートピア」だの「お花畑」だのという批判である。これは、制定前からよくありがちな批判的文言として、嘲る為に使い古された言い回しだということが、よく分かるだろう。


日本国民は、本当に進歩が止まってしまった、というより、不見識が過ぎるようになり、大きく後退しているようである。そして、かつては「有識階級」を構成していたであろう人々が、どんどん劣化してしまったということであろう。


つまりは、上がバカになった、ということであろうか。



日本国憲法と第9条に関する論点整理~2

2016年05月16日 13時21分30秒 | 法関係
続きです。

2 憲法改正の過程

 1)主な経過
日本の政治体制を大幅に変更する必要性が認識されていたことは間違いなく、天皇制を継続するか否かという大きな問題点も抱えたままであった。
恐らくはマッカーサー元帥の憲法改正の必要性があるとの認識の下、当時の幣原内閣に対し憲法改正への段取りを開始するよう、水面下での要請があったものと見てよいであろう。軍国主義に染まり切った日本を根底から変革したいという、政治勢力があったであろうことも想像できよう。

【1945年】

10月13日 憲法問題調査委員会の設置決定(幣原内閣)
10月   アチソン大使から12原則の指示が東久邇宮へ
10月27日 同委員会 第一回会合(担当 松本大臣)
11月1日 憲法改正指示を日本政府に実施した旨、総司令部声明
   (以後、東久邇宮、近衛らの憲法改正調査活動は頓挫)

【1946年】

1月7日 SWNCC-228
1月9日 松本大臣により松本私案
2月1日 松本草案 甲案 毎日新聞がスクープ報道
2月3日 マッカーサーノート(3原則)を尊重した草案作成命令
    (ホイットニー民政局長へ)
2月8日 松本大臣が「憲法改正要綱」をGHQに提出
2月10日 民政局作成の素案が完成し、元帥承認を受ける
2月13日 マッカーサー草案が日本政府に手交さる
2月22日 マッカーサー草案の採用を閣議決定
3月6日 「憲法改正草案要綱」を政府公表、GHQも賛意
4月10日 新方式の衆院選
4月17日 憲法改正草案の公表
4月22日 枢密院で憲法審議開始
6月8日 憲法改正草案、枢密院可決
6月25日 衆議院、政府提出案の審議開始
8月24日 衆議院 修正可決
8月26日 貴族院 審議開始
10月6日 貴族院 修正可決
10月7日 衆議院 貴族院修正に同意
10月29日 枢密院 可決
11月3日 公布


 2)手続の正統性と「1週間で」の批判が無効の意味

6月20日に国会召集された帝国議会の衆議院で審議されているので、手続上は法的に問題があるようには思われない。憲法改正は明治憲法73条に従い、実施されたものである。
また、GHQが一週間で作った(決めた)押し付け憲法である、という批判も、数か月に及ぶ帝国議会審議を経たものであるから、当たらないとしか思えない。

何故民政局が「不眠不休」でマッカーサー草案をこれほど急いで出したのか、ということの理由は、定かではない。連合4国の対日占領政策の最高意志決定機関となる極東委員会設置が決まっていたことと、その初回会合は2月26日だったのであり、マッカーサーないし米国の一部政治勢力がこれを知らなかったわけではないのかもしれない。
(後日談としては、マッカーサーも民政局内でも、極東委員会の件は承知していなかった、との証言が得られているが、当時(1950年代)には言う訳にはいかなかった、という事情があっても不思議ではないだろう)

米ソ関係からすると、米国が対日政策上でソ連より先行しておきたい、ということは確実だったわけであり、その為には親米的政治勢力の維持と西側体制に親和的な法体系を構築しておきたかった、という思惑があったとしても不思議ではない。つまり、極東委員会での2月末の会合前までには、日本政府の合意を取り付けておきたかったはず、ということである。


実際、極東委員会においては、中華民国が日本の軍備や政治面での軍人関与について、強い拒否を示していたことからして、日本の憲法制定に介入ないし干渉を極東委員会決定として指令してこないとも限らないわけである。そうした「米国以外の中ソの意向反映リスク」というものを回避しておこうと思えば、兎に角、既成事実としての憲法改正草案を日本政府に決定させておきたかった、ということではないか。


松本甲案の拒否は極東委員会の権限は及ばず、その日からマッカーサー草案を日本政府へ手交するまでたったの5日、マッカーサー草案作成着手から元帥承認まで7日という電光石火の早業は、どうしても26日までには政府決定を事実としておいて欲しかったからではないか、というのが個人的感想である。

毎日新聞のスクープは、旧体制の維持に過ぎない松本甲案など、反吐が出そうだという官僚諸君が存在していたとしても不思議ではなく、早々に断念させる(GHQに叩き切ってもらう)必要があったから、ということが考えられよう。
或いは、決定でも何でもないものなのに、こうなって欲しいという願望を込めて、打ち上げ花火として漏れ出た、ということもあるかもしれない。


いずれにせよ、この報道があったことにより、マッカーサーが「このまま日本人に任せておくと、全然ダメだわ」と確信し、なら自分でやるわということで、民政局の部下に命じて突貫工事で作らせることになったわけである。時間的にはギリギリだったわけで、8日に政府案を受け取ってから民政局で作業開始だと26日には間に合ってたかどうか。

マッカーサー草案がいかに短時間で作成されたにせよ、その後の議会審議時間は長かったわけであり、修正が不可能だったものでもないから、何らの問題も生じないだろう。


 3)自由な議論を封じたり世論の制限はあったのか

例として、9条に関する文言(党の意見)を見てみることにする。


①政府提出案

第二章 戰爭の抛棄
第九條 國の主權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、他國との間の紛爭の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
  陸海空軍その他の戰力は、これを保持してはならない。國の交戰權は、これを認めない。


②自由党修正案

 戰爭の「抛棄」を「否認」と改む


③社會黨の憲法改正草案修正意見(社會黨憲法改正案特別委員會)

草案第九條の前に一條を設け「日本國は平和を愛好し、國際信義を重んずることを國是とする」趣旨の規定を挿入。第九條と共に之を總則に移すも可。


④協同民主黨案

第二章 削除する


⑤帝國憲法改正案委員會において可決された共同修正案及び附帶決議

第二章 戰爭の抛棄
第九條 國の主權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、他國との間の紛爭の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 ○陸海空軍その他の戰力は、これを保持してはならない。國の交戰權は、これを認めない。



衆議院の委員会審議及び採決を経た時点でも、政府提出案と同じだった。実際の制定された文言とは異なっていたわけである。


帝國憲法改正案(確定案)

第二章 戰爭の放棄
第九條 日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し、國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。



1項に挿入された前段の文言(「~希求し、」)は、社会党の修正案に似たものだったことが分かる。協同民主党案などでは、削除せよという修正案も出されていたし、当時の共産党でも「民族自決の権利放棄に繋がるから」として、自衛権(戦争)放棄はできないから反対だ、と主張していた。政府提出案に反対することは、いくらでもできたということであり、修正も可能だった。



別の参考例として、枢密院の審議開始以降の毎日新聞世論調査があった(1946年5月28日付)。

文化水準(当時、「文化」というキーワードがトレンドだった)から2千人の男女の有識階級(当時の呼称、今で言う有識者って人だろう)を選び、戦争放棄の条項について尋ねたものである。

  質問「戦争放棄の条項を必要とするか?」

  回答  必要 1395人
      不要  568人

必要の回答者中、戦争放棄条項の「修正の必要ありや」に修正不要が1117人で、草案そのままに賛成が過半数だった。残りの278人は修正すべし、で、国際連合或いは不戦条約など国際条約で定められている侵略戦争放棄の規定を国内法に取り入れたもので、自衛戦争を含まないとの解釈の下にこの草案を承認しており、自衛権保留規定の挿入すべき、という理由からである。

不要と回答した者のうち101名が侵略戦争は放棄すべきだが自衛権まで捨てる必要がない、という理由だった。他に、一方的宣言は無意味だ、余りにもユートピア的過ぎる、国際条約によるか日本が永世中立国になるかした上でこれを国際連合が保障しない限り、折角の戦争放棄規定も空文に終わる惧れが多いから、というのが72名、とのこと。


これらは、最近でもよく見かけたものであり、進歩なきままでこの何十年かが過ぎてきたということがよく分かるだろう(つまりは、年寄りからの受け売りで、同じ話を蒸し返している無益な論者がいかに多いか、ということか)。


いずれにせよ、議論が封じられていたわけでもなければ、国民に秘密にして改正過程や手続が進められたわけではなかったのである。賛成者が多い、というのが、当時の日本の世論だったようである。


※要点

※2  憲法改正手続は、明治憲法73条に則り正当に行われた。改正内容についての議論の期間も機会も概ね確保されていた。





日本国憲法と第9条に関する論点整理~1

2016年05月15日 19時10分55秒 | 法関係
以前に拙ブログにおける個人的見解について、述べたことがある。

15年9月
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/feda7c19ca58f9dbaea3d61e47d8298b
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8f9221250dbcdb6e86f9b278b8c9fef1
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/73b14c6812d937d9b3d64e041a6c5efe


今回、改めて書こうと思った理由は、政治家たちの無知無能ぶりが目立つことと、法学に関する人々が未だに無益な議論を重ねているからである。
同時に、自分の無知を知ったわけである(笑)。まあこれは、いつものことではあるのだが。

報道などで声高に主張されることというのは、必ずしもきちんと研究してきたような人の意見ではなく、利用するのに都合のよいものが前面に出されがちである、ということはあるだろう。高村や伊吹といった自民党議員がよい例だろう。


勉強メモを兼ねて、自分なりに、できるだけ整理してみたい。


1 憲法制定当時の背景

 1)SWNCC「初期の対日方針」

ポツダム宣言受諾~占領政策において、日本の武装解除と非軍事化が急速に進められた。その基本となったのが、この指令であった。
SWNCCとは、The State-War-Navy Coordinating Committee のことで、1944年12月の日本敗戦前に設置された部門であった。戦後処理を想定して作られていたものであり、日本の占領政策を決する実質的な機関だった。

この文書(1945年8月31日 3省長官承認、9月6日 大統領承認)では、以下のように示されていた。


第三部
(a)武装解除及非軍国主義化
武装解除並に非軍国主義化は軍事占領の主要任務にして即時且つ断乎として実行さるべし。
・日本は陸海空軍、秘密警察組織、又は何等の民間航空を所有することなし。

第四部
(a)経済上の非軍事化
日本銀二力の現在経済基礎は破壊され、且つ再興を許可せられざるを要す。従って下記諸項を含む計画が実施されるべし。
・各種の軍事力又は軍事施設の設備維持又は使用を目的とする一切の物資の生産の即時停止及び将来に対する禁止隠蔽又は偽装軍備を防止する為、日本経済活動における特定部門に対する監察、管理精度の設置
・日本にとり其の価値が主として戦争準備に在るが如き特定産業乃至生産部門の除去
・戦争遂行力増進に指向せらる専門的研究及び教育の禁止
・将来の平和的需要の限度に日本重工業の規模及び性格を制限すること
・非軍事化目的達成に必要なる範囲に日本商船を制限すること



