いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

赤木智弘は戦争に行けばよろしい

2007年09月19日 22時26分31秒 | 社会全般
もういい加減ウンザリというか、出尽くし感が漂うのだが、「そろそろ一言いっとくか」(笑、全て敬称略)。
例の論座に掲載された記事だが、当該号は我が家でも偶然購入していた。「ネットカフェ難民」が広くマスメディアに取り上げられる以前に、どこかのブログで貧困ビジネスについて読んだからだった。初めは立ち読みしたのだが(笑)、「読書空間」の佐藤俊樹、池内恵とか山形浩生が出ていて面白そうだったから購入した。妻や子どもも読んだのだが、赤木論文には一切共感などないとのことだった。置かれる立場とか環境などもあるだろうから、おんな子どもの意見がどうということでもないのではあるが、取り上げる価値などない、としか思えなかった。

ところがその後、意外にも多方面からの反論があったり、ネット上でもしつこく取り上げられているのを見るに、彼の戦略が効果的であったことを知った。喩えて言えば「北朝鮮戦略」とでも言おうか。「~をしてくれなければ、○○しちゃうよ」というような、ゴネ得っぽい感じがした。彼を救うことなど誰にもできないのに、彼の言説にお付き合いをしなければならないとすれば、これはもう徒労という他ない。「働いたら負け」というのと同じく、相手にすればするほど周囲が疲弊していくだけなので、赤木論文に言及するのはこれっきりにしようと思う。


これまで散々書いてきたので、一応記事を挙げておく。「イス取りゲーム」についても、何度も書いてしまったのだけれどね(笑)。

少子化と労働問題3

所得格差が子供を下層階級にするのか

続・所得格差が子供を下層階級にするのか

雇用、労働政策とか・・・

若年層の就業問題(追加しました)

続・幸せは何処にあるか


「憧れのハワイ航路」(笑)なんかの庶民の夢を手にできた、過去の人たちは良かった、けど、自分たちは違うんだ、と。だから?
赤木論文の核心というのは、オレが不幸ならお前らも不幸になれ、だ。ただの恨み節に過ぎない。結論をズバリ言おう。
「社会を変えたきゃ、自分が変われ」―by 少佐 だ。
赤木論文では、お前らは何もしてくれなかった、どうしてくれるんだ、オレ達が不幸ならば、「本気でやっちゃうよ?」という取引を強いているに過ぎない。これが北朝鮮っぽい感じを受けるのだ。金をくれなきゃミサイル撃っちゃうよ、援助してくれなきゃ核保有しちゃうよ、という恫喝と何ら違いがない。貧困が続けば犯罪に走ってやる、嫌なら金くれ、というのと同じこと。浮かび上がれなければ戦争に突っ走るよ、それでもいいのか?という取引を求めているということ。それが本意ではないにせよ、言ってはいけない部分に踏み込んでしまったであろう。

赤木の真意がわかるわけではないが、敢えて言えば「反戦平和」を金科玉条のように唱える市民グループとか左派勢力などの「持てる者たち」=既得権者たちへの、痛烈な批判ということなのだろうと思う。「丸山眞男」を持ち出してきたのは多分そういう意図ではないかと思った。そういう左派勢力が何をしてくれたかといえば、政治的には何ら成果をもたらすことがなかった、若年者たちをどん底に追い込む片棒を担いでいたに過ぎないではないか、という苛立ちのようなものがあるのだろうと思うのだ。それは気持ち的には判らないではない。しかし、自分が不幸だから皆も不幸になれ、という意思を表現することは、タブーを超えてしまっているのではないか。

ボートがあって、「持てる者」がボートに乗っているとする。持てない者たちは、ボートに乗りたいが乗れない時、どうせ助からないならオマエらのボートの底に穴を開けてやるぜ、それでもいいのか、と言っているのと同じようなものである。ボートに乗っている人たちは、乗っていない人たちを何とか助けようと努力することはあると思う。それは船底に穴を開けてやるぜ、という脅しとは無関係にあるべきものである。助けを請う側が、助けないなら穴を開けてやる、という恨みをぶつけることは禁忌だということ。ボートに乗っている人たちは乗れない人たちを目の当たりにするので、苦悩を強いられているのである。そこに向かって、助けろという取引を強要するのは本来的にオカシイのである。募金しないと暴れてやるぜ、嫌なら募金しろ、と言うことが良い方法であるとは思えないのである。募金を受ける側が、金をくれないのはおかしい、などと言うことも有り得ないのである。

自ら脱出の努力をする者以外には、支援は意味がないのである。努力するものが報われる、ということ以外には、出口を見出すことなどできないのである。そもそも五体満足で生きていることだけでも、有り難いと思うべきだろう。実際にどれ程の努力をしたというのか。努力している人たちはたくさんいるのである。これ以上できない、もう無理だ、という程頑張っている人たちだっているのである。それほどの努力というものを本当にやったのだろうか。やってないなら、まだ足りないといわれるのは甘受せねばならないのである。

かつての開拓民たちが希望がまるでなかったかどうかは判らないが、それでも何かを求めて外に向かって行った。ただ現状に愚痴をこぼし、誰かを恨み、持てる者たちを呪ってみたところで、自分の問題など何らも解決できないのである。希望の灯を心にともせるのは、自らの努力以外にはないと思う。自らの体を張り、努力を積み重ねた者たちこそが救済される権利を有するのであると思う。そういう人々には、助けろなどと要求されずとも手が差し延べられてしかるべき、ということであって、他人の親切を強要するというものではないのである。


赤木が真に戦争を望むなら、何処かの外人部隊にでも入るべきだろう。持てない者であっても、成功できる余地があるかもしれない。それをやって見せた時、赤木の意見を若干は認め、支援が不足していたと反省しよう。だが、取引に応じ気も、ブラフを信じる気も更々ない。誰でもいいので一緒に不幸になれ、と願うような人間の言うことなど、聞き入れたくはないということだ。



ドジな奴~テラワロス

2007年09月18日 22時50分27秒 | いいことないかな
特別な意味はありませんが、ふと気になったので。

ワロス(わろす) モニ太のデジタル辞典 コラム ネット&デジタル YOMIURI ONLINE(読売新聞)

時々見かける「ワロス」についてよく判りました。テラワロスが最強であるようなので、もっと可笑しい場合はスパコンではありませんが「ぺタワロス」とか、もっと大袈裟に「ヨタワロス」くらいまでいずれ行くことになるのでしょうか(笑)。ヨタは10の24乗ですけど、与太とは無関係です。与太は何が語源なのか知りませんが、落語の与太郎が出典なのでしょうかね。言葉というのは面白いものです。流行り始めというと、それ以前には無かった用法ですから、「与太?なんじゃそりゃ」とか古い人たちには言われてしまうかもしれませんが、長年使われていれば定着してしまうんですよね。

