いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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現代に蔓延る陰謀論

2007年09月27日 20時13分28秒 | 社会全般
私は結構陰謀論が好きな方だと思う。物語的というか、ストーリー性がある方が、いかにも歴史的事件とか特別な出来事っぽい気がするからかもしれません。例えば『影武者 徳川家康』なんかも、広い意味ではそういう類のものでしょう。ただ、それは娯楽的な意味合い(言葉がヘンかもしれない、小説、映画、テレビ、漫画とか…そういう題材ということ)が強いのであって、心の底から「これが真実だ!」とか何かの宗教じみた信奉のようなものはなさそうだと思うのですよね。陰謀論への接し方としては、「なるほど、そんなウマイ解釈も成り立つか」という斬新な視点を楽しむものではないかな。いわば推理小説の謎解きシーンみたいなもので、ストーリーとしてはいいのだけれども、現実世界ではそんな事件ばかりではないし、実際はもっと平凡だったということが多々あるようなものかな、と。


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 2007-09-20

陰謀論について簡潔に示されていて、勉強になりました。
今の時代というのは、陰謀論は蔓延りやすい素地があるということなのでしょうか。
記事の一部を引用致します。

『現代のネオリベラリズム社会には、「陰謀論」を喚起する条件があるからです。ネオリベラリズムにおいては自己選択・自己責任論が基調となっていますが、そのためには個々人がある程度、社会について俯瞰した情報が与えられている必要があります。ところが、現代社会では、そのような情報こそ不足しているものです。「異質なむき出しの他者」の情報によって一時的に対処――つまりその他者を排除するという対処――はできますが、人生を選択し、それを自分で引き受けることはできません。「陰謀論」は、そのような情報の欠如想像的に補填し、情報の欠如による自分の「負け」を、「自分が『負け組』なのは影のネットワークの『陰謀』のよるものだ」というように、(自己責任ではなく)自分で引き受けることを可能にするものといえるでしょう。』

社会が複雑化すればするほど、社会についての俯瞰的情報を、個々人が得て正確に考えることは難しくなるでしょう。それに皆が正確無比に判断したりできるものでもないでしょうし、それを期待するのも全員に強いるのも難しいでしょう。そうして、陰謀論が喚起される、と。「人生を選択し、自分で引き受ける」ということは、生きにくい現代ではとても困難なことなのでしょう。



閉鎖された塔の悲劇

2007年09月27日 00時08分06秒 | 俺のそれ
泣けた。

慣性のある生活 - ネットに何か書くことの利点を初心に帰って思い出す


閉じられた世界というのが悲しすぎる。

『Yさんは、何度も言うが、優れた切れ者だった。僕など永遠に及びも付かぬようなセンスにあふれていたし、そのセンスにおごらずに、論文と言う形に自分の思念を還元できる人だった。彼の言葉が、たった一言でもあの象牙の塔から外に出なかったと言うこの事実は、僕には凄い重たいことのように思える。』

論文に還元できたのに、その煌く才能が華開くことはなかった。重い。本当に重い。
無駄に才能を葬り去ったかのような罪悪感に苛まれる。私は勿論当事者でも関係者でもないが、世に出ることのなかったその人の文章というものに触れてみたかったと思う。こういうことを見過ごすことは、自分が加担者になった気分になってしまう。
「たった一言でもあの象牙の塔から外に出なかったという事実」は、大学という閉鎖的世界を象徴しているのかもしれず、そういう世界を許していることに何らかの責任を感じずにはいられない。

こんなことを言っても慰めにもならないだろうし、今更どうにもなるものではないのだが、指導者の問題というのはどうにもできないので、それを救済できる「道」みたいなものがあるべきなのだろうと思う。具体的には判らないのだが、隣の教室の先生とか、兎に角誰でもいいので相談できたり、教室を移動できたりする制度があった方がよいのではないかと思う。2、3年やっても、尚且つ自分の道が指導者によって閉ざされそうな時には、隣接分野の教室にでもいいから移れる方がいいのではないかな。よく判らないけれど、文学部にも色々な研究分野がきっとあるだろうから、どこかで面倒を見てもらえることにする方がいいと思う。正当な叱咤というものがあるとして、そういうのから大きく逸脱しているような教官だと一生浮かび上がれないもの。才能への嫉妬なのではないかとさえ思えてしまう。


彼は生きていてよかった。それが一番だ。
そんな教官の為に、貴重な命を失わずに済んで良かったよ。今の時代、ネットがあるから、ひっそりとでも書き続けていけば、何かの道が開けてくるかもしれない。彼には、諦めずに書いて欲しい、と願う。生きてさえいれば、書いていけば、いつかは膂力はついてくるようになるかもしれない。自分で扉をこじ開けられるようになれるかもしれない。

そんなことを思った。