軍事的には、3軍と特務(スパイ、工作)機関的組織(=秘密警察)の解体、民間航空機の禁止だった。産業政策上でも、潜在的に軍事力となるものは禁止や制限を受けた。民間船舶も対象だった。

現代で言えば、自動車、トラック、重機は勿論、航空機産業も宇宙・ロケット産業も、電気電子産業も、造船や船舶会社も、禁止か厳しい制限が課せられたということであろう。
こういう環境下にあっては、未来の軍備のことを考える余裕など、当時には持ち得なかったのではなかろうか。今のような自衛隊の装備等の状況は、到底想像し得なかったのではないか、ということだ。


 2)SWNCC-228 「日本統治機構の改革」(1946年1月7日承認)

この文書中の諸原則が、日本国憲法の制定に影響を及ぼしたことは、文献等で明らかにされている。
(清水虎雄 『憲法9条2項の成立過程とその憲法規範的価値に関する考察』(1960) 東洋法学4,1,29-80)

顕著なのは、大臣の文民条項の基礎となった事項についての記載であった。ただ、完全なる非武装化などは書かれておらず、憲法9条の要求や、マッカーサーノート3原則の根拠ともなっていない。


 3)「日本の武装解除及び非軍事化に関する条約案」

当時日本は武装解除が実施された後であったが、これを占領終了後にも継続しようという目論見が一部にあったものである。1946年6月22日に米国がソ連、英国、中国に対し提案したものとされる。
前年12月の4国モスクワ外相会談時において、既に秘密協定として素案が出来上がっていたとされるが、その後ソ連の考えが変わり、米ソ冷戦へと進む過程で反対した為、成立しなかった。

ただ、内容としては、日本の非武装化を継続しようであり、その為の管理委員会設置と委員会機能を条約に定め、有効期限が25年とされていた。つまり、米国としては当初から、日本に軍備を復活させる気などなかったものと見られ、四半世紀は軍国主義復活を封じ込めるべく、軍備だけじゃなく産業をも制限を継続しようという目論見があったものと見てよいだろう。

この時期には、既にマッカーサー草案は公開された後で、既に審議過程に入っていた。日本政府は、米国のこうした非武装継続という裏側の目論見を知ることはなかったであろうが、状況的には薄々感じとれるものだったのかもしれない。



※要点:


※1  日本が再軍備(武装化)できるような状況を想定することは極めて困難だった




三菱自動車の燃費データを巡る問題について~5・日産自動車の責任

2016年04月26日 11時07分30秒 | 法関係
これまで、三菱自動車が提出した「走行抵抗」のデータの計測法が違っていた、ということが報道などで言われているが、日産自動車が何らの責任を生じないのだろうか?



まず、三菱自動車が改めて走行抵抗の測定結果を出して、それを基に燃費データの訂正を行う、ということが報道などから言われている。


ここで、最も単純な疑問が生じるのだ。
それは、日産自動車は「何故、自社が販売する自動車の”正しい”測定結果を提出しないのか?」ということである。


一般的な自動車製造事業者ならば、これをできないはずがないのである。しかも、問題発覚以前から、日産自動車はデータに疑問がある、と知っていたわけでしょう?
この問題を知った後においても、販売を停止してなかったのでしょう?


どうして?
仮に、製造品に不良品なり異物混入の疑いがある、という場合、その事実を知った段階で直ちに対応をするでしょう?
今になって、日産自動車が当該車種の販売を停止しているのだとすると、どうして問題発覚・知覚時点で、同様の販売停止措置をとらなかったのですか?


日産自動車は、当該車種の型式を自社で取得しているわけですよね?
その申請者は、誰なのですか?

行政手続において、型式指定を受けたのは、日産自動車ではなく三菱自動車の名義なのですか?

違う、というのであれば、型式指定を取得した事業者としての、相応の責任分担というのがあるのではありませんか?


たとえ、企業が不正会計を行ったとして、公認会計士なり税理士が、財務諸表等の検査をするはずなのですから、出された会計書類については、会計士なり税理士が自分の名前でハンコをつくわけですよね?

騙されただけなんだ、という被害者の立場は分かりますけれども、型式申請を出したのが日産自動車だとすると、当然に責任を生じるのではありませんか?


少なくとも、日産自動車は「三菱自動車の出した走行抵抗のデータはおかしいんじゃないか?」と判断するに足る根拠のデータを持っていた、ということでしょう?


ならば、型式申請をやり直すとかするのでは?
その際、何故三菱自動車が「走行抵抗」のデータを出して、日産自動車がこれを採用しなければならない義務があるのですか?

両社のOEMか共同開発の契約上、そうしなければならない、ということだとして、通常なら両社が協議して実施できるというような、弾力条項みたいなのは入っているのでは?


ならば、日産自動車が本当に消費者を重視し一刻も早く販売を再開したい、といった考えを持っているなら、「”正しい”走行抵抗のデータを独自に提出」して、正しい燃費データを出せばいいはずでは?


なのに、これをしない、ということになると、その思惑なり何らかの裏を感じるわけです。


監査人が、「これは下っ端が勝手に数字を改竄しただけだ、だから責任はない」とは、言うことができないのでは?
決算公告なり出してしまい、その監査人が何らの注意義務を負わない、ということは考え難いわけだが。


型式申請の事業者として、相応の責任を負うべきでは。しかも、当該事実を知った後でも、販売を継続していたことの責任は問われないのか?
これが米国での裁判とかだと、企業側が因果関係の有無に関わらず、事実があることを知っていたのに適切な対応をしなかったという理由で、損害賠償請求を食らうのでは?


せめて、日産自動車が「どうも燃費データは不備があるのでは」と思っただけの実測値を持っているはずなのだから、具体的にそれを公表するなりして、販売時との乖離がどの程度あるか、というのを説明するべきだろう。

道路運送車両法上の型式指定を受けた申請事業者は、完成検査終了証の発行義務を負っているはずでは?


つまり、日産自動車の責任はゼロではない、としか思えないのである。



それから、読売新聞や産経新聞が言うように、「燃費データの偽装だから、保安基準違反を構成し、型式指定取消もあるんだ」という言い分はどうなるんですかね?

散々報道されてたように、道路運送車両法違反だ、違法行為なんだ、ということが「真実」だとしますか?

その可能性があることを、日産自動車は知っていながら、販売を継続してきた、ということになりますよ?
保安基準に適合しなくなる可能性、というのを日産自動車が知っていたなが、完成検査終了証を発行し続け、なおかつ、保安基準に適合しなくなるかもしれないと思っていたのに、消費者には何ら説明することもなく、こっそり販売してきたのではありませんか?


どうして、このことを、読売新聞も産経新聞も、NHKも、その他報道機関も、誰も問い詰めないのですか?

へんですねえ?



三菱自動車の燃費データを巡る問題について~4

2016年04月25日 11時25分13秒 | 法関係
昨日の続きです。

道路運送車両法の違反を報じる記事が目につくので、その真偽が気になるところです。風評被害に匹敵するかもしれず、証明がない場合には重大な販売妨害になる可能性があるので、損害賠償請求をすることも検討すべきではないかと思えます。



4月24日付 読売新聞朝刊
(伊戸田崇志、小沢妃)


(一部引用)

■処分検討

これまでに①燃費測定の基になるデータについて、意図的に低い値を検査機関に提出②マイナーチェンジなどの際に必要な走行実験を行わなかった③新型車の開発にあたり、国の規定とは異なる方法で走行実験を実施―と、主に三つの不正を重ねていた。

特に、①は悪質で、虚偽の申請にあたるため、道路運送車両法に基づき、三菱自の車(ママ)の「型式指定」が取り消される可能性もある。仮に指定が取り消されれば、量産ができなくなり、販売は極めて難しくなる。

三菱自は正しい方法で測定をやり直し、データを国土交通省に提出する。実際の燃費が悪化し、有害物質の量が増えれば排ガスの保安基準に適合しなくなる可能性がある。その場合はリコール(回収・無償修理)が必要になる。
これまで、燃費などの検査は、自動車メーカーが提出したデータに誤りがないという「性善説」で行われてきた。実際、これまでに型式指定が取り消された前例はなく、国交省にとっても三菱自のような不正行為は想定外とも言える。

(以下略)

=======


この記事で目を引くのは、やはり『虚偽の申請にあたるため、道路運送車両法に基づき、三菱自の車(ママ)の「型式指定」が取り消される可能性』という部分である。そう判断した理由や根拠を知りたいわけである。それと、これを言ったのは誰なのでしょう?


『実際の燃費が悪化し、有害物質の量が増えれば排ガスの保安基準に適合しなくなる可能性』というのも、既に昨日の記事に書いたが、そんな程度で保安基準違反となるようなら、登坂道路とか走行禁止にするか大型車両は販売禁止措置がとられるだろうね。
だいたい軽の燃費が仮に20%悪化したって、環境負荷は格段に小さいに決まってるでしょうが。レクサスLS600シリーズの後部座席で踏ん反り返ってる政治家や大使や高級官僚や財界大物たちは、全員軽自動車に換えろ、となるのは必定(笑)。


道路運送車両法の第何条の条文に違反し、その結果、どういう行政責任が生じたか、というのを、何故報道しないのか?何処の誰が言ったか知らないけれども、「取消の可能性」ってどういう真実性の担保があるのでしょう?虚偽報道の可能性では?



別の記事もあったので、そちらも。

>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160425-00000054-san-bus_all

三菱自動車の燃費データ不正問題で、国土交通省が同社の燃費試験用データの測定方法を「社内評価用の方法」と判定したことが24日、分かった。測定方法は道路運送車両法に基づいて定められているが、同社は米国の法令で定める方法を自社用にアレンジしたものを使っていた。国交省は同法違反の疑いがあるとみて、実施方法などを詳しく調べている。

 新車を発売する前に受ける燃費試験は、自動車が走行する際のタイヤや空気の抵抗値を入力して行われる。自動車メーカーが同法で定められた「惰行法」と呼ばれる方法で測定して審査機関に提出するが、三菱自動車は米国の法令で定められた方法を基に、速度や算出の仕方を若干変えて測定していた。

同社はこの方法を「高速惰行法」と呼び、平成14年から、軽乗用車や乗用車など計27車種の抵抗値の測定方法として採用。燃費試験用データの不正操作が行われた軽自動車4車種も、同じ方法で測定されていた。

 高速惰行法は、惰行法の半分の時間で測定できるが、燃費に与える影響は不明。国交省は、高速惰行法を単なる「(同社の)社内評価用の測定方法」と判定。同法が定める手続きに違反する疑いがあるとみている。


========


これも同じレベルである。

『国土交通省が同社の燃費試験用データの測定方法を「社内評価用の方法」と判定したことが24日、分かった。測定方法は道路運送車両法に基づいて定められているが』と記述されているが、燃費試験用データの測定方法とやらが、道路運送車両法のどの条文に定められ、どのような違反なのか、記載してないですよね。どうして、正確に、第何条に書いてある、これに違反する、と言えないのですか?


説明できるなら、それをしてごらんよ。何の為の報道機関なのだね?