敵のアジトに潜入、とか用いるアジトですけれども、これも昔にはなかった言葉です。「アジる」なども用いられてきたでしょう。ご存知の通り、「agitate」から派生して短縮されたものと思います。アジトは「agitating point」のことですし。でも近頃は学生運動みたいなものとかストライキなんかもなくなったので、アジるなんて滅多に言わないかもしれませんね。

ネット界隈で見かける「dis(ディス)る」という言葉がありますが、これも「アジる」にちょっと近いかもしれません。辞書にも載ってますしね。
Yahoo辞書 - dis
黒人音楽界隈(ヒップホップとか?)で、「dis」という俗語が日本でも広く知られるようになり、ネット上でも用いられるようになったのではないかな、と想像しています。

「ドジ」とかもたまに用いたりしてしまいますが、みなさんはいかがでしょうか?「ドジる」もあるように思いますが、どうでしょう。地域差があるでしょうか?語源は全く判りません。「与太る」も似ているんですけれども、ヨタに語源はあってもドジにはない、みたいだと不公平な気もします(笑、関係ないか)。ドジの語源って何か判りませんが、一応、英語でも「dodgy」という単語があります。

Yahoo辞書 - dodgy

「ドジ」という用い方と大体合っているんですよね、これが。でも語源として対応しているのかというと、判らないんですよ。ドジの語源はdodgyだと面白いかもね、とは思うけど、英単語が初出がいつなのか判らないとね。日本語の「どぢ」は割りと古そうだけど、いつからあったのか判らないですし初出も不明。何か情報がございましたら、是非ご教示下さい。


それと、台湾での表記ではブログは「部落格」らしい、ということで、中国語は判らないけど中国語サイトなんかを見たら、何となく判るような気がしましたよ。漢字って、凄い(笑)。

日本で言うところのネット世界ですけれども、「網路」ではないだろうか。インターネットに当てたものかもしれないけど(電網というのは無いのかな…?)。
「ガンダム」は「鋼彈」ですと。恐らく「鋼彈系列」はガンダムシリーズのようだ。
「乙」ってのも、一応知っている人は知っているらしい。台湾では「辛苦了」というようなことらしい。感じが出てるー!

ネットの「掲示板」というのは?―→「網絡論壇」ですと。スゲー、論壇だよ、論壇。

では、台湾で「潜水員」と表記されているのは、日本では何と言うか?

これは掲示板などのサイレントな観客みたいなことで、所謂「ROM」専門の人ということではなかろうか。

中国語とか台湾語みたいなものはわからないので、間違っているかもしれません。
もし面白い用語があれば、誰か紹介してくれるといいな。




慶應大学の経済学者

2007年09月17日 18時16分53秒 | 教育問題
ボツネタさん経由。

Bibliographical Database of Keio Economists - 年表検索


すごーい。楽しいよ、これ。
慶應大学の歴史とか知らないし興味もなかったけれど、先日書いた河上肇関連の記事で小泉信三が登場したこともあって、読んでみた。


生きている人たちは流石に出てなかったけれど(笑)、昔の先人たちは偉かったな、と思ったよ。よく鉛筆もノートも無いような世界で、本だってそれほど多かったわけでもないのに、明治人は勉強していたんだよね。海外の書物を読み、外国人に教わり、留学し、ちょんまげと刀からおさらばしていったんだよね。そう考えると、日本人ってのは本当に凄いなと思う。




格の違いってやつですか

2007年09月17日 17時59分31秒 | 俺のそれ
初めて知った、中国語。
これ>H-Yamaguchinet 「趨勢評論家」になった話

ブログって、「部落格」って表記になるんですね。
イメージ的にも村とかというのは、判りやすいです。よく喩えでも用いられていますしね。
の格ですか、みたいに見えてしまうのもまたよしですね。

格というのは、「格式」、「家格」といった身分階級のようなものを感じさせるので、「ブログごとの格」(アルファな~とか)みたいな感じが出ていていいかも。「級」というのもイメージは近いけど、格とは何かが違うんだよね。「局長級」とか「審議官級」とか言うけれど、「局長格」とか「審議官格」とは言わないな。「副将格」とかは使う。「~と同格」というような意味合いだろうと思うのだけれど、格の違いはあっても「級の違い」とは言わないんだよね。どうしてなのか判らないんだけど。まあいいや。


「アルファブログ」ってどうなるか勝手に考えてみました。

・アルファブログ=亞流布亞部落格

とか。ダメ?全然ダメ?・・・それとも、「大先頭部落格」とか?いや、これは、影響力が大きなメジャーなブログということで、メジャーに「大」を当て、「先頭」というのは「一番」とか「始め」とかの意図と、他の人々の先を行き意見を引っ張って行っているからというような意図を込めてそうしたんですが、センス悪いのでどの道ダメだな。

・モヒカン族=似非部落格狩人集団or電網規則伝道師集団 

全くの見当ハズレ?(笑)


誰か良い例を考えてみて欲しいな。




『狼と香辛料』と家族の風景

2007年09月16日 14時51分14秒 | 俺のそれ
ウチの子が『乃木坂春香の秘密』を何度も繰り返し読んでいるので、前にちょっと訊いてみた。

父:「それって、何が面白いの?」
子:「うーん、別に…」
父:「どんな話なの?」
子:「なんて言うか…読んでみれば?」
父:「……」

更に別な時に、同じ作品を何度も読むのは、ひょっとして暗記しようと思ってるの?とか茶化したら、違うよ、別にいいじゃん、何回読んだって、と軽くあしらわれてしまったので、父としては余計なことを言うんじゃなかったな、と思った。でも一応受験生なんだから、乃木坂マニア(笑)になんぞなる前に、教科書嫁と思わないでもない。繰り返し読むと効果はあると思うけど。でも、ウチの子は暇さえあれば本ばかり読んでいる。読まないよりもいいと思っているから、あまり勉強しろとかは言わないけど。


ところで、子どもから聞いた話では、「乃木坂~」の作者は司法試験の勉強をしながら書いているらしい。「ええっ??そうなの」とか言ったら、作者紹介のところに書いてあった、とか言っていた。
先日司法試験の結果が出てたが、どうだったんだろうね。他人事ながら、ちょっと心配。
ウチの子曰く、「著者さんは司法試験に受かった、って話は聞かない」。
アラ、そうなんだ。でも、書いて生きていけるなら、法曹にならなくても大丈夫じゃないかな、などと思ったりする。

我が子の用いている「著者さん」ってのも何だかな、とは思う。それに、あなたは著者と知り合いでもあるまいに…。司法試験に受かったからと言って、あなたに報告とか合格の噂話は来ないだろうよ…。

