いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「スーパースターへの挑戦」だそうです

2006年08月08日 18時13分56秒 | 社会全般
面白い記事があったので、紹介しておこうと思いました。国民生活白書からですよ。


平成18年版 国民生活白書 本文 第1章 第2節

(以下に引用)

芸能人やスポーツ選手などのいわゆる「スーパースター」になろうと、日夜努力を続ける若者たちがいる。言うまでもなく、そうした挑戦が成功する確率は極めて低い。しかし、若いときにそうした一時期を持つことは、個人にとっても意義深いとともに、社会全体にも大きな利益をもたらす。

「スーパースターの経済学」でも分析されているように、スーパースターのしばしば天文学的な報酬は、テレビやCD、インターネットなどを通じて、彼/彼女の「芸」が広く世界中で享受されることを反映している。そうした傾向は技術の発展とともに、今後ますます強まっていくであろう。そうした、全世界の人々が楽しむことができる芸術を生み出す「スーパースター」は、なるべく広い範囲の「候補者」から選ばれることが望ましい。より多くの候補者が競い合えば、より優れたスーパースターが誕生するに違いない。

そのとき、極めて低い成功確率であるにもかかわらずどれだけ多くの人々がチャレンジするかは、「社会がどれだけ再挑戦しやすいか」に大きく依存するだろう。スーパースターになれず「夢破れた」ときに、職業技術を学び直すことなどによって違う進路でやり直すことができれば、志のある若者は比較的安心して小さな可能性に賭けることもできるだろう。そうではなく、「やり直し」の環境が整っていない場合は、スーパースターへの挑戦ができるのは経済状況などに恵まれた一部の人々だけになってしまう。それは個人にとって残念なことであるとともに、スーパースターへの道の「競争率」が下がり、結果として勝ち残ったスーパースターの質も低下してしまう可能性がある。

このように、再チャレンジの容易な社会は、個人個人の若者にチャンスを与えるために有益であるのみならず、より質の高いスーパースターを世界が見出すという意味でも重要なのである。





これが「再チャレンジ社会」ということの一部でもある、と。まあ、そうかもしれんね。成功者の中には、長い下積み時代とか、結構あるかもしれないし。退出を余儀なくされる人々は、その何倍も何十倍も、もっとかもしれないが、いるはずだしね。


若い世代の人たちが積極的にチャレンジしてくれるといいのですが。閉塞感ばかりが多いようにも思えて、ネット上などで見ていても、ちょっと可哀想ではあります。ですが、そういうのを打ち破る可能性も力も、きっと持っている人は出てくると思うので(何かの分野で活躍している若い人は出てきているので・・・)、そういうのに期待したいと思います。私のようにある程度の年齢が行くと、難しくなってきますからね。



暑くて・・・

2006年08月08日 11時27分11秒 | 経済関連
なんでこんなに暑いんだろう?
死ぬ。

いつもは持参する飲み物は1リットルだが(500ml×2)、ここ最近は必ず3本は必要になってしまってる。困ったもんだ。

夜はビールの消費量が増大してるし。笑

もらい物のサントリーのプレミアムビールを最近飲んでる。確かにスッキリしていて、ウマイね。ややフルーツっぽい感じだし。なので、更に飲む量が増える。笑

でもね、エビス黒が一番好き。
飲みやすい。味も一番好き。


ビヤガーデンはかなり挽回しただろうね、この暑さで。良かったね。



歴史とは、誰かの物語だよね

2006年08月07日 20時57分59秒 | 俺のそれ
最近色々な場面で出くわす言葉がある。「歴史認識が~云々」「歴史的な解釈は~何とか何とか」という具合に、「歴史」という言葉を何度も目にする。古くから、人類の歩みを記した歴史家たちは多く存在した。それらの記述は、伝説や言葉などの由来としても残っている。昔から、人間の考えようとすることには共通性があるのか、それとも彼らが遺してきた歴史的記述を学んだ結果なのか、それは判らないが、歴史というのは、必ず人間の物語なのであり、大河ドラマと何ら変わらないのだと思う。


後世の研究者たちは、揃えられるだけ資料を揃えたりして、情報を細かく集め分析できる。なので、何かの出来事の理由を考える時、そういった状況証拠のようなものを使って、もっともらしい理由を考え出す。それはきっと正しい部分もあるだろうと思う。だが、当時の「現在進行形」で直面している人々は、全ての情報を知っている訳ではないし、相手の取ってた行動とか心情とか思惑なんかは見通せないことの方が多いはずだと私は思っている。それ故、登場人物としては、たとえ重要な判断であっても、個人個人が「いい加減」に行ったりするしかなかったりするし、賭けみたいな一か八かということも多々あるだろうな、と思う。それが後世になれば、「~~の理由があったから」とか、「○○を行うのは必然だった」とか、分析されたりするのだけれども、当の本人がどの程度知っていたか、考える能力があったか、判断材料を持っていたか、というのは、案外正確には判らないものなのではないだろうか。