ここまで検討してきたように、保安基準の細目を定める告示と別添というのは、排気ガス規制の為の方法が書かれているのであって、「燃費」の計測方法について法的根拠を与えるものではない。

別添42も、検討済みだよ>http://www.mlit.go.jp/jidosha/kijyun/saimokubetten/saibet_042_00.pdf


これのどこに、「燃費」の計測が書かれているのですか?
走行抵抗はp14~18に書かれており、「惰行法」か「ホイールトルク法」が示されている。この「走行抵抗」値を用いて燃費を算出するのは、排ガス測定の際に用いた数値を、いうなれば流用しているだけ、ということではないですか、と昨日の記事に書いたのですわ。



産経新聞は、道路車両運送法のどの条文に燃費計測の為の計測方法が規定されているにか、これを明らかにせよ。できないなら、上記記事は虚偽ではないか?


それから、燃費値の算定方法が条文中に規定されている法令はこちら。
で、どの条文に違反してて、どう違法なの?説明してみなさい。


○自動車のエネルギー消費効率の算定等に関する省令
>http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S54/S54F03802001003.html

○自動車のエネルギー消費効率の算定等に関する省令に規定する国土交通大臣が告示で定める方法
>https://www.eccj.or.jp/law06/pdf/01_20.pdf


違法だ違法だ、と言い募る側が、まずその論拠を示してみよ、と言っているのです。できないなら、報道機関がいい加減なことを言うんじゃない。
拙ブログみたいな、素人ブログ記事とは違うんじゃないですか?




三菱自動車の燃費データを巡る問題について~3

2016年04月24日 14時13分08秒 | 法関係
4)型式指定に際し、違法となるのか?


前項に関連するが、走行条件値というものの実態がよく分からない(笑)。自動車型式指定規則の3条を示したように、

『申請に係る自動車であつて運行の用に供していないもの及び国土交通大臣が定めるところにより走行を行つたもの』が、どの項目について範囲が及ぶのかが、分かり難いのである。まるで4項規定の数値の場合のみ、走行を行ったもの、みたいに言うわけだが、条文を普通に読めば、どの項目についても、「運行の用に供してないもの」か「走行を行ったもの」かのいずれかを選択してもいいかのように思えるわけである。

走行して、計測しました、という数字を出すのがダメということなのでしょうか?
この辺りの実務上の決まりというのは、自動車企業の人じゃないと分からないでしょう。


けれども、条文からすると、必ずしも排ガス測定関連の4項以外であっても、普通に1項に記載があって、4項条文中では「走行車」との文言を用いるというのが示されているだけに過ぎないように見えるのですが。



5)自動車の運行管理・使用者責任はどうなのか?

走行条件値を変えて出したことにより、排ガスの有害成分値が悪化するんだ、というような新聞記事があったのだが、走行条件値の違いが環境負荷への影響が大きく出てしまうから、型式指定取消なんだ、というなら、自動車を運転している人なり管理者に、本来的には相応の責任を負わせるべきなのでは?

自動車整備が不行き届きのせいで、排ガス中の除去機能低下とかが発生することはあるのに、これは放置されているわけである。製造責任だけ厳しく追及されるのに、使用者責任は問われないというのは本末転倒ではないか?

そんなに環境負荷を問題視するなら、一定年数を経過した車両については、車検時に除去機能試験でも実施して、部品装置交換なりを義務化してなければおかしいのでは?

それとも、軽自動車に比べ圧倒的に環境負荷の大きい大型車やSUVを厳しく制限するべきでは?


そういう話になると思うのですよ。
燃費データを誤魔化すことは、消費者への背信行為に等しく、決してよいことではないですよ。しかし、燃費は法的に規定された重要な保安基準でもなければ、型式指定に影響する事項でもないのではないですか?


もしも、欠かすことのできない重要項目である、ということなら、全カタログに記載義務化だの、販売時に必ず説明義務を課すような事項としておくべきなのではないですか?
不動産取引時の重要事項説明書だの金銭消費貸借時の金利だの、金融商品販売時の重要事項だのといったものは、法的根拠をもって説明義務があるでしょう?燃費はそれに該当するような重要事項ですかね?車検証に記載されねばならない重要事項なら、何故法的根拠を持たせてないのですか?


そんなに重要じゃない、ということで、単に消費者の選好に影響を与える一因子に過ぎないなら、過剰な社会的経済的責任を負わせるような事柄なのでしょうか?

利益、不利益のバランスが、あまりに公平性を欠いていませんかね?
勿論、企業としては、社会的責任、道義的責任を負うでしょう。信用失墜という、商売の基本中の基本に大きなヒビが入り、屋台骨を揺るがすことになるかもしれません。失うのは一瞬ですから。


だからこそ、誠実を旨とすべき、なのです。
三菱自動車が、本来あるべき企業として、不誠実であった、とは思います。残念ですがね。

けれども、まずは法的評価をきちんとすべきなのではないかと思います。



※※追加

報道などから、データ偽装の疑惑というのが、「走行抵抗」の算出について、ということらしい。

これまで、法律の条文を見てきたわけだが、どこにもそういう数値の算出の法的根拠のある指定というのは、見つからない。細目の告示でもないわけである。


で、惰行法と高速惰行法みたいな違いがある、ということらしいが、これは、法律ではないでしょう。

これは、業界団体が定めた、自主規制規格みたいなものです。


日本工業規格 JIS D 1012


の測定方法には合致しない、というだけでは?
仲間内からみれば、それは、ドーピング選手みたいなものだけれども、違法薬物に指定されていないなら、法的責任を負わせることができない、というような状況に似ているのでは。


自動車業界の定めた試験方法に違反したから、ということで、行政処分を食らうというのは違うんじゃないですかね。

>http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160423/k10010494981000.html


JIS規格を準用する、という条文は、道路運送車両法には規定がありませんけど?




残る論点は、不正競争防止法、地方税法及び租税特措法、の2つでは?
消費者を誤認させたか、ですかね。


参考までに、あなたがゴルファーで、ハンディキャップを計算する場合を考えてみてください。
練習初期の、スコアが悪い時期とか、全部通算しませんでしょう?15年前の成績を反映するわけではないんじゃ?

きちんと数えられてなかった回の誤ったスコアも除外したりするのでは?
打数を数え間違ってたスコアなのに、これをハンディの計算に算入しますかね?


そういう不備のあったデータを除外したりすると、それは捏造なのですか?
測定方法がマズいとか要領を得ない時期は外して、うまく測定できるようになってからのデータを入れたら、それは悪ですか?




よくまとまっている記事を発見。

こちら>http://160sx.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-67e5.html#_ga=1.221252952.1166273368.1460868551



三菱自動車の燃費データを巡る問題について~2

2016年04月24日 13時46分35秒 | 法関係
3)型式指定違反はあるのか

自動車が販売される前提として、まずその自動車が販売されてよいかどうかをクリアする為に、型式の指定を受ける必要がある。これも、同法で規定される。


○道路運送車両法 75条

国土交通大臣は、自動車の安全性の増進及び自動車による公害の防止その他の環境の保全を図るため、申請により、自動車をその型式について指定する。
2  前項の指定の申請は、本邦に輸出される自動車について、外国において当該自動車を製作することを業とする者又はその者から当該自動車を購入する契約を締結している者であつて当該自動車を本邦に輸出することを業とするものも行うことができる。
3  第一項の指定は、申請に係る自動車の構造、装置及び性能が保安基準に適合し、かつ、当該自動車が均一性を有するものであるかどうかを判定することによつて行う。この場合において、次条第一項の規定によりその型式について指定を受けた装置は、保安基準に適合しているものとみなす。
4  第一項の申請をした者は、その型式について指定を受けた自動車(第二項に規定する者であつてその製作し、又は輸出する自動車の型式について第一項の指定を受けたもの(第八項において「指定外国製作者等」という。)に係る自動車にあつては、本邦に輸出されるものに限る。第七項及び第八項において同じ。)を譲渡する場合において、当該自動車の構造、装置及び性能が保安基準に適合しているかどうかを検査し、適合すると認めるときは、完成検査終了証を発行し、これを譲受人に交付しなければならない。
5  第一項の申請をした者は、その型式について指定を受けた自動車(国土交通省令で定めるものを除く。)に係る前項の規定による完成検査終了証の発行及び交付に代えて、政令で定めるところにより、当該譲受人の承諾を得て、当該完成検査終了証に記載すべき事項を電磁的方法により登録情報処理機関に提供することができる。
6  前項の規定により完成検査終了証に記載すべき事項が登録情報処理機関に提供されたときは、第一項の申請をした者は、当該完成検査終了証を発行し、これを当該譲受人に交付したものとみなす。
7  国土交通大臣は、その型式について指定を受けた自動車の構造、装置若しくは性能が保安基準に適合しなくなり、又は均一性を有するものでなくなつたときは、その指定を取り消すことができる。この場合において、国土交通大臣は、取消しの日までに製作された自動車について取消しの効力の及ぶ範囲を限定することができる。
8  前項の規定によるほか、国土交通大臣は、次の各号のいずれかに該当する場合には、当該指定外国製作者等に係る第一項の指定を取り消すことができる。
一  指定外国製作者等が第四項の規定に違反したとき。
二  指定外国製作者等が第七十六条の規定に基づく国土交通省令の規定(第一項の指定に係る部分に限る。)に違反したとき。
三  国土交通大臣が第一条の目的を達成するため必要があると認めて指定外国製作者等に対しその業務に関し報告を求めた場合において、その報告がされず、又は虚偽の報告がされたとき。
四  国土交通大臣が第一条の目的を達成するため特に必要があると認めてその職員に指定外国製作者等の事務所その他の事業場又はその型式について指定を受けた自動車の所在すると認める場所において当該自動車、帳簿書類その他の物件についての検査をさせ、又は関係者に質問をさせようとした場合において、その検査が拒まれ、妨げられ、若しくは忌避され、又は質問に対し陳述がされず、若しくは虚偽の陳述がされたとき。



以上の通り、型式指定に関して、燃費のデータは指定に必要不可欠な項目ではない。安全・公害防止等の為の保安基準(技術基準)に適合してさえいれば、型式指定は問題なく受けられる。燃費が、たとえ28km/lではなく18km/lであったとしても、指定は受けられよう。

また燃費ではなく有害物質除去装置のようなものが付いている場合でも、次の条文で規定され、三菱自動車の型式指定に必要な特定装置は燃費データに直接関与していない。


○道路運送車両法 75条の二

国土交通大臣は、自動車の安全性の増進及び自動車による公害の防止その他の環境の保全を図るため、申請により、第四十一条各号に掲げる装置のうち国土交通省令で定めるもの(以下「特定装置」という。)をその型式について指定する。
(以下略)