それと、「乃木坂」本にはちょっとした恨みがあって(冗談)、夏休みに「パプリカ」借りてきたから一緒に観よう、って言ったんですよ。すると、観始めて暫くすると、妻が「何だか気持ち悪いわね」とか言い出して、子どもも「つまんないね、人形が怖くて気持ち悪いし」とか言うので、私が「いや、これから面白くなってくるんだって」とか説得しても、順次席を離れていった。しまいには、ちゃんと観てよと私がしつこく言うので、子どもは観てるふりをしながら、例の「乃木坂」本を読んでいるんですよ。
こいつ~~レンタル代金がもったいないじゃないか、折角だから観ておけよ、と思いつつも、「乃木坂」本を手に持ったままの我が子をどうすることもできないんですよ(笑)。「乃木坂」本はこれまでも百万遍読んでるんだし、持っているものなんだからいつでも読めるし、本なんて読まずに映像に集中せよ、とか思うのは私だけ…。

参考までに書いておくと、「パプリカ」は刑事さんの声が「バトウ」の声の人と同じなんで、映像と声のギャップが気になって仕方がなかった。ついついバトウが重なってしまう。それ以外では、パレードシーンのイメージが「イノセンス」のお祭りシーンの感じに近くて、やや残念、みたいな気がした。全体的には、まあまあ楽しめました(→私だけ、他数名脱落)。


このような失敗談を踏まえつつ、この前の夕食の時に「ライトノベルに『狼と香辛料』っていうのがあって、人気があるらしいよ」とか言ったら、妻が「ふーん」と気のない返事をし、子どもも無言で聞いていたのだった。ネットで流行ってるって見かけたんだよ、などと説明を追加するも、あまり関心はなさそうであった。けれど、その数日後、帰宅すると、『狼と香辛料』買ってきたんだよ、と言って妻が見せてくれた。あら、買ったんだ、とオモタ。

妻の話によると、次のような苦労話があったそうだ。

本屋に行き、店員さんに「えーと、『狼と感染症』ってありますか?」と尋ねたんだって。
すると、店員さんはパソコンで調べてくれたらしいが、「そういう本は置いていません」と答えた。
で、妻は「じゃあ、タイトルが違ったかも。『狼と細菌』だったかな?」とか言って、また店員さんが調べたんだそうだ。
すると、やはり「そういう本は置いていません」と店員が答えた。
それから、妻と店員さんとの『狼と?』探しが始まったんだそうだ。
店員さんも「ペットの本か何かですか?」とか見当違いの方向に行ったりして、いや、でも、狼は入ってた、とか、赤ずきんですか?とか、双方色々と無駄に進んだりしたんだそうだ。
で、結局『狼と香辛料』というタイトルだということが判明し、1、2巻を買ってきたんだって。

…店員さん可哀想、と思った。
どうして「感染症」なんだよ。感染症でなかったら「細菌」って、どっからそんな候補が出てくるんだ?(笑)主婦の記憶力とか連想には驚きましたよ。「香辛料」と全然違うでしょ。関連も何もないでしょ。
どこのどなたか判りませんが、探し当てて下さった店員さん有難うございます。

で、ウチの子は直ぐに読み終えてしまったらしく、翌日には、それなりに面白いよ、とか言っていた。
一応、親の立場上、勉強してから読めよ、などと内心思いながらも、大人のオタクが読むくらいなんだから仕方ないか、などと思ったりした。私はまだ読んでないけど。ウチの子はゲームはやらないので、それ系の本格派になったりはしないと思うけど、ちょっと方向性が心配(笑)。


そういえばここ最近、何故か「狼」関係の記述が頻発しているけど、これは特に意味はありません。ロボを崇拝しているわけでも、本当に狼男になりたいわけでもないです。ただの偶然です(笑)。



アンデッド対策の補足

2007年09月15日 18時33分35秒 | 俺のそれ
みかえる冗談シリーズ(もろにオヤジだ…失礼)。
前の続きなので、軽く流して下さいね(笑)。

アンデッド対策について若干補足をしておきたい。
どうやら、さすらい風の人(→オレ)以外が用いたりしているバリア型の対策というのが発見されていたらしい。

○対策6:ATフィールド

「聖なる教会」カードとは異なった、バリア型の防御方法。「聖なる教会」という場の力を借りるのではなく、場所の属性に関係なくバリアを用意することができるらしい。
「ATフィールド」とは、本来これだそうな>ATフィールド - 新世紀エヴァンゲリオン百科事典『EvaWiki』

アンデッド対策としてこの「ATフィールド」を用いる場合には、外部からの侵入経路を遮断しておくことになるらしい。個人にとっての「絶対場」を作り出すということだ。具体的には、コメント欄、TB、アンテナやリンクなどの機能を一切付けない、というようなことらしい。こういうブログにアンデッドが遭遇した時には、「ああ、ここはATフィールドだな」という独り言を漏らしてしまうらしい(笑)。未確認情報ながら、邪悪なアンデッドたちからの襲撃を避ける効果は相当高い、という評価が定説のようである。しかし完全なバリアは存在しないということから、ロンギヌスの槍を装備した上級モンスターからの攻撃を受けたりすれば、やはりATフィールドといえども突破されてしまうことがあるようである。自分の知らないどこか遠くの場で、個人ブロガーを葬り去る為の儀式が行われるらしく、それを自ら目にした者はATフィールドで守られたまま蒸散させられることがあるという。完全消滅前に誰かが魚拓を残していることもあるが、多くは痕跡も残さずにひっそりと消えているという。


○対策7:結界

これと似ているのが、「結界」らしい。結界を展開するには、自分以外にも各方位を守る他のブロガーが必要になるらしい。それぞれが各方位を鎮守することにより、アンデッドたちの侵入をかなり防御できる。しかし、結界を司る個人ブロガーが弱体化していると結界の一部が破綻し、コミュニティ内にアンデッドたちが侵入してくることになる。狡猾なアンデッドになると、最も弱い部分を探し当てることができるので、結界のうち一番弱い特定ブロガーを繰り返し攻撃することで結界を壊すことがある。それでも、先の「ATフィールド」だと個人(自分)しか防御できないが、「結界」の場合であればもっと多数のブロガーを守ることができる。結界内部に無防備な子羊たちが多数いたりすると、結界が破られればアンデッドたちの狩場となってしまう危険性もあるので、結界を司るものたちの役割は大きいであろう。

結界を形成するには、自分を含めて東西南北を守れるものとのネットワークが必要になるであろう。もう少し少人数でも結界形成は不可能ではないが、構造欠陥がある為に防御力は低下し、アンデッドに突破されやすくなる。また、結界を司るものたちの間でイザコザが発生したりして、結界内部での混乱を生じることもあるようである。例えば「麒麟と玄武が喧嘩してしまったらしい」とか(笑)。すると、そのような混乱に乗じて結界内部にアンデッドが侵入し、喰われてしまう人がいたりする。