また変なたとえ話をしてしまいますが、我慢して下さいね。


昔、ある男Mに好きな女の子がいたとしよう。仮に中学生としよう。Mはある女子生徒Aが好きで、何とか自分に振り向かせようと、考えていたとする。そうだな、掃除のバケツの水をワザとかけて、「ゴメンね」とか何とか言って、話すキッカケを作り、その後の展開を狙っていたとしよう。水だからかかっても大したことないだろうし、少ししかかけなければ大丈夫だ、と。で、水をかけた後で、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、優しく拭いてあげれば好感度がアップする、なんて自分勝手な都合のいいストーリーを描いていたとしよう。

女生徒Aは、Mがこんなとんでもないストーリー(笑)を妄想しているなんてことは露知らず、無防備に歩いているわけです。Mが自分に好意を抱いていることさえ知らないのですね。ここに情報の不一致というか、偏在というか、自分は知ってるが相手は知らない、という状況があるのです。で、まんまとMの待ち受ける廊下の先へと歩いて行ってしまい、バケツの水をかけられることになるのです。


物事がシナリオ通りに運ぶことは少なくて、想定外の事態が起こりがちなのですね。不思議なんですけど。
Mは凄く緊張して待っていたのですが、あまりに緊張しすぎて、自分の腕のコントロールも力のコントロールも失っていて、かけるバケツの水の量をコントロールすることもできなくなっていたのですね(笑)。なので、バシャっと、本当にずぶ濡れみたいに、たくさんかかってしまったのです(これをとりあえず、「ずぶ濡れ事件」と名づけることにしましょう)。

何となくわかりますよね、こういうの。微妙な筋肉のコントロールを失いがちなのは、経験したことがある人はいるかも(スポーツで、プレッシャーのかかる場面で、それに近い経験をされた方はおられるかもな、と)。

AはMに水をしこたまかけられて、「ウッソー!!信じらんなーい!!何これ?死んじまえ、ウスノロ腐れオトコ!!」と罵詈雑言を浴びせ、呪いの言葉を吐くことになってしまったわけです。いつもなら、これほど怒りの言葉を言わなかったかもしれません。しかし、この時ばかりは、違ったのです。

実は、今日はAの親友Bの誕生日で、その子の家に何人か友達が集まることになっていて、その中にはAのお気に入りのC君も来ることになっていたのです。でも、そんなこととはMは知りませんから、こういう無謀な計画を実行してしまうことになってしまったのです。しかも、Mはその後のフォローが全くうまくできず、「ご、ご、ご、、ごめめんネ、だだだいじょいうぶうう・・・」と変態チックな発語になってしまい、更にキモく思われてしまったりするのです。これも緊張のせいなのですけどね・・・・


Mは計画を練るにあたり、周到に準備していたはずだったのです。親しい友人たちには、「な、Aって付き合ってる男とか、いるのかな?」とか情報を集めたりして、Aには彼氏がいないことも知っていたし、ここ半年以上は告白した様子もないということも、「特別な男子」の存在を疑わせるような噂話もないということも、知っていたのです。でも、全ての情報を知っていたわけではなかった。Cという男子を好きだというのも、今日Bの家に集まる日だということも知らなかった。しかし、もしも知っていたら、初めからこんな馬鹿げた計画は実行しなかったかもしれないし、Aのことを諦めていたかもしれないし、もっと別な計画に変更していたかもしれないということです。

Aにしても、もしもMが好意を抱いていると知っていればCに関心を寄せなかったかもしれないし、Mの計画を知っていれば当然「ずぶ濡れ」を避けることもできたでしょう。「ずぶ濡れ事件」の発生は未然に防げたでしょう。


こういうのを事後的に考える場合、いくつかの状況証拠から事件を組み立てることになります。歴史学者と同じく、「全て」の情報を知るわけでもないですから、どういう筋書きが想定されるか判らないのですよね。

仮に、
・Aの友人Bは、Aが「Mはキモい、ウスノロなオトコ、と語った」と日記に書いていた
・Mは友人に「大失敗した」と語った
・Mのクラスメートは「ずぶ濡れ事件」の様子を、傍目で見たまま書いていた

という記録があった場合に、MがAのことが好きで事件を起こしたかどうかは、後であんまり判らなかったりするのですよね。
Bの記録を見れば、あたかもAがMを前から恨んでいたかのようにも思えたりするし。逆に、MがAに良からぬ感情を持っていて、その恨みを晴らす行為であったのではないか、もっと酷い仕打ちを考えていたのかもしれない、とか。当事者じゃないのに、Bが勝手な解釈や脚色をしてたりして、日記に書いたてたり、とか(女子にはありがちなんじゃなかろうか?と思ったりします、笑)。案外真実は、当人たちでさえ正確に判らなかったりするんじゃないのかな、と。要するに、物語を「作者の視点」から見ることができるような場合じゃないと、正しい情報も判断したワケも知り得ないし、本当のことというのが判らないのではないかな。