このほか、型式指定についての省令が別に存在する。
『自動車型式指定規則』である。この条文中、申請事項が規定されているので、これを見る。


○自動車型式指定規則 第3条

指定を申請する者(以下「申請者」という。)は、国土交通大臣に対し、次に掲げる事項を記載した申請書(第一号様式)を、独立行政法人交通安全環境研究所(以下「研究所」という。)に対し、その写しを提出し、かつ、申請に係る自動車であつて運行(この項の規定による提示のためにするものを除く。)の用に供していないもの及び国土交通大臣が定めるところにより走行を行つたもの(第四項において「走行車」という。)を、研究所に提示しなければならない。
一  車名及び型式
二  車台の名称及び型式
三  車体の名称及び型式
四  申請者の氏名又は名称及び住所
五  主たる製作工場の名称及び所在地
六  法第七十五条第四項 の検査(以下「完成検査」という。)を実施する工場の名称及び所在地
七  完成検査終了証を発行する事業所の名称及び所在地
八  検査主任技術者の氏名及び経歴
2  前項の申請書及びその写しには、次に掲げる書面(申請書の写しにあつては、第四号から第八号を除く。)を添付しなければならない。
一  自動車の構造、装置及び性能を記載した書面
二  自動車の外観図
三  道路運送車両の保安基準 (昭和二十六年運輸省令第六十七号)の規定に適合することを証する書面(法第七十五条の二第一項 の指定を受けた装置については、当該指定を受けたことを証する書面)
四  完成検査の業務組織及び実施要領並びに自動車検査用機械器具の管理要領を記載した書面
五  法第四十一条 各号に掲げる装置の検査の業務組織及び実施要領を記載した書面
六  完成検査終了証の発行要領を記載した書面
七  点検整備方式(自動車点検基準 (昭和二十六年運輸省令第七十号)第七条 の技術上の情報を含む。第五条の二において同じ。)を記載した書面
八  前条の購入契約を締結している者にあつては、当該契約書の写
3  国土交通大臣又は研究所は、前二項に規定するもののほか、申請者に対し、指定に関し必要があると認めるときは、必要な書面の提出を求めることができる。
4  次の各号に掲げる自動車であつて、走行時に排気管から大気中に排出される排出物に含まれる当該各号に掲げる物質の大気中への排出を第一項の国土交通大臣が定めるところにより走行を行つた状態においても有効に抑止できる装置を有する自動車として国土交通大臣が定めるものについて同項の申請をする者は、同項の規定にかかわらず、国土交通大臣が定める書面の提出をもつて走行車の提示に代えることができる。
一  ガソリンを燃料とする自動車 一酸化炭素、炭化水素及び窒素酸化物又は一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物及び粒子状物質
二  液化石油ガスを燃料とする自動車 一酸化炭素、炭化水素及び窒素酸化物
三  軽油を燃料とする自動車 一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物、粒子状物質及び黒煙




まず、分かり易い部分から。4項3号のディーゼル車の排ガスデータの偽装問題というのは、ここに引っ掛かるわけだ。が、三菱自動車の場合には、排気ガス中に含まれる有害物質の濃度(量)を捏造したりしたわけではない(除去装置なり低減用触媒装置なり?)から、ここでの規定を違反したというものではないはずだ。

仮に走行条件が変わることで、排ガス中の有害物質量が増加し、これをもって保安基準違反を構成するなら、そもそも上り勾配の道とか走行できないでしょう。
「排気ガスのデータが悪化するから」という理由で型式指定が取り消されるような自動車なら、異なる環境下で走行する日常使用には耐えられないに決まっている。そんな解説を付ける弁護士なり法学者なりがいるとすれば、是非存在を明らかにして欲しい。報道機関の責任において。


話を戻すが、燃費計測の基準となる走行方法というのは、確かに決まりごととしてあるわけだが、それは型式指定の申請事項には法的根拠をもって記載されない程度のものではないか、ということだ。

もしも自動車型式指定規則3条の規定に抵触する可能性があるとすれば、2項4号の完成検査の実施要領の記載が、実態と異なっていた、というようなことではないかな、と。
しかし、完成検査の内容については、当方は全く知らないです。なので、ここで燃費データの測定に関係する項目を実測しているかどうかが分からないのと、「実施要領」なるものが、記載すべき事項として法的に決められている範囲がどこまでなのかが分からないです。

排ガス規制を見る上で、走行条件に関する数値(仮に、以下「走行条件値」と呼ぶ)を企業が自己申告し、この数値を準用して燃費データ測定機関が燃費を算出しているのだとすると、測定機関は根拠法がないけれども準用して計測したまでに過ぎず、燃費データの偽装とまでは言えないのではないか。
法の規定なら、「燃費とは、~の数値から、これこれの計算式を用いて、算出したもの」とかの定義なり規定があるはずだから、だ。


なので、走行条件値を本来なら100と申告すべきところ、90として提出した、ということなら、これを便宜的に使用して算出した燃費データには、本来的に法的義務とか根拠法の裏付けのある数字、というものではないだろう。計測機関が、単にこれを用いて算出するのが慣例なのでそうしました、というだけに過ぎないのでは、ということだ。


もしも法令違反と問うとしても、正確な走行条件値を用いた場合、排ガス規制が制限範囲を超過するかどうか、だ。この保安基準の違反がないなら、違法を言うことはできないのではないか、ということである。


具体的に書けば(架空の話です)、「有害物質Aは、10ppm以下でなければならない」ところ、型式指定時には0.2ppmだったが、正確な走行条件値を用いて測定しなおしたら0.25ppmが結果だった、という場合、いずれにせよ10ppm以下の基準はクリアできているのだから、型式や保安基準違反でもないし取消事由にはならないでしょう、ということである。



三菱自動車の燃費データを巡る問題について~1

2016年04月24日 13時40分24秒 | 法関係
かつてのリコール隠し問題で、大揺れに揺れたことを記憶している方々も少なくないだろう。あの頃から、マスコミ各社が記者会見場において、不祥事企業への過剰な謝罪要求という光景をよく目にするようになったように思う。記者諸君のつるし上げ、というやつだ。


社会に甚大な損害を与えた企業なら、謝罪をするのも仕方のないことだろう。ただそれは、マスコミの取材記者諸氏個人に、何らかの特権を与えているものではないし、土下座させたり一斉に頭を垂れさせ、これを過剰にバッシングすることを正当化するものではないだろう。


三井不動産や住友不動産の販売したマンションの杭打ちデータ疑惑がとりあえず通過したかと思えば、今度は三菱自動車の燃費データの疑惑ということらしい。今日の朝刊には、三菱自動車の燃費データの偽装があれば、型式取消まであるかも、というような文言が見られたようだ。これは、本当なのだろうか?
どこの誰がそんなことを言っているのか、是非とも根拠を明確にしておくべきだろう。これが間違いの場合、報道機関は謝罪をするのか?お詫びして訂正報道を出すのか?

過去の法律上の争点となったもので、間違った解説など度々目にしてきたが、誰も謝罪もしないしお詫びの訂正記事さえ出されてこなかったではないか。他人の間違いを厳しく追及するなら、報道機関自身の間違いについても、同様の体制を採るべきだろう。


これまでもずっと言ってきている通り、当方は法曹でも行政関係者ではない。が、当方独自の見解をメモとして書いておきたい。


1)燃費データを規定する法律とは何か?

まずここが根本的な問題点。カタログ値なり、国交省が公表している燃費数値なりは、その数字が18km/lが正解であるべきところ、「20km/l」と記載されている場合、何の法律に違反しているのか?

報道各社で、これを正確に報じている所はあるか?この部分が曖昧なままでは、何も分からないのでは?
処分がどうなるだのという検討以前の問題だろう。少なくとも、国交省が立入検査実施の根拠とした、『道路運送車両法』には、燃費を根拠づける条文は存在しない。
今のところ、「道路運送車両法○条に基づく行政処分」とかいう話は、どうも出てこないのではないか、ということである(もしあるというなら、是非ともご教示下さいませ)。
すると、同法の罰則適用といった話には直結しないでしょう、ということです。


2)道路運送車両法の規定は何か

重要点について規定されているので、これを示す。行政権限が及ぶ範囲は、具体的に列挙されている。原発でも自動車でもほぼ同じ。保安基準・技術基準に適合してないと運行できません、というものである。


○道路運送車両法 40条

自動車は、その構造が、次に掲げる事項について、国土交通省令で定める保安上又は公害防止その他の環境保全上の技術基準に適合するものでなければ、運行の用に供してはならない。
一  長さ、幅及び高さ
二  最低地上高
三  車両総重量(車両重量、最大積載量及び五十五キログラムに乗車定員を乗じて得た重量の総和をいう。)
四  車輪にかかる荷重
五  車輪にかかる荷重の車両重量(運行に必要な装備をした状態における自動車の重量をいう。)に対する割合
六  車輪にかかる荷重の車両総重量に対する割合
七  最大安定傾斜角度
八  最小回転半径
九  接地部及び接地圧



ここに「燃費」の項目はない。次も見てみる。


○道路運送車両法 41条

自動車は、次に掲げる装置について、国土交通省令で定める保安上又は公害防止その他の環境保全上の技術基準に適合するものでなければ、運行の用に供してはならない。
一  原動機及び動力伝達装置
二  車輪及び車軸、そりその他の走行装置
三  操縦装置
四  制動装置
五  ばねその他の緩衝装置
六  燃料装置及び電気装置
七  車枠及び車体
八  連結装置
九  乗車装置及び物品積載装置
十  前面ガラスその他の窓ガラス
十一  消音器その他の騒音防止装置
十二  ばい煙、悪臭のあるガス、有毒なガス等の発散防止装置
十三  前照灯、番号灯、尾灯、制動灯、車幅灯その他の灯火装置及び反射器
十四  警音器その他の警報装置
十五  方向指示器その他の指示装置
十六  後写鏡、窓ふき器その他の視野を確保する装置
十七  速度計、走行距離計その他の計器
十八  消火器その他の防火装置
十九  内圧容器及びその附属装置
二十  その他政令で定める特に必要な自動車の装置



さて、この条文にも「燃費」を規定できる根拠はない。20号の「その他政令で定める装置」にも、燃費項目は関連がないのである。通常の自動車に関する根拠法としての基本的事項はこの法律に規定されているが、どこにも「燃費」算出に関する根拠は見当たらない。


これが、当方の主張する「道路運送車両法違反」を指摘できる事実は、今のところ発見できない、ということである。あるなら、知りたい。


更に見てみよう。41条に列挙される各装置類について、具体的な保安基準が定められており、これの規定は以下である。

道路運送車両の保安基準

>http://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_fr7_000007.html


これに関連して、『道路運送車両の保安基準の細目を定める告示』と同別添、というのもある。膨大な量なので読むのは面倒ですが、「燃費」を規定する項目は発見できない。あるのは、所謂「排ガス規制」関連のみ、である。これは例のVW社のデータ偽装が問題になったものだ。

少なくとも、三菱自動車に対し、「御社は道路運送車両法の40条乃至41条に違反していますね」という指摘を行える事実も根拠も、未だ発見できない、ということである。



玉井克哉東大教授の珍説~電力事業者は「原発を自発的に停止できない」(追記あり)

2016年04月19日 00時39分35秒 | 法関係
遂に、ここまで来ましたか。行政法のプロを自認する方が、驚くべき解釈を提示しているようです。


https://twitter.com/tamai1961/status/721969289612242944

(法律の学生向け)原子力発電所の運転を電気事業者が「自発的に」停止することなどできないということについて。電気事業法6条2項4号イ、同9条1項、同3項、同法施行規則10条1項ロ。こういう条文を10分以内に探し当てることができれば、セミプロ級といえる。



全くもって意味不明なのだが、電力事業者は自分たちの判断で原発を停止できないなら、一体全体誰が停止させられるというのだね?(笑)
プラントのどこかに不具合とかが発生したら、普通に事業者が停止するでしょうに。それすら許されないというのなら、あれですか、原子力規制委員会が一から十まで全部命令するとでも?


