私は結構陰謀論が好きな方だと思う。物語的というか、ストーリー性がある方が、いかにも歴史的事件とか特別な出来事っぽい気がするからかもしれません。例えば『影武者 徳川家康』なんかも、広い意味ではそういう類のものでしょう。ただ、それは娯楽的な意味合い(言葉がヘンかもしれない、小説、映画、テレビ、漫画とか…そういう題材ということ)が強いのであって、心の底から「これが真実だ!」とか何かの宗教じみた信奉のようなものはなさそうだと思うのですよね。陰謀論への接し方としては、「なるほど、そんなウマイ解釈も成り立つか」という斬新な視点を楽しむものではないかな。いわば推理小説の謎解きシーンみたいなもので、ストーリーとしてはいいのだけれども、現実世界ではそんな事件ばかりではないし、実際はもっと平凡だったということが多々あるようなものかな、と。
小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 2007-09-20
陰謀論について簡潔に示されていて、勉強になりました。
今の時代というのは、陰謀論は蔓延りやすい素地があるということなのでしょうか。
記事の一部を引用致します。
『現代のネオリベラリズム社会には、「陰謀論」を喚起する条件があるからです。ネオリベラリズムにおいては自己選択・自己責任論が基調となっていますが、そのためには個々人がある程度、社会について俯瞰した情報が与えられている必要があります。ところが、現代社会では、そのような情報こそ不足しているものです。「異質なむき出しの他者」の情報によって一時的に対処――つまりその他者を排除するという対処――はできますが、人生を選択し、それを自分で引き受けることはできません。「陰謀論」は、そのような情報の欠如想像的に補填し、情報の欠如による自分の「負け」を、「自分が『負け組』なのは影のネットワークの『陰謀』のよるものだ」というように、(自己責任ではなく)自分で引き受けることを可能にするものといえるでしょう。』
社会が複雑化すればするほど、社会についての俯瞰的情報を、個々人が得て正確に考えることは難しくなるでしょう。それに皆が正確無比に判断したりできるものでもないでしょうし、それを期待するのも全員に強いるのも難しいでしょう。そうして、陰謀論が喚起される、と。「人生を選択し、自分で引き受ける」ということは、生きにくい現代ではとても困難なことなのでしょう。
小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 2007-09-20
陰謀論について簡潔に示されていて、勉強になりました。
今の時代というのは、陰謀論は蔓延りやすい素地があるということなのでしょうか。
記事の一部を引用致します。
『現代のネオリベラリズム社会には、「陰謀論」を喚起する条件があるからです。ネオリベラリズムにおいては自己選択・自己責任論が基調となっていますが、そのためには個々人がある程度、社会について俯瞰した情報が与えられている必要があります。ところが、現代社会では、そのような情報こそ不足しているものです。「異質なむき出しの他者」の情報によって一時的に対処――つまりその他者を排除するという対処――はできますが、人生を選択し、それを自分で引き受けることはできません。「陰謀論」は、そのような情報の欠如想像的に補填し、情報の欠如による自分の「負け」を、「自分が『負け組』なのは影のネットワークの『陰謀』のよるものだ」というように、(自己責任ではなく)自分で引き受けることを可能にするものといえるでしょう。』
社会が複雑化すればするほど、社会についての俯瞰的情報を、個々人が得て正確に考えることは難しくなるでしょう。それに皆が正確無比に判断したりできるものでもないでしょうし、それを期待するのも全員に強いるのも難しいでしょう。そうして、陰謀論が喚起される、と。「人生を選択し、自分で引き受ける」ということは、生きにくい現代ではとても困難なことなのでしょう。