このように考えると、どんなささいな出来事であろうと、歴史的大事件だろうと、人間が生み出すのであり、そこには全ての関係者それぞれに物語があり、どこでどのような繋がりになっているか、誰が何を知っていて何を知らなかったか正確には判らないけれども、何かの「ドラマ」みたいなのが横たわっているのではないでしょうか。例えばある重要人物が殺された理由というのが、意外に、殿様の「奥方」から嫌われている部下だったから、とか、奥方の一番嫌いなオンナ(お姫様?)がたまたま好きになった男だったから、とか、そういう予想もつかないようなトンデモナイ理由が隠されているかもしれない、ということです。

なので、歴史研究というのは、人間をより理解しようとする試みなんだろうな、と思う。登場人物のいい加減な考えや勝手な行動とか、適当な判断とか、何がどれに繋がるかは判らないけれども、そういうものの組み合わせ・積み重ねの中で何かが起こってくるのだろう。登場人物にできる限り近づくことができれば(あるいは再現できれば)、謎の一部は見えてくるかもしれないですね。そういう物語性にこそ、意味があったりするんじゃなかろうか、と思えるのです。



「現代日本教養論」を読む

2006年08月06日 18時54分47秒 | 俺のそれ
大袈裟なタイトルになってしまってますが、単にネット上の記事を読んだだけなんですけれど・・・笑。

まだ最終回にはなってないので、どういう結末が待っているのかは不明なのですけどね。ネット上で割りと知られた稲葉、山形両氏が対談しているという企画なのです。

東洋経済オンライン 東洋経済オンラインマガジン 現代日本教養論


前半は東氏の「動物化」論を軸に進んでいますが、稲葉氏の「3項図式」というのが出てきたので、ちょっと気になって取り上げました。これって、どこかでお目にかかったような・・・・とお思いの方は中々です(笑)。宮台氏が引き合いに出していた、丸山眞男の「3元図式」と極めて近いのではないのかな、と(大衆は何に対峙しているのか(追記後))。稲葉氏はインテリ・大衆ともう一つを「ヘタレ中流インテリ」と呼んでいますね。丸山は「亜インテリ」としていたようですけれども。両者においては、その意味合いも役割も違うのかもしれませんが、発想的には非常に近いですね。


「2項対立」の図式というのは、簡明であるが故に割と用いられ易いかもしれない。「右翼―左翼」「賛成―反対」「大衆―インテリ」という具合に、2つに区分してその違いを示すことは、基本的な構図と言えそうだ。その中間に、ある「不明瞭な存在」を定義することによって、曖昧さをカバーすることもできるし、何かの特定の役割を担わせたり、原因をそこに求めさせることも可能となるように思える。その存在自体は、実際には明らかにはできないのではないかと思えるけれど。


2項間にグラデーション的に配置することによって、「濃い―薄い」の2項だけということではなく、「濃度勾配」のような、より「現実に近い」曖昧さを表現することが可能になる、ということでもある(参考記事:「web」は「structure」を超えられるか・その2)。社会において、全ての事柄を「2項対立」で処理したり考えたりすることは、余りに難しすぎるからだ。「好き―嫌い」「はい―いいえ」のような組み合わせで、かなりの条件設定はできるかもしれないが、それだけでは答えが見つけられないことが多いと思う。なので、曖昧さを担わせる存在として、2項の中間に追加することは便利なのではないだろうか。仮想の役割を担える存在であることも、その便利さを増すだろう。


「ヘタレ中流インテリ」というのは、まさにそういう存在である。山形氏は『何となく、中ほどの位置にいるのでしょうね。そうすれば、「自分は上ではないから……」といって謙遜もできるし、他方で下のほうの人たちに対して優越感も持てる。いわば、いいとこ取りをしているような気もします。』という風に述べており、これって本当は「インテリ」のやや崩れた人々なのかもしれないし、「インテリ」になり切れなかった「大衆」でしかないのかもしれない。分類としては、どっちでもいい、とも言える。要は「定義の問題」ということに過ぎないのではないか。所得階層を「富裕層―貧困層」と2つに分けるのか、これに「中流層」を追加して3項にしているのか、ということの違いみたいなものだ(現実の社会構造を見れば、3項の方が説明しやすいことは確かだと思う)。



初めの「教養とは何か」論に戻るが、この対談の終わりまで読まなければどのような結論が出されてくるのか、私には全く判らない。そこで、自分の思っている「教養とは何か」ということを書いておこうと思う。