全く、何を言ってるんだか。東大の法学ってのは、こんなもんなんですかね?


参考までに、改正前の電気事業法についての記事は拙ブログでも幾度か取り上げたことがあります。

こんなのとか
2014年1月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8da760d94d6e08b3bcd32f30c09ab5b5


全く法学の先生方ってのは、あてにならんな、とかの昔話はとりあえずおいといて。

今回の電気事業者が発電設備を運転したり停止したりするというのを、自発的にできない、などという解釈は全く成り立ちませんね。妄言に等しいでしょう。電気事業法6条事項の変更届出が9条に規定されている、というだけであって、原発に限らず、火力だろうと水力だろうと、どの設備を稼働させ発電するか、どれを停止させ点検に回すか、といったことは、ある程度の自由裁量が電気事業者に認められているに決まっているでしょうに。これが電気事業者は「自発的に停止できない」などとする根拠は条文から読み取ることなど不可能でしょう。


因みに、玉井教授の暴論を知る前から、当方も電気事業法を読み返していたのですが、その理由というのは川内原発を停止するよう大臣権限で要請できる根拠条文があるかどうか、という点を探したかったから、です。


結論からすると、経産大臣は直接的な停止命令権限を発動するというのは、あまり明確ではない、ということですね。これは想定された通りでした。が、完全否定かといえば、必ずしもそうでもないかもしれない、とは思えます。


(1)原発の主務大臣は経産大臣

基本的な原則というのは、原子力規制委員会の権限が主要なものとなっていますが、電気事業者への所管という観点からすると、主務大臣は依然として経済産業大臣である、ということです。

○電気事業法 第百十三条の二  
この法律(第六十五条第三項及び第五項を除く。)における主務大臣は、次の各号に掲げる事項の区分に応じ、当該各号に定める大臣又は委員会とする。
一  原子力発電工作物に関する事項 原子力規制委員会及び経済産業大臣
二  前号に掲げる事項以外の事項 経済産業大臣


1項1号にある通り、原子力発電工作物に関しては、規制委員会と経産大臣の並立ということになっています。従って「主務大臣である」と言うことは間違いではないし、依然としてそう主張することもできる、ということです。


(2)経産大臣権限(命令)は一般電気事業者に及ぶ

主要な監督権限というのは、原則として原子力規制委員会ということですけれども、場合により経産大臣からの命令があり得ないわけではない、という根拠を条文で示します。


○電気事業法 第三十条  
経済産業大臣は、事故により電気の供給に支障を生じている場合に電気事業者がその支障を除去するために必要な修理その他の措置を速やかに行わないとき、その他電気事業の運営が適切でないため、電気の使用者の利益を阻害していると認めるときは、電気事業者に対し、その電気事業の運営の改善に必要な措置をとることを命ずることができる。


ここで言う、「その他電気事業の運営が適切でないため、電気の使用者の利益を阻害していると認めるとき」に該当していれば、必要な措置を命ずることができます。九州の場合では、どういうことが考えられるか?
例えば、外部電源喪失となる可能性が十分想定されている時、川内原発が自動停止条件に現状では至っていなくとも、近々自動停止してしまう虞がある場合、です。なおかつ、その停止により代替供給余力が充足できない可能性が高いなら、自動停止に至る前に供給力の計画から落として、中国電力、中部電力や関電に広域融通を事前に計画に入れさせておく、という措置を命じるような場合です。


原発が緊急停止して178万kWの供給力が一気に脱落し、その瞬間から急いで手当するより、事前に織り込んで対策を講じておく方が電気使用者利益を阻害せずに済む、ということが考えられる場合です。通常であれば、原発が緊急停止しても(実際今年にも電力供給が途絶えたことがあった)、供給余力が自管内で確保されていることが多いですが、今回のような地震発生では原発以外の同時停止もあり得るから、ですね。


九電に対する電気事業の運営に関する措置命令は、こうした発電施設の稼働や他電力会社との融通をも含むと考えるのが妥当ではないかな、と。


別な条文も挙げてみます。

○電気事業法 第三十一条  
経済産業大臣は、電気の安定供給の確保に支障が生じ、又は生ずるおそれがある場合において公共の利益を確保するため特に必要があり、かつ、適切であると認めるときは電気事業者に対し、次の事項を命ずることができる。ただし、第三号の事項は、卸電気事業者に対しては、命ずることができない。
一  一般電気事業者、特定電気事業者又は特定規模電気事業者に電気を供給すること。
二  電気事業者に振替供給を行うこと。
三  電気事業者から電気の供給を受けること。
四  電気事業者に電気工作物を貸し渡し、若しくは電気事業者から電気工作物を借り受け、又は電気事業者と電気工作物を共用すること。
五  前各号に掲げるもののほか、広域的運営による電気の安定供給の確保を図るために必要な措置をとること。



この5号規定が使えるのではないかな、と。
すなわち、電気の安定供給の確保に支障を生じるおそれがある場合、「電気の安定供給の確保を図る」ために必要な措置をとることを「命ずることができる」ということです。公益の必要性と措置命令が適切である、という条件が必要ですけれども、前記のように説明が可能ではないかと考えます。


以上から、主務大臣は経産大臣であること、場合により措置命令は発動可能であること、というのが、拙ブログでの考え方です。措置命令については、裁量の余地があるものであり、見解の相違はあると思いますが、発電施設の運転・停止や広域融通を含むというのは、無理筋とは思いません。


話が戻りますが、玉井教授の見解は全く違うとしか思えないですね。

プロがこれで恥ずかしくはないのでしょうか?
意味がわかりません。


20日追記:

まとめができていたようです。

>>http://togetter.com/li/964467


東大の教授って、どういう感覚でこういう妄言を吐くんだろうね(笑)。一般常識的に考えれば、普通に分かることを、わざわざ解説付きで全然成り立たない解釈を大上段からぶってくるって、全く意味不明。


玉井曰く、『電気事業法上は原子力も火力も水力も「電気工作物」なので、いま挙げた条文は原子力に限らない。この辺も、基本がわかってないと感覚的につかめない』ってさ。


勿論、そんな玉井教授みたいな、感覚を持ってるわけないですよ。だって、そんな解釈はどう逆立ちしたって、出て来ませんもの。こういう解釈を発明できる玉井教授の「感覚」ってのが、信じられませんわ。


で、『20日以内に経済産業大臣が判断する仕組みになっていて、事業者の「自主的な」判断がすぐに実現しないようになっている。この辺、事前規制から事後規制への転換を(建前上は)図りつつ主務大臣の介入権限を残す、苦心の立法。』だと?


オイオイ、事業者の自主的判断が「すぐに実現しないようになっている」って、日々の電力供給の調節をどうやるのだね?
届出して、20日以内の判断を仰いでから、実現してるって?(笑)


寝言にもならないですね。
東大教授もこんなザマ、霞が関官僚集団の杜撰な法解釈といい、日本は危機的状況だなと実感できるわ。



川内原発差止め仮処分に関する福岡高裁宮崎支部の決定について

2016年04月16日 15時47分22秒 | 法関係
先頃、熊本を中心とした地震頻発により、被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。日本は、本当に自然災害と共に生きる国、ということなのでしょう。亡くなられた方がおられ、非常に悲しく、また痛ましく思います。


今月上旬に、川内原発の運転差し止め仮処分を巡る高裁決定が出された。それは、運転を停止させる仮処分は認めない、というものだった。裁判所の判断としては、事業者側が言ってることをほぼ丸のみして、「国の定める基準は正しいの一点張り」というに等しいものだった。


これは、差止め訴訟で敗北した福井地裁決定(15年12月)とほぼ同等の理屈を並べたもの考えてよいであろう。国が基準を作っており、その基準に合格したのだから、原発は安全だ、と強弁しているに過ぎないということ。例えば、基準地震動について、過去6年に5件の基準値超過があったという指摘に対してでさえ、実際にはそうだけど「原子力規制委員会が策定した基準に不合理はない」と何の根拠もなく裁判官個人が断定しているに過ぎないのである。宮城沖地震、新潟中越地震や東日本大震災という地震が極めて稀であって、地域特性に過ぎないのだ、と。
まるで「この患者特有の、特異体質に過ぎない、だから、仕方がない」という言い逃れをしている医療裁判での主張のようである。イマドキ、こんな言い分は殆ど通用しないだろう。特異体質が、「本当に特異体質であること」の立論ができてなければ認められるわけがない。


裁判官の屁理屈から言えば、「九州では起こらない」と自分勝手に決め付けただけのものに過ぎない、ということだ。


今回の熊本周辺で発生した地震について検討されることと思うが、事前にこの規模の地震が想定できたかどうかが問題となろう。九州電力の理屈から言えば、当然に想定範囲内であると断言できることだろう。想定できないのであれば、想定できてなくとも対応できるような体制をとるのが合理的だろう。いやそれとも、九電も裁判官も、「熊本が特異な地形なり地質だったに過ぎない、鹿児島では起こるわけがない」と言い切るだけの理由を有していることだろう。それを示せばいいのである。熊本では起こったが、鹿児島では起こらない、という具体的な理由を科学的に説明できよう。


仮処分の決定について、今回の熊本の地震がなかったとしても、追及できる可能性のある論点を指摘しておきたい。


1)川内原発を営業運転しなければならない理由とは何か?