結界の危険なところは、結界がまるごとダークサイドである場合が有り得ることだ。リッチブロガーの支配領域と似たようなものとなっていることがあるのだ。でも、外見上は比較的安全な結界ディフェンスにしか見えない。用心の足りない初級者などがうっかり内部に足を踏み入れると、知らず知らずのうちにアンデッドの下僕にされてしまっていることがある。


○バリアの使い方

初級者は攻撃側に回るのは難しいことが多いので、主に防御に徹するのがよいでしょう。攻城側よりも、城に籠城している防衛側の方が戦いやすいのと似ています。防衛に不安のある人は、迷わずATフィールドを用いましょう。ネット世界には「アンデッドに噛み付くかれたくない人は、初めからATフィールドを装備しておけばいいだけ」という主張は見られます。

結界内部にいることが可能なら、できるだけ結界内で過しましょう。有力な結界ならば、アンデッドたちからの攻撃をきっと防いでくれるでしょう。しかし結界の見極めが肝心なので、アンデッドの領域になっていないかどうか、時々確かめましょう。いつの間にか自分がリッチやヴァンパイアの下僕となっていることがあります。たまには教会に出かけて行くとよいかもしれません。懺悔や祈りなどが有効に働くと、本当はアンデッドの巣窟だった結界もどきから救出されることがあります。



君は生き延びることができるか?~アンデッド対策

2007年09月14日 23時41分41秒 | 俺のそれ
怪奇?都市伝説?
アンデッドモンスターに喰らわれるブロガー

夕刊紙の見出し風で言うとこんな感じ(笑)。

シロクマの屑籠汎適所属 - 倉庫の中からこんばんは

ハンターならば対抗できるかもしれない。
ヲイ、ヲイ、ブレイドか!
違うか。
ならば、ダンテか!(かなりマイナー?)


前にヴァンパイアと戦う『地球最後の男』の話を書いたが、これみたいなもの?

モンスターへの対抗策として、「エボニー&アイボリー」でも持っていれば別だが(笑)、中々難しい。ゾンビやグールの単発出現程度ならば、一般人でもどうにか対処できるかもしれないが、大量に襲ってきて「バイオハザード状態」になれば、これまた大変だ。

因みに、「孤高のスナイパー」的対処方法はいくつかあるが、突撃銃で撃破できる場合にはそうしてきた。頭を吹っ飛ばすと、大方のアンデッドは撃退できる。但し、これは少数の下級モンスターの場合だからであって、上級(レイス、ヴァンパイア以上)になってくると中々難しくなる。
それでも、大規模掃討作戦などには決して参加せず、みんなの見えない教会の塔に立て籠もって狙撃を試みることにしておけば、教会が苦手なアンデッドたちからはある程度逃れられるかもしれない(笑)。


シロクマ氏の対策などを参考にしつつ、オメガ級スナイパー的対処法を考えてみたい。

参考記事:戦陣訓を学ぶ


○対策1:聖なる力

上記戦陣訓にも書いてある通り、『最強の戦術は礼節、最強の武器は敬語』ということを銘記するべきでありましょう。これはシロクマ氏の指摘にもある邪に染まらぬようにすることとも似ています。

時に、「正義のハンター」たろうとするあまり、自ら「闇を狩る者」となっていくと、シロクマ氏ご指摘のような闇に汚されていくということになってしまうかもしれません。これは某有名○弁護士などに見られる現象かもしれません。いつの間にか、自分が闇の手に落ちてしまっている、という恐ろしいことになるのですね。聖なる力を用いようとする時には、こうしたダークサイドの罠に陥らないように注意が必要なのです(笑)。


○対策2:浄玻璃の鏡

これも聖なる力の範疇かもしれませんが、古より伝わりし鏡のパワーを用いるものです(爆)。アンデッドには、まばゆいばかりの鏡の光は効果があることがあります。特に、「浄玻璃の鏡」は自らの悪行を映し出す為に、悪辣なアンデッドほど有効となります。ただ、あまりに脳みそ残量の少ない下級アンデッドの場合であると、映し出された像が何なのかさえ当人が理解できない場合があり、折角の「浄玻璃の鏡」といえど、大した効果が得られない可能性があります。
物語で伏線があるのに、謎解きを聞かされた後にでさえそれが伏線であったことが判らないという、知性の低いモンスターも存在しうる、というようなことです。そういう低級モンスターには伏線を仕込んでおいても、なんのことやら判らないで終わってしまう為、効果がなくなってしまうのです。「ヒントにならないヒント」みたいなもんです。ある程度理解レベルに達しているモンスターにのみ有効、ということには注意が必要です。雑魚アンデッドには通常の「礼節&敬語」コンボで臨む方が無難でしょう。


○対策3:ドブネズミと見なして善行を施せ

これは言ってみれば、恥を知らぬ輩には「スルー力」を発動するしかなく、そういうアンデッドを相手にすると自らダークサイドの罠に陥る危険性が高くなる、ということであろう。念のため、戦陣訓の記述を再掲しておこう。
『敵には恥をかかせてやらねばならない。それゆゑ、恥を知らぬ輩を敵にしてはならない。さういふ連中は、いかに不快でも無視する他はない。「ドブネズミと見なして、彼らに善行を施せ。」』


○対策4:獣人化

極めて危険性の高い戦術選択である。自らが防御の為とはいえ、一時的にでも獣人化せねばならないのである。この効果により戦闘力はアップするが、「怒り」パラメータの充填率が満タン近くになっていないと発動できない。更に、獣人化すると、猛烈に各種パラメータは低下し大幅に消耗することになる。極めて短時間の場合であると専守防衛の為という理解が得られる場合はあるが、多くの場合には戦闘終了後に「reputation」パラメータが回復不可能なくらいに低下する(これは戦闘の勝敗には無関係である)。故に、そう簡単には発動できない。
自分の過去を振り返ると、幾分ウルフ化してしまい、危うく完全獣人化に至ってしまうところであった(笑)。ウルフ化している時に「銀の弾丸」の直撃を受けてしまっていたら、私は今こうして存在してはいなかったろう(笑)。危なかった…。いかに何らかの目的があろうとも、獣人化するのはあまりにリスクが大きいのである。しかも獣化が恒常的となってしまい、通常ブロガーには二度と戻れなくなってしまうこともある。