一言で言ってしまえば、「地図帳」のようなものなのではないか。人それぞれで違う、「自分だけの地図帳」だ。カーナビのようなものと思ってもいいかも。専門家になればなるほど、凄く細かく書いてあるのだ。でも、一般の人にはそんなの必要がないので、大雑把に書かれていればいいのだ。だって、そうでしょ?普通、カーナビに病院、ガソリンスタンド、郵便局、銀行、というようなことが判るようになっていればよく、必要以上に細かく書かれていたら「必要なもの」さえ探せなくなってしまうからだ。人ひとりしか歩けないような狭い道とか、下水道の走行、マンホールの位置、交通標識の位置、・・・情報を細かく載せようとすると無限に(本当は有限だけど)複雑になってしまうからね。そういうのは逆に「役に立たない」のだ(笑)。


なので、普通の人(大衆)には、ニーチェがどうだ、デカルトがどうだ、シュレ猫(笑)がどうの、なんてことは、あんまり必要とされないのです。そういうのが全く書かれていない「地図帳」しか持っていなくても、日常生活では困ることはないのです。大量に市販されるカーナビの「パッケージ・ソフト」みたいに、定型的なことが載っていれば、十分なのですね。


ところが、研究者とか、専門性の高い人とか、知識をたくさん身に付けたい人にとっては、スカスカした地図帳では物足りないし、もっと詳しく書き込みたいのですね。その為に、自分の足であちこち放浪したりして、山に登ったりなんかする訳です。優れた教育とか、書物の力を借りると、そういう地図の書き方のお手本とか、有力な山登りルートとか、必要な装備一式とか、そういうのが既に過去の研究者などによって書き込まれている地図を手に入れることができるのです。で、その力を借りたりなんかして、自分も登ってみるわけです。すると―今まで知らなかった景色や、隣の山の見え方や、平地の道路の具合なんかが、見えたりするようになれるんですよね。これは登った人じゃないと、判らないのです。


有力な地図帳を作ることに成功すれば、他の山を攻略する時にも役立つし、何かの問題を解釈したり解決策を考えたりする時なんかにも、攻略法・考える方法をいくつも知ってるので、知らない人よりも役立つかもしれません(必ずしも正しい答えが導き出せるとは限らないかもしれませんが)。一つしか方法を知らないよりも、いくつも知ってる方が有利なことが多いですよね、多分。


例えば、「マルクス山」という山(マルクス研究のことです)にチャレンジするとしましょうか(当たり前だが、『マークスの山』とは何の関係もない、笑)。この研究者は過去に星の数ほどいて、大体、登るルートも何人も歩いてきたので、おおよその「登山道」が出来ちゃってます。あちこちから登ってくる訳ですから、あんまり「道のついてない斜面」自体が少なくなっているでしょうね。一般人がこれに挑む時には、やっぱり登り易い大きな登山道を行った方が良かったりするし、何度も登頂に成功していて、もうちょっと高度なルートがお望みならば急斜面のザイルなしでは登れないようなルートを選んでもいいのですけれど、要するに頂上まで登り切れればいいのです。すると自分の地図にも、そのルートや、その他気が付いたことや、途中に見られた目印なんかが色々と書き込めるのです。頂上まで行けば、違った景色を体験でき、それは他の山を制覇しようとする時にも役立つことになるのです。


人々が目指す場所は色々あって、観光名所みたいなもので、「典型的な名所」というのは人気があるし、多くの人が訪れますね。マイナーな場所も当然あって、少ない人しか訪れない場所もたくさんあります。山ばかりじゃないし、川もあれば、大きな沼地もあれば、海もあるし、深海も勿論あるでしょう。どんな分野でもいいのですけど、とりあえず「制覇する」ことが重要だと思います。ゲームにも似てるかな?「ラスト」までクリアすることが必要なのです。ラストまで行った人だけにしか感じ取れない何かが、きっと待っているでしょう。


ですので、現実の世界では、「茶道」に打ち込んでもいいし、「建築」でも、「美術」でも、「懐石料理」でも、何だっていいのだろうと思います。そういうのにチャレンジして、一定の水準を「クリア」すると、他の山にチャレンジする時にも、似たような攻略法とか装備なんかが使えたりできるようになるからです。そうやって「自分の地図帳」に、あれこれと書き込んでいくのだろうと思います。本格的な知識人になれば、「登頂に成功した山」の数が他の人々よりもはるかに多いだろうし、「ああ、あの山はね・・・」と他の人に教えてあげたりできるし、持ってる「地図帳」もかなり細かく記入されているはずです。普通の人が「山小屋の場所」とかしか書いてないような山であっても、「一番高かった木の種類、樹齢、幹の直径」「向こう側のルートは行き止まり」とか(「行き止まり」は間違った解釈やアプローチ方法とかの場合かな・・・)が書かれてるのですね。こうやって、みんな自分それぞれの「地図帳」を作っていくのです。