最も重要かつシンプルな点がこれだ。何故運転をするのか?
当然、九電は民間企業であるから、営利的行動をとるということになるだろう。九電の理由を具体的に挙げさせるべきである。営利目的とは、要するに経済的利益を追求すること、である。

そこで、九電が川内原発に基準合格を得る為に実施した、追加的コストを正確に出させるべきである。また廃炉予定までの実稼働年数を正確に出させ、検査以外の営業運転時間を出すよう求める。運転により増加する使用済み核燃料・放射性廃棄物の処理コストや維持管理コストも当然算出させる。


これら費用と同じ額を、別な(例えばガス等火力や再生可能エネルギー)発電所を設置した場合のコストを比較して、発電量の差を見るのである。例えば、1000億円で火力を設置して同じ稼働年数を経過した場合の、発電コストの差を比べるのだ。それとも、他電力会社からの電力買入した場合と比べるのである。

この時、経済的利益を目的とするのが九電の民間企業としての役割である、ということなら、具体的に経済的利益の大きさの比較を行えばよいのだ。もしも、川内原発の再稼働の為にかかった費用の方が割高であって、更に、九電がいう安全レベルではなく、より大きな基準地震動に対応できる安全レベルにする場合の追加コストが大きい場合には、九電の経済的利益を優先するという点で、民間企業の役割に反していることになるのであるから、そもそも自己矛盾でしかない。

別な電力会社から購入した方が安上がりであれば、再稼働をする必然性という点において、株主利益に反し電力事業者としての本義に反するのは明らかである。

医薬品の副作用は、他に替え難い手段であり、利益享受側が圧倒的に多いので、ある限度においてリスクが許容されているのである。裁判官が言う、リスクを受け入れるのはやむを得ない、というのは本来そういうことであって、他に代替可能とか、敢えて損失を受け入れるべき理由がないなら、その薬剤である必然性がない。「どうしてもその薬剤でなければならない」という理由がなければ、薬剤として認可すべきとは言えない。また薬剤のリスク受け入れというのは、そもそも各個人に使用の選択権が与えられているものであって、「リスクを承諾した上で使用する」かどうかは、個人が決定できるものだ。リスクを承諾できない人は、使用しなければよい、という原則が守られているのだ。飛行機搭乗でも、鉄道利用でも同様である。稀に事故が発生するが、そのリスクを承諾できない人は利用しなければよい、という原則になっている。原発は、そうなっていない。裁判官はリスクの受け入れの考え方が、根底からして不適切である。


2)運転から30年以上経過した原子力施設の劣化問題

九電も裁判所も、原発で過酷事故が発生しても、多重防御で大丈夫だと言う。ならば、実際に過酷事故が発生した際に、現実にどうやって対処するかを答えるべきである。
主蒸気管が大破断したら、どうやって冷却するのか?
その場合、冷却水はどうやって圧力容器を冷やすか?

さて、ここで問題がある。
東電が福島原発事故後に「1号機のICを手動停止せねばならなかった理由」を覚えておいでだろうか?

マニュアルによれば、55℃/h以下の冷却速度を守らねばならなかったから、だったであろう?
現実に事故が発生したら、計測機器も満足に読めないとか、パラメータが分からないとか言っていたでしょう?
それと同等の状況が発生するかもしれない、ということだ。そして、冷却手段がある限り、手探りだろうとも冷却する、ということになってしまうわけである。


では、冷やせる機能が残存していれば、それで問題がないのか?
ここで先の1号機停止の理由というのが関係してくるのである。とても冷えた水をかけてしまうと、場合によっては金属製の部材が破損するかもしれない、という問題が発生するのである。

圧力容器に冷却水が大量にかけられた時、水は金属部分に当然かかるわけである。その金属は、本当に破壊されないのか?圧力容器本体は、すぐには温度が下がらないだろう。しかし、貫通する配管類はどうか?バルブ周辺の接合部はどうなのだろうか?バルブを動かす部分は?

ここに、「熱衝撃」の問題が潜んでいるはず、ということだ。福島原発のBWRと違い、加圧水型PWRは圧力容器の圧力がずっと高く(約2倍以上)設定されており、熱衝撃により金属部分に亀裂を生じたりすると、それが時間経過と共に強圧が加わることで拡大しうる、ということが考えられる。
しかも、長期稼働原子炉の場合、中性子線照射の影響などにより照射脆化も生じること、加圧と減圧(炉停止)のサイクルによる疲労蓄積、腐食、等の問題を生じることは回避できない。


従って、たとえ冷却手段は残されており機能する、と主張できたとしても、これが安全性を担保することには直結せず、かえって冷却手段を用いることが加圧熱衝撃による破壊を惹起しうる、ということである。

すなわち、
・30年以上運転期間を経過し
・劣化している材質が必ず存在し
・事故時の限定的な冷却手段しか用いることができない

としても、どのような場合であろうと、
ア)熱衝撃による破壊を免れる、
イ)たとえ圧力容器から漏洩しても何ら問題なく処理できる、
といういずれかの立論が必要となる。


ア)の場合だと、例えば
・各部の細かい温度が必ず計測できるので、一定以上の温度低下にならないように冷却をコントロールできる
・どのような温度低下が生じても、各部材の強度、耐久性が上回っているので、熱衝撃で破壊されることはない(=実証実験が存在する)
のいずれかを証明できればよい。


冷却方法をコントロールできる、というのは、福島原発の場合だと「ICを手動停止する」とか、「動いていたHPCIを手動で止めたら他が動かせなくなってしまった」というようなことである。冷却を止めたり動かしたり、というのが自由自在に可能だ、というようなことですかね。
一口に「冷却速度を調節する」と言うが、簡単なことではないし、多重過酷事故の最中に55℃/h以下の基準を守って冷却する、というのが、至難の技であり芸当というか職人芸的能力発揮を必要とされることを裁判官は無知ゆえに知らないのだろう。温度計全部を本当に管理でき、各部温度変化も基準値内に収める、ということが事故時に本当にできるのか、という問題なのだ。できる、と主張するなら、その証拠を見せてみよ、と。そういうこと。


ア)の後者の場合であれば、30年以上の照射年限を経過した材料で、現実の稼働原発と同等条件下で、見境なく冷却してみたとしても、配管やバルブやバルブ周囲の可動部に用いられてる金属材なりが、熱衝撃により破壊されず耐え得る、という実証をすることだ。30年稼働(照射)という条件が、クリアできるかな?圧力容器本体は同等材料が入れられており、定期的に検査されていると思うが、本体が破壊されずとも、他部材に冷却水が大量にぶっかけられて、加圧された状況下でも本当に耐え得るものなのかどうか、その証明は本当にできるのか?



イ)であるが、BWRよりもずっと高温強圧に加圧された圧力容器に接続するどこかに破壊が生じたとしても、プラントの健全性は保たれる、と。格納容器のどこにも脆性は存在しない、と。作業員は何ら問題なく、事故対応が継続できる、と。そういう証明ができることでしょう。
仮に今後20年以上の稼働期間を見込んでいるなら、運転開始から50年以上経過したプラントの安全性について評価する方法を持っていることでしょう。それを示せばよいのだ。


それから、フランスの原発について、ニュースを少し。

ドイツが隣国フランスの原発を廃止するよう求めていた件である。

>http://www.afpbb.com/articles/-/3079347


フェッセンハイム原発を廃止せよ、と他国民がフランスに対し要求するという、日本では考えられないような事態ということである。当然、自国の政策なのだから、フランスとしては突っぱねたいところだが、何せ関係の深い両国ということもあり、何とフランスが受け入れを表明した、とのことである。

>http://www.afpbb.com/articles/-/3079469


また、スイス・ジュネーブはやはり隣国フランスのビュジェ原発について、『故意に住民を命の危険にさらし、水を汚染している」として提訴』(AFP記事より)となっている。
日本人の提訴が国際的に見て特別変わっているわけではない、ということである。


裁判官を米国に研修に派遣する、という話があったと思うが、そもそも派遣以前に国際的な事情なり知識を欠如した裁判官たちをどうにかするべきなのだ。
いやいや、国際感覚云々以前の、日本のごく普通の常識的なことを、ごく普通に思考できる判事となれるよう、教育なり研修なりをするべきなのである。


原発行政を正すことのできる司法を応援しよう(追記あり)

2016年03月15日 14時09分21秒 | 法関係
先日の大津地裁の仮処分決定に関して、もうちょっと追加しておきたい。


まず、大勢の国民が裁判所なり原子力規制委員会なりを、真剣に応援し、これを支持する覚悟をもってすれば、必ずしも全部が全部権力サイドのご意向に従うわけではないかもしれない、ということを、ほんの僅かな希望なのかもしれませんが、心の何処かに持っている方がよいと思います。


その為には、原発推進派や電力会社に対抗できるよう、主張したり、諦めず声を上げ続けることだと思います。そしてなにより、「我々は常に見ているぞ」という、多数の国民の存在を示すことが重要かと思います。


原子力規制委員会の人たちだって、日本に原発事故が起こって欲しいとか再度悲劇が訪れてもいい、などと考えている人たちは、一人もいないと思いますよ。だから、全否定をする存在ではないんだ、と心の片隅に思っていてほしいな、と。

たとえ、原発が全て停止したとしても、これを何十年か何百年か分かりませんけれども、世紀単位のオーダーで管理し続けて、どうにか処理をしていかねばならないことは既に確実なのです。福島原発の事故処理だけの話ではありません。核の管理は、ずーっと続くということです。この作業を全て管理監督することだけでさえ、多大な労力を伴うし作業員の安全確保は必須ですから、規制庁の役割はいつも求められます。


処理の見通しが立つまでは、延々と冷却を継続しなければならないわけですから、これは簡単なことではないのですよ。
規制庁は、そうした管理体制をきちんとできるようにやってもらいたいと思いますし、場合によっては、廃炉作業の面で各民間企業なり業者なりを先導しまとめる役割が必要になるかもしれません。



一方、裁判所についてですけれども、15年には川内原発に関して残念な結果となってしまったこともありました。けれども、兎に角、怯えず、諦めず、言い続けて行くしかないのではないかと思います。応援の声が大きくなればなるほど、矢面に立つ判事たちを勇気付けることができると思います。


拙ブログ記事を再度、読んでほしいです。

2015年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1734b8fc948cf410eabfd64ef62d9a04

(一部再掲)

原子力発電所の有するこうした深刻な危険性に鑑みれば、本来国が使用を中止し、少なくとも、国民の生命財産を保護し健全な社会生活を営む為に、他の取り得る代替手段が全く存在せず、その使用がやむを得ないという特段の事情がある場合を除いては、行政が使用を控えさせるべき義務を負うと考えられる。

行政がこのような義務を履行しないという重大な危険の存在を認めた場合には、裁判所は、法律上の強制的な権限行使が許容されるばかりでなく、行政に義務履行を促すべく措置を採ることを実施すべきであり、原子力発電所事故がもたらす結果の重大さと事故予防の重要性の観点から、裁判所には率先して危険を除去し事故を防止すべき責務があるものと考えるべきである。


=======


偉そうなことばかり言って、すみません。

けれどもね、私は、悔恨の中で死んでいった吉田所長をはじめ、死地での過酷な作業に従事して、命を落とされた人々の魂に報いる為にも、また現在も作業を続ける人たちの為にも、安易に「原発は安全だ、これまで通り稼働できる」などとは、言えないのですよ。他の原発施設に人員を割くより、まずは事故処理を優先し、全国の作業分散化を計画的にやってゆくべきだと思います。


これは、魂の救済をかけた、日本に生まれた人間としての戦いなのですよ。



追記:18時頃

本日付の記事で、昨年末の福井地裁での再稼働を容認した決定に関して、裁判官にまつわる記事があったようだ。

>http://lite-ra.com/2016/03/post-2066_2.html

(一部引用)


問題は林裁判長の経歴だ。1997年に任官した林裁判長は最初の赴任地が東京地裁で、2年後に最高裁判所事務総局民事局に異動。その後も宮崎地裁勤務以外、東京・大阪・福岡と都市圏の高裁と地裁の裁判官を歴任している。(中略)