しかし、アンデッドの上級モンスターになると常時ヴァンパイアとかリッチとなっていることができるため、アンデッドブロガー固有のブランド価値を有しており、支配している下級モンスターが多ければ多いほどその上級アンデッドの個体価値は高い。所謂「太鼓部隊」「太鼓の達人」などを有している上級モンスターが存在している、ということに他ならない。つまるところ、「blogger contribution」パラメータの高い上級アンデッドは、かなり強力なのであり、直接相手にする場合には手強い。万が一戦わねばならない局面があるならば、雑魚の支配下アンデッドは相手にせず、上級モンスターの頭を潰すことだけに集中した方がよい。蛇を倒すのに、頭を狙うのと同じ意味合いである(ホントかよ?笑)。


○対策5:各個撃破

乱れ撃ちとかができるとか、強力な機関銃を装備している、などの場合だと、かなり広範囲にわたる掃射によってアンデッドを倒せることも多いかもしれません。しかし、私の場合には主に狙撃銃を用いることから、高速連射とか掃射はできません。よって、予備の突撃銃とか自動拳銃を使用し、教会内に侵入してきたアンデッドを個々に撃つくらいしかできませんでした。アンデッドの攻撃に耐えていると、運が良ければ偶然礼拝に訪れた特殊部隊の隊員経験を有する人などが援護射撃をしてくれたりすることがあるかもしれません。逆に運が悪ければ、更に援軍を率いたアンデッド軍団がやってきたり、上級アンデッドがやってきたりすることを目撃するかもしれません。でも冷静さを保ちつつ的確に撃ち続けることができれば、場には「聖なる教会」のカード(笑、遊戯王か?!)があるので、アンデッドたちは時間が経てば消え去ります。邪悪な者たちは、教会では長期間活動はできないのです。アンデッドの侵入を許した場合、どんなに怖くても、神に祈るか、目をしっかり開けて戦うかを選択しましょう。

しかし、行き過ぎた聖地思想?みたいなものに囚われると、「カテドラルを守ることが絶対正義だ!」みたいになってしまって、ダークサイドの罠に落ちていくので要注意。カテドラルは選民思想とか優生思想の本拠地と化してしまい、モンスター狩りの大規模掃討作戦を誘発してしまうかもしれない。ハンターたちが大量に放たれることになるかも。必ずしもアンデッドが対象とは限らないかもしれない。こわいよ~


○最後に

アンデッドに喰われないようにするには、そうした邪心の集う地帯には決して足を踏み入れないことに限るでしょう。これは、シロクマ氏のアドバイス通りと思います。危険地帯に踏み込むと、知らぬうちに自分の背中に喰いついたグールの頭なんかを持ち帰ってしまい、仲間を呼ばれてしまうかもしれません。斥候アンデッドに後を付けられてしまい、後から上級アンデッドが現れるかもしれません。
なので、自ら危険地帯にノコノコと出かけていくことは避けましょう。できれば、遠くから望遠鏡で覗いて我慢するか、長射程の狙撃を心掛けると吉でしょう(笑)。


ネット世界は危険に満ちた空間なのですね。




一夜城

2007年09月14日 11時26分05秒 | 政治って?
麻生親分本命かと思いきや、たった一夜で状況は一変しておりましたぞ。麻生親分が有力ではないかと思っていた矢先、目の前に強力な「福田城」が一晩で作られていた、というところかな。


それにしても、ここに来て福田さんという骨董品が持ち出されるとは…。
前の総裁選では「やる気ない」ようなふにゃふにゃした感じだったのに、一体誰が担ぎ出したんでしょうか?ここで福田さんの外馬に乗っている人たちは、もうダメだな。政治的には、「プレ小泉」(笑)路線に逆戻りになるだろう。「昔の自民党」的政治の復活宣言ということ。本気で福田さんを立てて選挙に臨めると思っているのだろうか?大衆支持はまず得られないであろう。あくまで組織戦で挑む、ってことを目指すのであれば、それでもいいだろう。それで勝てる目算が立っているなら、大衆支持は関係ないからね。特に、組織戦では邪魔なだけの無党派層については。

だが、大衆支持もそこそこ固めて民主党に勝たねばならないと考えているならば、福田さんの選択肢は有り得ないだろう。にもかかわらず、福田支持に大きく傾いていく自民党内というのは、一体全体どうなっているのか判らない。ま、それでやれるならやったらいいと思うよ。


さようなら。



みんな、山根君を笑わないでよね

2007年09月13日 16時31分22秒 | 社会全般
そんなにいけないことなの?

山根君はいつも緊張したりプレッシャーのかかる場面では、オナカが痛くなったりするけど、悪いヤツじゃないんだ。いい人なんだよ。

確かにキャラ的には、花輪くんとか、丸尾くんとかには遠く及ばない。
あの「はまじ」や、卑怯者藤木くん以下の扱いかもしれない。永沢くんみたいに、単行本のメインにもなっていない。

けど、けど、山根くんだって、それなりに登場しているんだよ。
オナカは痛くなるけど、精一杯やったんだよ。体育ができなくても、頑張ったんだよ。

みんな、山根君をバカにしたり、笑ったりしてはいけません。
山根君の良さを判ってあげようよ。




みたいなことを、ふと思った。
体のことを責めてはいけませんよ。
「涙目」とか、ネットの掲示板と同じような表現を面白半分に用いてもいけませんよ。


そんなことを思った(笑)。



遂に降板ですか…安倍総理(追記あり)

2007年09月12日 13時31分51秒 | 政治って?
驚きました。

先ほど速報を見たのですが、政治的混迷が起こることになるかもしれません。
今になって突然の退陣とは、一体どうしたのでしょうね。もう嫌気がさした、ということでしょうか。連日つまらん批判に晒されるというのが辛くて仕方ない、ということなのでしょうか。

前から言ってた通りになってしまいましたね。早期退陣の可能性がある、ということは。

05年9月>「ポスト小泉」を睨んだ組閣はどうなるかな?

06年7月>やっぱり書くか・・・総裁選

こうなっては、麻生親分くらいしか緊急登板はできないだろう。
組閣を行ったばかりなのに、別な内閣を作らねばならないのかな?
まあそういうことなんだろうね。
天皇陛下は何度も認証式をおやりにならねばならず、忍びないですね。「アラ、また?」みたいに思われても不思議ではないです。



ところで、私が勝手に命名した「麻生親分」の由来となったのは、この記事の時からだ。

遂にキャップ・・・と勝手に「クール・ビズ」ベスト選出

2年余りの間に、こんなに動くものなんですね、政治って。
当時は麻生親分には総裁の芽はあまりなくて、殆ど期待されていなかったもんね。それが今では、一番手に最も近いであろう。私もブログを書き始めるまでは、全然知らなかったし。