「温泉巡り」みたいな面もあって、興味があるとか好奇心があるとか、そういう人は、自分で次の目的地を探して勝手に歩いて行くので、地図帳は記入が増えていくし、あまりやる気のないような人であれば、真っシロに近いあまり役立たない地図帳しか持つことができないのです。それから、あまりに専門性が高い人の場合に、自分の周りの凄く狭い範囲しか地図帳に書き込んでいない人もいたりして、「町内」には異常に詳しいが、他がダメという人も勿論いるのですね。「町内」の道路ばかりか、水道管、下水、犬を飼ってる家の場所、毎朝スズメがくる木、・・・そういう細かい地図帳もアリです。でも、あんまり特化した分野だけになってしまうと、自分の立ってる位置がふと判らなくなる、というようなこともあるので、注意が必要です。RPGのように、時には「全体を大きく俯瞰できる地図」もまた必要になることが多いのです。冒険できる世界を広げていくには、そういう「大雑把だけど全体的に見渡せる地図」みたいなものもあった方がいいのです。


もっと大事なことは、個人によって地図の書き込み方が全く異なる場合もある、ということですね。簡単な地図の場合には、大体他の人が見ても、学校は学校として書かれているのが判るのですが、特別な地図も勿論あるのです。それは専門性の違いによって起こってきます。たとえて言うなら、「海図」と普通の地図は違うし、「正距方位図法」で書かれた地図と「メルカトル図法」で書かれた地図は違うということです。解釈の違いとか、視点・見方の違いとか、そういったことで、地図帳に書かれていることが同じではなかったりするのです。社会学的に記述した場合、経済学的な場合、歴史学的な場合、・・・これも様々あるのですけど、できればなるべく多くの「地図の読み方」を心得ておく方が有利ですね。その方が読み取れる中身が増えますから。ただ、ある程度の基礎訓練を積んでいれば、他の地図の読み方しか知らない場合でも、多少応用がきくこともあるかもしれません。何の分野でもそうだと思いますが、一流になれば他の分野の「一流」に相通じる部分があるそうなので、非常に登頂困難な山を登りきった人は、それなりの「地図帳」を既に持っていることになり、そういう部分でも応用がきく、ということかと思います。


変な例だったと自分でも思いますが、「教養」というのは大体こういうような感じで、「古典」の部分というのは、「名所名跡」とか「名山」みたいなものですので、「一度は行ってみるといいよ」というような感じでしょうか。旅行のガイドブックもそうですけれど、「教養」としての基本的メニューみたいなものは、「一通り、観光地巡り」しておくといいのではないのかな、というような、ある種の「パッケージ」というか「ダイジェスト版」というか、そういうようなものでしょう(これは誰かがお手本として、書いてくれるとか教えてくれるという必要があったりますね。取捨選択は―ガイドブックを書くこと―は、普通の素人では難しいからです)。自分で全部を「回り切れない」と思えば、本当に有名どころだけを選んで歩いてもいいのだし、特別に「教会巡り」だけはしたい、とか、「美術館巡り」だけはしたい、とか(まあ実際には、「とりあえず経済学分野だけ」とか、「哲学分野だけ」とかのような感じでしょうか)、そういう風に選んだとしてもいいのではないのかな、と思いますね。


結局、自分の好きな「地図帳」を作ろうかな、と思えることが大事で、それにはホントの身近な「町内」から頑張ってみるのもいいし、「冒険用大地図」を大まかに書いてもいいし、誰かに付い行って「ワケも判らずとりあえず登ってみる」でもいいし、低い山にまず登って頂上に着いた後に考えたっていいのですよ、きっと。でも、頂上に立ってみた時の、自分の気持ち・考え・見える景色、そういうのは実際に登らないと予想もできないし、いくら自分の頭だけで考えていたとしても判らないのではないかと思います。そして、「オレには登れっこない」とか、「どうせ無駄さ、つまんないよ」とか、「所詮役に立たないんだから」とか、そういうことを思っている限り、「真っ白い地図帳」にはあまり書き込まれず、人生の途中であっても「何を記入したらいいのか判らない」という具合に、迷子になっちゃったりすることになるのかもしれません。こんなことを言いつつも、果たして私の地図帳には何が書きこまれてきたのかは、甚だ疑問なのですけれど(笑)。



9課の好きな車?