この最高裁事務総局というのは、裁判所の管理、運営、人事を仕切る部署で、将来は最高裁判官を狙えるようなエリートが集まるところだという。林裁判長は人事権を握る事務総局から目をかけられ、将来を約束された最高裁長官さえ狙えるようなエリートだったのだ。
 いや、林裁判長だけではない。昨年12月、林裁判長と一緒に高浜原発再稼働を認めた左右陪席の2人の裁判官、中村修輔裁判官と山口敦士裁判官もまた最高裁判所事務局での勤務経験があるエリート裁判官だった。
 中村裁判官は一度も遠隔地赴任がなく、東京、横浜、大阪で過ごし、事務総務局総務局付で国会対策などを担当したエリート。
 また山口裁判官も大阪高裁や出向で外務省の花形ポジションである国連日本代表部2等書記官の肩書きを持っていたという。

=======


拙ブログでも、林潤裁判長、中村・山口裁判官について、批判記事を書いた。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5c7a0f104368dc6b7abb6a3d250109c7



『220ページを超える膨大な量ですが、要点を平たく言うなら、「示された基準に合格しているんだから、文句言うな、合格は合格だ」ということです。しかし、福井地裁の林潤裁判長、山口裁判官、中村裁判官の判決には、重大な欠陥があります。このような人たちが、本当に重大な安全上の問題を判断できるものなのか、大いに疑問があります。根底から、安全思想と言いますか、事故防止の対策を考える上での常識の欠落があると思います。』

と重大欠陥について指摘した。
本音部分については、後段の方に、

『ヒューマンエラーが発生することを前提に設計できない、というのは、これがまさしく福島原発を崩壊に導いた最大要因だということが、まだ裁判官にすら理解されてないのだよ。こんな連中に、司法審査を任せるという日本の裁判所というのは、どうなっているのだ?
個人的感想を許してもらえるなら、はっきり言って、判決で出した理由は、頭がおかしいとしか思えない。どうして、こんな低レベルなヤツラに委ねなければならないんだ!』

と書いた。
道理で、結論ありき的な、分量だけ多くて無駄な作文を連ねただけの220ページを超える大作(笑)だったわけだ。論点をぼかしつつの、彼らにとっての再稼働させる為「お得意の”作業”」をこなしたに過ぎない。エリート気取りのお仕事、ということだな。




高浜原発運転差止仮処分~大津地裁決定(追記あり)

2016年03月10日 13時24分11秒 | 法関係
まだ決定文書を読んでいないのだが、報道から感じたことをとりあえず書く。時間がある時に、大津地裁決定を読んで考えてみたい。


これまでのなし崩し的再稼働に対し、裁判所が問題点の指摘をした決定であったと思う。報道からすると、恐らく(関電側が)説明義務を果たしているとは言えない、という考え方なのではないかな、と思う。
政権の顔色を窺うことなく、差止め決定を出した裁判所の勇気を高く評価したい。


さて、今朝の読売新聞には、大津地裁決定についての論説が掲載されていた。論者は、遠藤典子慶大特任教授、近藤恵嗣弁護士(工学博士)、升田純・中大法科大学院教授の3名だった。

当方の理解をかいつまんで言えば、遠藤氏は原発稼働のハードルは上がっているが経済性も留意せよ、ということで地裁決定についての言及はほぼ回避されていた。近藤氏は、「事故は起こらない」「そんなに揺れない(から壊れない)」というような立証に終始することより、万が一事故が発生したとしても「対策で被害は及ばない」という方向に転換するべきではないか、という現実的な意見を述べていた。

両氏の言いたいことは分かるし、原発行政の一般的なことなので的外れということでもないと思われた。そういう考え方は考慮に値しますね、とは思った(上から目線っぽい言い草で失礼)。だが、升田氏はかなり厳しい裁判所批判を展開しており、見出しも「結論ありきの決定 疑問」とする刺戟的なものだった。


そこで、升田教授の論説について一部紹介し、拙ブログの感想などを述べたい。


『一つは、立証責任の所在が関西電力にあるとした上で、…(中略)
しかし、伊方訴訟が正式裁判だったのに対し、今回は仮処分だ。正式裁判で求められる「証明」よりも簡易な「疎明」で足りるはずで、提出できる証拠も限られる。にもかかわらず、争点となった過酷事故対策については、裁判所として関電が行うべき安全対策の基準を示さないまま、「主張及び疎明が不十分な状態」だと断じている。これでは関電がどうしていいのかわからないだろう。伊方判決の趣旨をはき違えているように思える。』


升田教授の言い分は、こうだ。
ア)簡単な疎明で足りる
イ)裁判所が安全対策基準を示さないから関電はどうしていいか分からない
ウ)伊方判決趣旨をはき違えている

まずイ)だが、裁判所は安全対策基準を具体的に作り出すことなどできない。行政の仕事であり、基準を裁判所が示す義務など存在しない。安全対策は、基本的には規制庁と事業者の提出する資料に基づき、普通は(これまでは)こうするんだなと分かるだけである。
例えば医療であれば、学会基準のような具体的指針、教科書、成書、論文、海外との比較、等で判断されるだろう。裁判所が求めるレベルはどの程度か、は、これら客観的提示資料(=当事者意見に左右されない)から総合的に判断されるだろう。

だとすると、関電はこれに類する提示資料をきちんと裁判所に示せたのか?この点において、不十分だと指摘されたものと思う。
仮に、人が「病気X」で死亡しました、というエピソードがあったとしよう。裁判官が「患者さんはどうして死んだんですか?」「原因は何ですか?」「病気Xの治療法はどうなっていますか?」「次に同じ患者さんが出た時は、どのように治療できますか?」と具体的に尋ねているのに、「私は医師国家試験に合格したので、きっと治療できます」としか言われなければ、どう判断できるのか、ということだ。

裁判官の仕事は、病気Xの治療法だの診断基準だのを「生み出す」ことなどではない。まず高い専門性の分野を担っている側(例えば医師とか、原発事業者とか、行政庁とか)がきちんと説明・資料提示を行った上で、このような治療なり対処なり判断なりの根拠がこれこれこうなので、「現状では自分の主張が正しいと言える」と明示できるはずだ、ということ。その意見の妥当性なり合理性なりを裁判所が判断するのだから。


関電の言い分程度では、裁判所の判断の前提となる「きちんと説明・資料提示」ができていない、ということであり、それを裁判所に指摘されたと考えられるのである。升田教授がいう「関電はどうしていいか分からない」なら、裁判所はもっとどうしていいか分からない、というだけである。
高い専門性を持つ側がきちんと説明できてないなら、裁判所を説得できるはずもなく、主張を判断してもらうことなどできまい。升田教授の裁判所が安全対策基準を示せという要求は、無謀のように思われる。


次を見てみよう。

『二つ目は、検討内容の乏しさだ。福井地裁が昨年12月、高浜原発3、4号機の再稼働を認めた保全異議審の決定書は、200ページを超えていたが、今回は3分の1以下しかなく、提出された証拠を十分検討したのかという疑問さえ抱かせる。一つ一つの争点に対して、抽象的な事実を列挙した上で、「説明が足りない」の一言で片づけてしまっている。』


また升田教授の言い分を列挙する。
エ)福井地裁決定書は200頁超なのに今回は70頁以下
オ)提出証拠の検討に疑問
カ)抽象的事実で「説明が足りない」と片づけている


ページ数が多けりゃいいというものではない。そんなことを言うなら、国が提出した辺野古代執行訴訟の準備書面は、900ページ超だったとからしいが、これを壮大な無駄と呼ぶのではなかろうか。どんなに無理無駄な主張を連ね、虚飾を重ねようとも、間違ってるものは根本から間違っているのだ。しかも、間違いの理由を説明するのに何百ページも要するわけでなく、比較的少量であっても適確に間違いを言うことはできる、というのが重要なポイントなのである。

抽象的事実で足りないと片付けてるかどうかは、決定書を読んでないので分からない。過去の福島原発事故の原因究明・検証・説明などからすると、事故防止という観点から正確・妥当な意見が出された形跡などどこにもない。加えて、過酷事故発生時には、誰が責任を持てるのか、本当にきちんと対処できる人間が存在してるのか、それすらも不明のままである。


升田教授にしてみると、疎明は簡単でよいが、裁判所は数百ページにも及ぶ決定書―まるで本裁判の判決文のような―を書け、と要求するのは当然、ということであろう。分量の多寡ではなく、考え方や判断の適切さを見るべきなのであり、思考方法が間違っていれば、無駄な資料をいくら添付した所で意味などないということを知るべきである。


因みに、無駄にページ数が多いというのは、代執行訴訟の準備書面に限らない。東電の事故調査報告書も、矢鱈とページ数が多くて確か900ページくらいあったわけだが、その多くは「何ら役に立たないもの」が並べられており、事故の真相に迫れる資料などごくごく限られていた。

彼らに共通する傾向があるだろう。官僚主義的であること、責任逃れに終始すること、要点をボカして煙に巻こうとすること、などである。理由は簡単。何を言っているのか、分かり易く「理解させない」為、だ。
専門用語などを並べ立ててしまえば、相手は何を言っているのか分からなくなる、ということにできるから、だ。件の福井地裁の決定書も同じく、事業者側主張を単になぞるだけの空疎な内容であった。


本当に重要な核心部分というのは、できるだけ簡潔明瞭に説明しようと心がけるものだ。それは、相手を説得しようと努力するからだ。この欠如が東電であり、関電であり、九電他の原子力事業者、ということである。

自動車の速度が時速60kmだと、どのような物理的エネルギーを有するか、自動車の挙動はどうなるか、等といったことを平板に並べ続けたって、事故原因を探ることにもならないし、運転者の過失の有無の判断にも至らない。問題なのは、運転者がどのように注意して運転していたか、どういう行動なり操作を行ったのか、という点である。対策を考える、とはそういうことであるはずだ。


これまでの原子力事業者の主張から見て、日本で原発運転を任せられる事業者というのは、本当に存在するのかと問われたら、否と言わざるを得ないというのが率直なところである。この危惧を認めてもらったのが、今回の大津地裁の決定だったものと思う。



※※11日追記:

昨夜、決定書全文を読んでみました。
報道から推測されたように、関電側の説明なり資料提示がまこと不十分である、ということが分かりました。それは、建設前にやった設置申請の書類提出程度であって、福島原発事故を受けての対策として調査研究した資料というレベルにはない、というものであろうと思われました。

大丈夫だ、と宣言する側が、どう大丈夫なのかをきちんと言えておらず、その大丈夫だと言ってる根拠も曖昧なのではないですか、と指摘されているものということです。



平気で嘘をつく政府及び法務省訟務局の自己矛盾

2016年03月07日 16時51分18秒 | 法関係
辺野古埋立について、安倍政権が代執行訴訟を提起したにも関わらず、裁判所の和解案を受諾することになったわけであるが、これにより、国の主張が徹頭徹尾デタラメであった、ということが明らかになった。


裁判での争点の一つと言われていたのは、知事の取消処分が妥当なのかどうか、ということであった。

国側は、これまで何と言ってきたか?
(知事の)「取消処分は違法だ」
「一度承認したものは、取り消せない」
だったであろう?