それにしても、政治の世界というのは、何が起こるのか判りませんね。


ちょっと追加。

今回の辞意表明によって、安倍ちゃんは大きな傷が付くこととなったであろう。
参院選の直後に辞めていれば、捲土重来の可能性は残されたであろう。5年か10年後か判らないけれども、再び登板するチャンスがあったかもしれない。けれども、今回のような辞め方をしてしまうと、「もうイヤになったので辞めました。自分はやりたくありません」ということだけになってしまい、無責任さだけが強く残るであろう。駄々っ子の如く、放り出したかのようになってしまう。

このような事態を招いたのは、自民党全体の迷いがあった為であろう。傷を深くする前に何とかするべきであった。
安倍総理は決意を表明したのに、テロ特措法の問題に挑まずに戦わずして自ら敗北宣言というのは、「美しくない」。バッサリ切られてしまい、身を引くというのならまだ判る。けれども、「このままじゃ切られてしまうから辞めます」ということなのだから。

安倍総理の問題だったことは、周囲から言われることに反応することが間違っていたことだろうと思う。
強気である部分とか、人の話を聞かねばならない部分とか、これがまちまちというかズレていたのだろう。「自分を信じて思いっきりやってみろ」というのは、支持率や細かい批判などは気にしても仕方がないのだから、迷いを振り切りブレずにやっていくということだと思う。政治的信念は持ち続けていけ、ということなのだと思う。だが、それを若干取り違えて「強行採決」とか、「根回しせず独断専行」とか、間違えた形で現れてしまった。
逆に、ちょっとへこむと「人の話を聞いて進めた方がよい」とか言われていることに靡いてしまい、大衆の目から見ると「単なる弱気」とか、誰かにおんぶにだっこになっているかのように映ってしまい、未熟さや若さみたいなものと捉えられてしまったかのようである。


色んな見方もあるだろうが、結局のところ、人を使うことの難しさというものを感じた。政治家ばかりではなく、官僚も含めて、多くの人間を動かしていかねばならないのだが、ここで失敗を招いたのではないかと思う。それは偏に「側近力の弱さ」にあったであろう。それは人材という面と、本人自身の甘さというか人のよさ(お人よし?)ということなのかもしれない。恐らく個人的にはいい人なのであろうと思う。だが、一国の宰相としては、優しさが多すぎであったのかもしれない。小泉さんの言っていたように、「政治とは非情なものだ」ということなのだ。厳しさ、非情さ、といったものが、足りなかったのかもしれない。


会見では「テロとの戦い」ということを強調していたが、テロとの戦いに挑む前に、残念ながら「自分との戦い」に敗れ去ってしまった、ということなのであろう。倒閣運動で追い込まれたわけでもなく、大規模決戦を挑んで敗れたわけでもないのに、消えていったのである。



続・教育の牢獄

2007年09月12日 09時27分23秒 | 教育問題
フランス人にとって何故国防が権利なのか、という問いに対する良さそうな答えというものが思い浮かばなかったのだが、前の記事を書いていて、おぼろげながら感じるところがあったので、それについて書いておきたい。

いつもの如くかなり変な喩えであるが、具体的に考えてみた。

ある寮があるとする。周辺には似たような寮がたくさんあって、A寮、B寮、C寮…とあるとする。
君主制の国の場合にはどうなっていたかというと、国王が支配者兼所有者みたいなものなので、国王=「寮長」とすると、寮の支配者として君臨するのが寮長(国王)で、寮のメンバー(市民)は寮にいるけれど、特にこれといった権限は持っていない。こういう場合だと、寮長が独裁的な支配を可能にするし、寮長が掃除当番や食事当番を勝手に決定して、寮のメンバーにやらせることができる。寮長が立派な人物で賢明である場合には、他のメンバーがどんなに使えない人たちばかりであろうとも、寮の運営は大体上手くいく。悪い寮長だと、メンバーのバイト代の1割を上納せよ、とか酷い命令を出したりするかもしれない。嫌なら出て行けとか、逆らえば寮から追い出されるとか、そうしたことも可能になってしまう。

今、A寮で君臨していた寮長の横暴があまりにも酷い、ということで、メンバーたちは反乱を起しました。メンバーは寮長をボコボコにして寮外に追放することに成功したとしましょう。まさに市民革命みたいなものですね。追放だけでは飽き足らず、「寮長を処刑せよ!」というのがフランス革命的ですかね(コワイ)。こうなると、A寮ではこれまでの寮長に代わって別な運営方針を作らねばならない。寮長時代には、トイレ掃除は寮長の気に入らない人だけにやらせて、媚びへつらうとかご機嫌とりのウマイ人は逃れていた、という状態だったとしても、今度はそういう差別はできなくなり、「みんな平等にやるんだよ」ということになって、均等な当番表が作られるということになるであろう。平等の原理はこうして現れてくるのかもしれない。A寮は独裁(君主)制から共和制へと変わった、と。

隣のB寮の寮長はA寮の寮長が粛清されたことを知って、もの凄く焦ったことだろう。自分の支配しているB寮のメンバーがA寮の異変に気付いて、自分たちも「寮長の不当支配から解放されよう!」みたいなことを企む危険性があるからだ。B寮の寮長は手っ取り早くA寮を乗っ取るとか破壊してしまうとかをやって、これまでの「寮長」支配体制を維持しようとするわけだ。そこで、B寮の寮長はどこかの不良グループを連れてきて、「A寮をぶっ壊すとか、財宝分捕りなんかをやっちゃってくれ」と依頼する、と。

さて、A寮はこの暴れ者たちに襲撃されるわけだ。果たしてどうなってしまうであろうか?
寮の部屋に敵軍(B寮に雇われた悪者たち)が侵入してくる。で、部屋にあったパソコンとかデジカメとか、「オラオラ」とか力ずくで持っていかれる。部屋のドアも蹴破られて、滅茶苦茶に荒らされる。A寮のメンバーはみんな弱いので敵軍を怖がってばかりいて、各自の部屋に閉じこもって震えているわけだ。そうしていると、次々に部屋が襲われていく。自分のところには来ないでくれ、などと祈りながら布団をかぶっているだけなのだ……でも、ここで勇気あるものが現れるのである。
「みんなで戦えばいいんだ!戦おう!寮を守るんだ!
さあ、友よ、立ち上がろう!僕らの寮は僕らで守るんだ!!」

この呼びかけに応じるA寮のメンバーたちが集まってきた。
レアなフィギュアを持っていかれたり、大好きなゲームを奪われたり、お気に入りだった写真を破り捨てられたり、そういう恨みもあって(笑)、不良グループは怖かったけど、これ以上好き放題やらせる訳にはいかないと考えるメンバーが続々と戦闘に参加した。
「オレも戦うぜ!」
「オレはこの入り口を死守するぜ!」
こうして、A寮のメンバーたちは自発的に戦いを選択した。