2006年08月05日 18時51分42秒 | 俺のそれ
そうですか。こういう試みは面白いと思いました。

Yahooニュース - フジサンケイ ビジネスアイ - 日産「攻殻機動隊」に納車? アニメとコラボモデル

「攻殻機動隊 SSS」に日産のコンセプトカーが登場


以前、妻と一緒に『イノセンス』を観に行った時の反応は、中々厳しいものであった訳ですが(笑、「なんじゃこりゃ?」というような感じでしょうか。それでも『マトリックス』シリーズよりはマシだと言っていたけど)、男性諸氏には好評なのではないでしょうか。海外で割りと人気がある日本のマンガの影響というのは、きっとあると思うし。『イニシャルD』なんかもそうかもね。

上の絵とか写真でチラッと見える感じでは、既に終わったトヨタの「WiLL」ブランドみたいな気がするね。ほら、異業種共通ブランドの「WiLL」シリーズですが、どの程度浸透したのかわからんけど。で、「WiLL VS」という車がトヨタから出てたと思いますが、そのサイドビュー、リアビューにちょっと似てるっぽいな、と。実際、車を見れば全然違うのかもしれないけど。


アニメだけに限らず、海外映画に日本車が登場して活躍する例は、結構ありますよね。

有名なのは、『TAXi 2』でしょうか。ランエボが悪者(勿論ジャパニーズ・ヤクザ)の車として登場してましたよね。あとは、「ライス・ロケット」の代表作、『ワイルド・スピード』シリーズでしょうか。当初、スープラ、GTR、S2000、RX-7などの、今思えばちょっと「懐かしい」スポーツカーが多数登場してましたが(S2000は今もあるか)、特筆すべきは日本国内ではほとんど人気のなかった「エクリプス」が採用されていたことでしょうかね。どうみても「エクリプス」なんかより、「ランエボ」とか「インプレッサ」の方が人気が高かったと思いますけど。別に、いいんですけどね。


<ちょっと寄り道:近年スポーツタイプの国内販売は不振で、セリカ、シルビア、MR-2などの一世を風靡した車種はみんな製造中止となりました。ごく一部にライトウェイトスポーツは残っていますが、僅かですね。強いて言えば、マツダが健闘してるかも。復活を遂げた「ロードスター」や、「サバンナ」の流れをくむ「RX-8」も残ってるし。昔の「レビン(トレノ)」「シビック」なんかも変わってしまったね。「シビック」は辛うじて名前が残ってるけれど。恐らく若者の持ってるお金が少なくなって、昔のようなスポーツタイプの車を買っていた層がいなくなり、買う人が凄く少なくなっちゃったからではないかと思っています。『私をスキーに連れてって』頃の「セリカGT-Four」は映画の中でも「どうだ!」って感じがあって、スポンサーも「これでもか!!」ってイヤラシイぐらいに、走りをアピールしてたような気がするね。今は、そういうのよりも、「軽自動車」「ミニバン」「ファミリーユース」という感じの車が多いかもしれない。あの頃はそういう時代だったんだなー、と思うし、若者のパワーがあった時代なのかな、とも思う。もう20年も前なんだね。>


このように、映画中で日本車登場ということで、それなりの「宣伝効果」というのが期待できるかもしれないです。なので、アニメ中に登場する実在の車というのがあっても、不思議じゃないですね。ゲーム中でもそうか。今後はそういう部分でも「稼げる」ようになると、いいかもしれないですね。生産者に直で「広告収入」が入ってくるようになるかもしれん、ということですね。


全く関係ないですが、SSSで思い出すのは、やっぱり「ブルーバード」でして(古!)、往年の名車ですよね(例えば、「ギャランGTO」なんてのもあったのですけど、マンガで「GTO」が出た時に「ああ、こういう世代なんだなー」って妙に納得できたし)。で、「ブルーバードSSS」と言えば、代表的ドライバーなのは勿論「アダルト・ウルフガイ」シリーズですかね(平井和正氏は今も何か書いてるのでしょうか?大作の「幻魔大戦」どうなったんだろね?その後、全く知らんね。アニメ化されたはずだが、見たことない。あの頃「ハルマゲドン」という言葉が流行したな。大友さんはこれで大きくなれたのかな)。

当時、「アダルト」という言葉自体が世の中にそれほど定着していなくて、当然「アダルト・ビデオ」とかいう言葉もなかった。でも、中身としては人狼もののSF小説だが、ちょっとエッチなシーンが描写されたりなんかして(ごく稀に少しエッチな挿絵もあったような気がするが、記憶が定かではない)、確かに「アダルト」な雰囲気(笑)を醸し出す小説だったかもしれないな。当時、「ヤング」のシリーズも含めて、公営の図書館で全巻借りていたが(さすがに買う気にはならなかったようだ)、窓口の「おねいさん」は普通に貸出作業をしていたぞ。今、本のシリーズに「アダルト・~」とか付いてたら、そういう系統のものかと勘違いされるかもしれない(笑)。


(昨日偶然「ウルフになりたい」とか書いたのですけど、人狼になりたい、とかのおバカな発想ではないですよ!全然そういうの関係なし。たまたまですから。本当に偶然です。参考まで)


ゼロ金利解除のマイナス影響

2006年08月04日 21時33分16秒 | 経済関連
やっぱり日銀よりも普通の人々の感覚の方が正しいんでないの?と思わずにはいられないです。


Yahooニュース - ロイター - ゼロ金利解除「マイナス影響」が64%、企業は設備投資減・円高を懸念=経済産業省


(記事より一部抜粋)