ところが、である。

何と、国交省は執行停止の決定を取り消したのである。おかしいですね。
国は、一度出した授益的処分は原則として取消できないことを、最高裁判例まで持ち出して自己の正当性を主張していたではないか。その理屈は、どこに行ったのだ?

取り消した場合と取り消さなかった場合の不利益の比較考量により、高いハードル(笑)を超えないと取り消せないと、準備書面で主張していたではないか。

15年11月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6285ad6c968ae5b68fe319db1ccd4eeb

(因みに、拙ブログでは、処分は取消できる、と言ってきましたよ)


和解案を受け入れたので、執行停止を取り消したんだ、という言い訳をしたところで、国が執行停止を決定しこれを実施したこと、決定通知書の存在、これらは消すことができないものである。事実として、永久に残ったのだ。

少なくとも、国側主張の言い分が正しいとしてこれに沿うなら、執行停止決定の取消は処分であって、準備書面で述べたように取消しない不利益が上回らない限りは「取消できない」ものである。これが国自身の主張を取り入れた場合の対応である、ということだ。執行停止が取り消せる、ということは、執行停止を維持する場合の不利益と執行停止を取り消す場合の不利益を比較してみれば、前者の方が「不利益が大」である、ということだ。

執行停止をしてた国が、執行停止を維持してる方が不利益が大きい、と認めたということである。おかしな話だ。
事業者が審査請求や執行停止申立てを取り下げた場合においても、執行停止は職権で実施可能である(行政不服審査法第34条第2項)ので、取り消す必然性などないと言える(法34条4項適用の場合においても、2項は除外されないので職権で執行停止を維持できる)。
国が決定した執行停止が本当に正しかったのであれば、取り消すことなどあり得まい、ということだ。先行する事業者の申立てが消滅したので、執行停止する利益が存在しないから取り消したんだ、ということであれば、それでもいいが、矛盾を解消できることにはならない。

国交大臣が沖縄県知事宛てに、「承認取消処分」を撤回するよう求める、ということは、今もって「知事のなした埋立承認の取消処分は間違っている」という主張を維持しているのでしょう?
ならば、執行停止が維持されて当然というのが、普通の見解なのではないのかね?国交大臣の出した執行停止の「決定を取り消し」た上で知事に承認取消処分を改めよ、と求めている、その理由を説明できるかね?

知事の出した「取消処分」は生きており、消えるわけではないのだよ。政府見解は「知事の処分は間違ってる」というものだから、執行停止を取り消す理由を説明できなければならない。それは、訟務局が言い張った、「不利益の比較考量」によってのみ説明されなければならず、執行停止決定の時に挙げた理由は崩壊する(笑)。



○行政不服審査法 第三十四条

審査請求は、処分の効力、処分の執行又は手続の続行を妨げない。

2  処分庁の上級行政庁である審査庁は、必要があると認めるときは、審査請求人の申立てにより又は職権で、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止その他の措置(以下「執行停止」という。)をすることができる。

3  処分庁の上級行政庁以外の審査庁は、必要があると認めるときは、審査請求人の申立てにより、処分庁の意見を聴取したうえ、執行停止をすることができる。ただし、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止以外の措置をすることはできない。

4  前二項の規定による審査請求人の申立てがあつた場合において、処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があると認めるときは、審査庁は、執行停止をしなければならない。ただし、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき、処分の執行若しくは手続の続行ができなくなるおそれがあるとき、又は本案について理由がないとみえるときは、この限りでない。

5  審査庁は、前項に規定する重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たつては、損害の回復の困難の程度を考慮するものとし、損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案するものとする。

6  第二項から第四項までの場合において、処分の効力の停止は、処分の効力の停止以外の措置によつて目的を達することができるときは、することができない。

7  執行停止の申立てがあつたときは、審査庁は、すみやかに、執行停止をするかどうかを決定しなければならない。




それから、執行停止の理由について、農水省の決定でも、国土交通省の決定でも同様に、34条4項に基づいて、「重大な損害」と「緊急性」(=緊急の必要があると認めるとき)を理由を挙げて指摘、主張していたものである。裁判においても、執行停止は正当である、との主張をしてきたわけだ。


ならば、お尋ねしよう。
執行停止が取り消されるということは、どういうことを意味するか?
それは、「重大な損害」と「緊急性」の要件を満たしていなかったものだ、ということを必然に意味する。
「重大な損害」を蒙るから回復不可能なので、それを回避できる唯一の方法が執行停止、ということなんですよ。執行停止をしなくてもいい、という状態ならば、これは「重大な損害」要件に該当してない、ということです。それとも、緊急性は備えていなかった、ということになりますよ?
「重大な損害」でもなかった、或いは、そんなに言うほど「緊急」でもなかった、ということなら、執行停止決定の理由は嘘を言った、ということなりますよ?
おまけに、準備書面(or反論書?)でも言ってきた「重大な損害なんだ、緊急なんだ」だから工事を続行しなければならないんだ(=知事の処分を執行停止)、という言い分は、真っ赤な嘘だったと認めたことになるのですよ?
(差止め訴訟でありがちな、取消訴訟で取消処分が出て被害が回避可能な程度の損害は、回復不可能な「重大な損害」に該当しないよ、という裁判所の見解は今後どうするんだね?)


このような、物言いをペテンと呼ぶに相応しいのではないですか?(笑)

元検察とかいう人間であっても、ペテン師もどきはザラに見かけるので驚きはしませんが、ここまでその場しのぎの、ご都合主義となれば、国の言い分は到底信じることはできませんね。


要するに、

・執行停止を決定した際に挙げていた理由は、嘘だったと認めたことになる

・昭和43年最高裁判例を引いて主張していた授益的処分の取消に関する言い分は、デタラメだったと認めたことになる
(それとも、不利益の大きさ比較が完全に間違っていた、と認めるか?)


矛盾なく説明できるなら、してみて>訟務局


高浜原発の再稼働を阻止する抗告で何を主張するか

2015年12月25日 13時07分02秒 | 法関係
昨日の続きです。


福井地裁決定において、福島原発事故の教訓を活かせ、その知見を事故防止策に反映すべし、とされている(引用部は適当に探して下さい)。そうであるなら、前提として、福島原発事故の原因について事業者がこれを熟知し理解しているべき必要がある。これを法廷で事業者に言わせる必要があるのだ。

福井地裁決定では、津波の対策について、踏み込んだ追及をしていないので、そこを攻めるべきと思う。規制委員会の策定した基準の妥当性を争うのは、専門知識の量という点において不利だと思うので、別の攻め手を考えてみた。



◎質問1:福島原発事故は何故起こったのか、簡潔に答えよ。
恐らく、地震動による破壊はなかった、津波被害とそれによる電源喪失と答えるだろう。

◎質問2:津波被害とは、具体的にどういうものか?
押し流される等の破壊、浸水、とか言うことだろう。

◎質問3:津波対策は、津波の最大の高さ以外にはないのか?
福島原発でも事前予想の津波高さはずっと低く見られていたが、それを上回った為に大災害へと繋がった。

◎質問4:仮に津波被害が発生したとしても、重大事故への進展を防止できる対策は何か?
多分、別系統の電源やM/C・P/C代替設備がある、とか言うだろう。


津波対策の不備の可能性を追及できるのは、以下の点である。

ア)津波の破壊力はどのくらいなのか?=事業者はこれに適確に答えられなければならない

福島原発事故では、海水が建屋内に大量に流入した、とされる。
どこが破壊され、どれくらいの流量があるのか、が問題となるのである。従って、その破壊が起こる理由と具体的な破壊力の数値を挙げて答えられなければならない。

破壊の可能性は、例えば、①水圧、②漂流物の衝突、などがある。


イ)建屋に海水浸入の可能性=どこが破壊されうるのか、侵入経路はどうなっているのか

建屋がどれほど頑丈に作られていても、開口部は全く存在しないわけでない。出入口に相当する部分は必ず存在するだろう。それらが前記ア)の破壊力に抗し切れる強度なのかどうか、破壊されたらどの程度の流量が発生するのか、答えられなければならない。


ウ)福島原発事故では、約90cm程度(腰の高さまで)が水没した(故にD/G、直流電源、M/C、P/Cが使用不能となった)と説明された。その流入量は具体的にどれくらいの量なのか?

毎分の流入量、実際に溜まった推定総量、を答える必要がある。これを防げるかこれに匹敵する流入量があったとしても、高浜原発は支障がないことの証明が必要。水密扉があれば、全く水の侵入がないのか、どの程度の水圧に耐えられるのか、通路が水没しても重要設備の部屋が水没を免れれば何ら問題ないのかどうか、誰が扉を閉めるのか、電気的に扉閉鎖が確認できるシステムになっているのかどうか、疑問点は多々ある。


エ)漂着物、砂や泥の流入でも支障なく稼働できるのか

配線・配管類はシールされているから水漏れはない、というようなことらしいが、完全水没しても電気設備の健全性が維持されるのかどうか。水没している場所に降りていって、別の予備設備を繋ぎ込むなどといった矛盾が存在してないのかどうか。弁の開閉操作も、水没地点に影響されないのかどうか。排気塔が津波漂流物の衝突等で破壊されたとしても、問題ないのかどうか。
ショベルカーやクレーン車等が保管してある場所は水没を免れるのかどうか、エンジン等が水に浸かっても問題なく運転ができる状態なのかどうか。
水素ガスタンク車や重油タンク車等は水に浮く可能性が高いと思うが、そういう漂流物が衝突したり水が引いた後に残存して障害物として封鎖していても、問題なく除去できるものなのかどうか。

水没に伴い、真水に浸かっても稼働できる設備であっても、泥や海藻等が付着したり目詰まり等したりしても、問題なく動かせるものなのかどうか。漏電等の発生はどのように防げるのか。本当に完全防水なのかどうか。
流木等が固く嵌ってしまって扉が開けられないとか通行できないといったような事態はないのかどうか。


直流電源や別系統の回路といった代替設備は、災害による水没から完全に独立の設計となっているのかどうか。
福島原発事故では、1号機のコントロール建屋の中央制御室の下に直流電源室があったにも関わらず、これが水没したので照明電源も計測用電源も落ちてしまい、真っ暗でパラメータも何も分からなくなった、ということになっているわけだ。
だとすると、関電の高浜原発や大飯原発においても、同様の配置になっているなら、これが浸水しないという理由が必要だろう。高浜が浸水しないのに、何故福島原発では浸水したのか?
福島原発で水没するのに必要な浸水量は、関電はどう計算しているのか?計算根拠は何か?
東電の説明と整合性があるのかどうか?
この説明を、《事業者自身》にさせるんだ。


関電が説明するのに窮するなら、東電の事故原因の説明が嘘だということが明らかになってゆく。逆に、東電の事故原因の説明通りということであれば、関電の原発の設備類の配置について、問題として残り続けるだろう。



参考:

関電は、事故原因について、以下のように認識している、ということである。

>http://www.kepco.co.jp/corporate/pr/2011/pdf/1028_1j_03.pdf


6名だけでプラントを制御できると考えているのであれば、その人員で全部できるようになっていることだろう。
さて、本当に全部の作業をたったの6名でこなせるか?