ハッ、これこそが、この選択こそが、寮長から強制されたわけでもなく当番表でもなく、「戦う」ことを「自ら選ぶ」ということなのだ。「オレも戦うぜ」というのが、「国防の権利」ということなのだろうか。「オレにも戦わせろ」という自発的意思が、国防の権利なのかもしれない。

そして、「僕らの寮」というものが、「国家」(国体?)というようなものなのだ。寮は誰かのものではないけどみんなのものだ、とみんなは考えている、と。以前は寮長のものだったけど。で、「僕らの寮は僕らで守る」という考え方が、ナショナリズムっぽいとか、国民軍当然とか、国防は権利とかに通じているものなのかもしれない。


昔の寮長時代であれば、
乙:「なんでオレだけが便所掃除ばかりなんだよ」
寮長:「これは命令だからだ」
乙:「何で命令はきかなけりゃならないんだよ」
寮長:「それはオレが寮長だからだ。寮長の命令は絶対だ」
乙:「何で寮長の命令は絶対なんだよ」
寮長:「寮長が一番偉いって決まっている」
乙:「そんなこと誰が決めたんだよ」
寮長:「そ、それは、昔からそうだからだ」
乙:「昔の誰が決めたのかよ」
寮長:「…判らないが、決まってんだよ」
乙:「本当は決まってなかったんじゃね?」
寮長:「…うぐggg、オレの命令は絶対なんだYO!!」
という具合に、権威の正統性みたいなものが、あまりはっきりしてなかったのかもしれない。あるとしても、それは物語的というか、神話的世界とか、宗教的世界とか、曖昧な理由付けみたいなものかもしれない。それを共和制とするということは、物語とかではない、「寮とは何か」「”僕ら”とは誰か」「当番表の決め方」みたいなものを人工的に正統性を与える必要があった、ということかな。

教育の意味というのは、上の乙が投げかける疑問、「何でだよ」ということだろうと思う。「寮長の命令は絶対だ」ということへの根源的疑問みたいな考え方を自分できるようにせよ、というのが教育ということかと。「誰が決めたんだよ」への解答が、「法に書いてあるからだ」というものを用意したのが「共和制」ということかな。フランスの「教育と哲学が重要だ」というのは、きっとそういうことなんだろう。上の寮の例で言えば、寮長を追い出した後のA寮の運営をする場合、掃除当番や食事当番とかを決めるのに、「何らかのルール」が必要だからね。寮のメンバーの半分以上が賛成すればルールを作れる、とか決めておかないと、誰かが「オレは知らねーよ」「守りたくねーよ」とか言い出して秩序の混乱を来たすことがあるかもしれないからだ。共同生活をするのは大変なんですよ。夫婦でもルールがないために、紛争の原因となってしまったりするわけで、「寮長の命令は絶対だ」とか「法(ルール)に書いてあるからだ」とかに匹敵するような権威がないと、秩序維持に混乱を来たす可能性はあるだろう。それは「父ちゃんの決定は絶対だ」みたいなものかな、と(笑、我が家でもそこまでオーバーではないな。絶対性は持ってないけど、一番優先されると思う…)。


こうして見ると、国防が権利であっても理解できなくはないかな。「僕らの寮」の正統性は、哲学と教育から生み出されるというようなことなのであろう。




教育の牢獄

2007年09月11日 00時12分17秒 | 教育問題
この前の「最後の授業」の話を思い起こしました。日本には―いや、私にはという方が正しいかもしれない―「民主主義幻想」のようなものがあるような気がしました。自分では容易に気付けないけれども、善意の人々の恐ろしさ、みたいなものは潜んでいるのかもしれません。


琥珀色の戯言 - 滝山コミューン1974

この中で触れられている『滝山コミューン』という本の書評に呉智英さんが述べた言葉が深く心に突き刺さってきた。

『政治史についての洞察力を欠いたまま民衆権力のコンミューンという扇動的言葉に憧れた善意の人たちが作り出した教育の牢獄の記録である。』


それから、こちらの記事でも印象的な言葉が紹介されていた。

【海難記】 Wrecked on the Sea - 2007-09-09p1

『だから「共和国」では、「(市民)社会」より「国家」が優先される。そして「国家」は「ライシテ(非宗教性)」を厳格に守った上で、文化的価値を独占する。したがってドゥブレによれば、共和国にとって何より重要なのは「学校」と「哲学」であるということになる。』

フランス人を甘く見ていたよ(笑)。学校と哲学。そうか、そうなのか。
「フランス語を話せ」という強硬な主義主張みたいなものも近い考え方かな、と思った。教育にも哲学にも、フランス語という基盤がなければダメですもんね。
ドゥブレの『共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。』とは、これまた善意の人たちの恐るべき理想主義といいますか、ナショナリスティックとか国家が第一みたいな傾向であるように思えます。共和国が民主主義の基本などではないのだ、ということを改めて感じました。


ここ最近、何故かフランスネタが多くなっておりますが、ただの偶然です。第二外国語はドイツ語でしたし(これも全然ダメダメだったけど、笑)。
<ちょっと寄り道:
語学は基本的にセンスが大事だと思う。自分は言語能力がほぼダメ。英語もダメ、ドイツ語も、フランス語も、勿論のことダメ。よく数国語もできる人がいるんだけど(Nagarazokuさんとか…)、本当に天才なんぢゃないか、と尊敬の眼差しですよ。自分の場合は、中学校の時のトラウマか何かなのかもしれない(笑、責任転嫁してみた)。あの英語とかの文字の羅列を見ると、ドイツ語でも何でも同じようなものなんだけど、何だかムズムズするというか目を閉じたくなる。電話帳を見てるのと似てるかも。なので、語学は大嫌いだった。英語が嫌いなことを「日本人なんだから日本語でいいんだよ」と理由を付けて逃げてしまい、汽車の中でモルモン教の青年なんかに会うと、日本に来てるんだから日本語で話せ、みたいに思いつつも、英語で話しかけられると赤面して言葉に詰まるだけだった。ああいう記憶が語学を嫌いにしたんだ(笑、冗談ですからね)。いずれにせよ、外国語は超苦手。>

私が小学生頃には、そんなコミューンみたいな存在は知らなかった。時期的にはきっと同じなんだけど(72~78年頃)。児童会とか生徒会とか、そんなものはあった。でも、滝山コミューンみたいな活動はなかった。全生研という存在も、いま初めて知りました。当時クラスに班はあったし、生活目標みたいなものとか班ごとに決めさせられたりしたが、そんなに厳しい制度は存在していなかった。