調査期間は7月18日─26日で、対象企業は製造業646社、非製造業558社、協同組合、商店街など58団体、地銀など73金融機関。

調査結果によると、地域経済への影響について「現在マイナス面の影響がある」が18%、「現在はないが、将来マイナス面の影響がある」が46%となり、先行きを含めて影響を懸念する声が64%に達した。その他は「現在プラス面の影響がある」2%、「将来プラス面の影響がある」4%、「将来も含めて影響はない」18%、「現時点ではよく分からない」12%だった。

現在または将来マイナスの影響があると回答した企業を規模別に見ると、大企業の58%に対し、中小企業は72%に達し「中小企業の方が、今回のゼロ金利解除による影響をより厳しく捉えている」(経産省)ことが明らかになった。

マイナスの影響があるとした理由については「銀行の貸出先の選別が厳しくなる」(千葉県の中小企業」、「今後、想定以上の金利上昇幅になる場合は、設備投資計画などを見直す必要がある」(山口県の大企業)、「海外での売り上げ比率が高いため、ゼロ金利解除の影響を受けて円高に振れた場合、円換算マイナスの影響を受ける」(福井県の中小企業)など借り入れコスト増による設備投資抑制や円高進行を懸念する声が聞かれた。




中小企業の方が圧倒的に多いということもあるけれど、大企業なんざ他の資金調達もしやすいが、中小企業は「借入」が主体だろうし、そういう人たちの感覚と、大企業や高給取り軍団の日銀なんかとは「感性」が違ってるのかもな、と思う。まあ、日銀としては「中小は逝ってよし」なんだろうけどな。天下る先でもないわけですし。


自分たちさえ安泰であれば、他の人々がどうなろうと知ったこっちゃない、総裁がスキャンダラスだろうが信用を失っていようが国民には関係ない、というような組織ですから、元から信頼なんかできんのですよ。ボクシングが日本の国辱だ、みたいな大袈裟な意見もあったりしたようですけど、真の恥晒しは日銀総裁の方だっての。

参考記事:ゼロ金利解除に関する見解をいくつか



ウルフになりたい

2006年08月04日 20時35分13秒 | 経済関連
羊のように群れて飼い馴らされるよりも、
いつも腹ペコでいいから
「オオカミ」さんのように生きたい。

羊を追い回すだけの、ちょっとの特権を持つ
「牧羊犬」のように生きるのではなく、
「オオカミ」さんのように気高く生きたい。


本当は「牧羊犬」も
飼い主に支配されているのだ。

羊の動きを支配している積もりが、
自ら気付かないだけで
本当は支配されているのだ。


勿論、羊たちは支配されている。
けれど、腹ペコなのは回避されるんだ。

腹ペコでもいいから、
オオカミのように強く生きたい。



「まず、経済学者を皆殺しに・・・・」

2006年08月03日 19時10分32秒 | 経済関連
非常に過激なタイトルですけれども、これは私が考えたワケではありませんよ(笑)。いかに経済学者の方々を「胡散くさい思想家の一種」というような誤った認識を抱いたとしても、ここまで危険な表現をすることはないでしょう。世の中は広い、ということでしょうか。上には上がいるものでございます。


まず、一部で注目を集める「トンデモ」風な記事があったのです。

スラッシュドット ジャパン 美しい親からは女の子が生まれる


ここで出てくるDr.Satoshi Kanazawa の書いた論文のタイトルが過激なんですよ(笑)。
問題の文献は次のようなものです。

‘First,Kill All the Economists....’:The insufficiency of Microeconomics and the Need for Evolutinary Psychology in the Study of Management



このタイトルにあるでしょ?
で、注釈にあるように、シェークスピアの『ヘンリー6世』のセリフをもじったものということです。

‘The first thing we do,let's kill all the lawyers’というのがそれ。

日本の訳語本ではどうなってるか知らないのですけど、恥を忍んで私の訳を書きますと、「まずやることねえ、、法律家ってヤツを皆殺しにしようぜ」というような感じでしょうか(元々の作品を読んだことがないので、どのような文脈かは不明です)。


法律家を皆殺しにする代わりに、今度は「エコノミストを皆殺しに」、というのが「ドクターかなざわ」の言い分らしいです(笑)。進化心理学がそんなに凄いんですかね。ビジネススクールでは、進化心理学者がエコノミストにとって代わればいいんですと。


<ちょっと寄り道:因みに、元々のセリフも結構凄いね。「kill all the lawyers」ですもんね。「法律家」はシェークスピアの時代に、既に「悪者」の仲間入りをしていたということですね(笑)。おおよそ当時の法律家の印象というのは、①すぐ理屈をこねくりまわす、②自分に有利なことばかり言う、③何でもこじつける、④高圧的で他人を見下した物言い、⑤威信を振りかざす、というような感じでしょうか。これは勝手な憶測なのですけど。でも相手がこのような人物である時に、自分に対抗手段を持たない場合には、「えーい、ウザイ、面倒くさい、いっそ殺っちまえー!」という風になってしまうのも、何となく判るような気がします(勿論、殺人は絶対にダメですよ)。だって、何一つ勝てないんですもんね。そうなると、わがままな幼児が、思い通りに行かなくなった時におもちゃを投げつけるのに似ていて、何かの暴力的行為をやってしまうような気持ちが判るな、と。>


論文の中身は全く読んでませんが、学者ならば本当に「エコノミストは死んでしまえ」ということが正当なのかが判るでしょう(笑)。

進化心理学ってのも、よく判らん分野ですよね・・・・実際、一生懸命研究している人たちもいるのでしょうから、批判するわけではないんですけれども。「かなざわ博士」の『進化の過程により美しい親がより多くの美しい女子を作り出した結果』(!)という説明を見れば、何と言うか、推して知るべし、でしょうけどね。



とあるブログの言葉

2006年08月03日 16時19分26秒 | 俺のそれ
恐らく男性だと思うが、彼は自身のブログについて、こう書いていた。
『このブログには常連さんなんていやしない。』

彼のブログの人気度とか、どの位のアクセスがあるのかとか、そういうのは判りませんが、私は読んでいますよ。コメントやTBが出来ないので(IDがないと受け付けられない)、向こうは気付かないと思いますが、一応書いておきます。
私が、「常連さん」です。(笑)


ブログを読む動機・・・・これは人それぞれではないかと思いますが、彼の言うように「管理人の魅力」というのはきっとあると思う。しかし、私が当該ブログを定期的に読んでいるのは、管理人さんへの興味とかそういうのでもない。実は書いてる人がどのような人なのか、殆ど知らないからだ。でも、内容に何となく「興味」があって、また「行ってみようかな」と思わせる記事なので、きっと読みに行くんだろうと思う。


私自身のブログでは、pvとかアクセス数は判るが、単なる数字だけだ。それ以外は全く不明なので、どこから来てるとか、検索で来てるとか、そういうのも判りません。それでも、読んで頂いている人々がおられるので、誠に有り難いことだと思います。


でも、本音を言うと、ちょっと寂しい。
それは、いつまでたっても人気の出ない、客のあまり来ない店みたいなものだからだ。多分、「魅力のなさ」はあると思うが、そもそも供給側の問題があって、「需要のないもの」だけを主に生み出しているんだろうな、と思う。読んでもつまらないし、ためにもならないし、得るものが少なすぎるからなんだろうな、と思う。なので、いつまで経っても需要が生じないのだ。

こういう時、自分がなぜ書くか、という理由がよく判らなくなる。まあ、単なる落書きだと思えば、それもまたよしではないかな、と。自分の為に書いてるようなものなのかもしれないな。自分の考えを並べなおして、メモするみたいなもの?



吉村昭氏の訃報

2006年08月01日 23時19分27秒 | 俺のそれ
とても残念です。

Yahooニュース - 毎日新聞 - <訃報>吉村昭さん79歳=作家 



非常に思い出深い作家の一人でした。


参考記事:
ミス事例のデータベース

戦艦と吉村明の本

いま気付きましたが、この記事で字が間違って(明→昭が正しい)いました。すみません。とりあえず、このままにしておきます。吉村昭氏に失礼なことをしてしまいました。


ご冥福をお祈りしたいと思います。
吉村氏のような作風の方が登場して頂けたらいいな、と思っていますが、それは難しいのかもしれません。



名人戦・・・次の一手は?ああ、詰みですか

2006年08月01日 16時40分00秒 | 社会全般
棋士総会で、毎日新聞案が否決されたそうです。これで朝日新聞への移管が決まったということのようです。今後は毎日新聞社側の対応がどうなるのか、ということになりますが、普通はメンツ丸潰れにされたので「今後将棋連盟には協力できかねる」ということになってしまうでしょうね。新たな大型棋戦を掲載するなんてことは有り得ないのでは、と思えます。


Yahooニュース - 毎日新聞 - <名人戦問題>毎日単独案を否決 将棋連盟棋士総会で 


将棋の棋士たちは、先読みにかけては得意なはずですから、色々なことを熟慮した上で決めてるはずでしょうけど。朝日新聞案がなぜそれほどの支持を得ていたのか、ちょっとよく判らないですね。

朝日に移管して5年後以降に大幅な収入減少が起こってきたら、どうするつもりなのでしょう?まあ、その時になって考えればよい、ということなのかもしれないですし。でも、どうかと思うけどね・・・・賛成できないです。


参考:

朝日と毎日の名人戦争奪戦