ああ、待てよ。ハンカチ・ちり紙の持ち物点検みたいなものはあった。当時、ポケット・ティッシュなるものは存在せず(箱ティッシュもなかった)、ちり紙を買って4つ折にして持って行っていた。その頃、「便所のちり紙」という白くない紙質の安物があって、蕎麦みたいな色合いだったような気がするが、それをランドセルに入れて持っていたら笑われてバカにされた(笑)。だって、永久に使う場面なんてないのに、ただ持ち物検査の為だけにランドセルの中に畳んで入れておくだけなんだし。でも、それ以後、恥ずかしかったので「白いちり紙」を入れておくことにしたのだった。
<ちょっと寄り道:
ちり紙は1000枚とか紐で縛って売られていて(古新聞を出す時みたいな紙束って感じ)、一番上には何故か「亀」や「鶴」とか「梅の花」なんかが描かれた少し厚手の紙が置かれていたものだった。ちり紙ブランドを消費者に覚えてもらう為に、ああいう絵にしてあったのであろう、きっと。現代ではティッシュをタダで配ってくれて、まことに有り難いことですけれども、当時にはちり紙さえも「高級品」という区分みたいなものがあったのです。>

こうした点検などがあっても、点数化したり懲罰を与えられたりということはなかったように思う。私の学校では児童会とか生徒会といった呼称であったが、別な地域では何故か「書記局」という呼び名であることを知り、驚いた。子どもの活動なのに、「書記局」という呼称の意味がまるで判らないのではないかと思う。しかもそれが未だに続いているというのも、アレだな、と。共産主義体制じゃないんだから、とは思う。
因みに、私の生活態度は悪く、いつもゲンコツなんかを頂戴していたのだった(笑)。忘れ物とか、廊下を走るとか、教室で丸めた紙を箒で打つのをやっていたとか、何ということはなしに注意されていたと思う。けれど、学校は楽しくて毎朝一番乗りを目指していたのだった(笑)。目的があったからだ。とりあえず朝から遊ぶ為だけに友だちと待ち合わせたりして早く行っていた(大体7時半くらいまでに着く)。軍人将棋やトランプなどを朝にやっていたのだ。先生に見つかれば怒られることになったかもしれないが、一応大丈夫だったような気がする。ひたすら遊べるということだけを理由にして、喜び勇んで通っていた。休み時間には、体育館の天井から下がっていたロープのてっぺんまでいかに早く登れるか競争したり、「手つなぎ鬼」で最後の一人になるま逃げ切るとか、軟球で野球をしたりとか、高いところから飛び降りる勇気を示すとか、グラウンドの遊具の垂直棒をいかに早く登るかとか、鉄棒で遠くまで飛ぶ遊びをしたりとか、落とし穴を掘ったりとか(笑)、色々とやっていた。
中学の時には「教科書を忘れると正座」とか、班の連帯責任とかで「一人忘れ物をすると全員正座」とか、しまいには「学級全員正座」ということがあったが、あれはちょっとオカシイと思った。体罰は勿論アリアリで、ビンタを食らっていた男子生徒もいたな。あれは行き過ぎではないかと思ってたけど。当時は、それでも仕方がないのだと思っていた。


ああ、そういえば小学校の時に学級会はあったよ。議題といっても大したものはなかったと思うけど、でも、何か特定の問題について話すことはあったかもしれない。そういう時には、優等生ぶる女子とかに「○○君は~をして騒いだりしています」みたいに言うヤツがいて、心の中では「チッ」と思っていたかも(笑)。告げ口してんじゃねーよ、とか。まあ、私の場合にはどの道悪ガキであったことは明白だったので、大した痛痒を感じたりはしなかったと思う。
あと、「~するのは止めて下さい」みたいな決めセリフとかもあったかも。小学生男子だと女子には口では勝てないので、大抵は凹まされる。大人でもそうかもしれんけど(笑)。これって、ネットの「匿名でコメントを書くのは止めてください」みたいなのと、あまり変わらないかもしれんね。
学級会で、ある人だけ徹底的に攻撃されるというのはなかったと思うけど、係の人を決める時にワザと「○○さんがいいと思います」みたいな出来レースを仕組む連中とかはいたかもしれない。確か私もそれに加担したこともあったような気がする。「イヤだよ~」とか本人が言っていても、「ハイ、決まり」みたいに全員が押し付けるんだよね。よく考えると、酷い話ではあるな。特に、男女各1名選出とかになると、そういうわざとらしさみたいな意志が働いていたのは感じたことがあった。当てられた人は可哀想とは思ったが、だからといって、私が何かをしようとは思っていなかった。結局、多数派に加担してしまうのだ。


それにしても、コミューンは恐ろしい。



河上肇と饅頭

2007年09月10日 00時02分00秒 | 経済関連
「五郎ワールド」(橋本五郎さんの定期欄)はいつも面白く読んでいる。8日付朝刊では『河上肇の遺墨』(一海知義、魚住和晃編)が出版されたということで、「書は人なり」という面から見た河上肇が描かれていた。

その記事から、以下に一部引用してみる。

 マルクス主義経済学者、河上肇(1879~1946)は『貧乏物語』をはじめ多くの著作で戦前の読者を魅了した。河上の論敵だった後の慶応義塾長、小泉信三は魅力の秘密をこう書いた。
 「河上博士の述作の凡べてを通じて常にその読者を打つものは博士の情熱と理想主義とである。別の言葉で云えば今も失われぬ博士の至純な青年の心である」(「河上博士の踏みつつある道」)
(中略)
 「書は人なり」とは、その教養人の知性や認識を書跡によって窺うことをいうのであって、筆跡から性格判断したり人柄を察する戯れの世事に用いる言葉ではあるまい。そういう魚住氏は、河上の書の特徴は左への流れが全く見られないこと、行頭がきれいにそろっているところにあるという。
 毛筆を右手にとると、どうしても左に流れやすくなる。それが河上の書には見られない。「つねに姿勢を正し、視野を広くとって紙面を直下に見通し、かつ何よりも筆を垂直に立てて揺るがない」からだろう。
 行頭をきれいにそろえることは簡単ではない。リズムよく書こうとすると、行を重ねるたびに字粒が大きくなり、字間がゆるみ、行頭が下がってしまう。河上にはそれを乗り越える「統一力」と「計画力」があったに違いない。




私には書の心得もないし、毛筆はまるで書けないこともあって、河上博士の書の写真を拝見してもよく判らなかった。ただ、マルクシスト川上肇という人物が、波乱に満ちた人生を歩んだということは知ることができた。京都帝大を辞めて後、治安維持法違反で逮捕、投獄となり、「生きていることの方が不思議」という心境になっても不思議ではないような気がする。まさしく「天猶活此翁」(天はなお此の翁を活かせり)ということなのだろう。

饅頭が食べたくて仕方がない、ということにまつわる話が新聞記事の後半に書かれていたが、実際に川上翁は饅頭が好きだったということなのであろう。ただ、河上博士の真意というものが何処にあったのか、ということがとても気になってしまった。それは、饅頭というものが、「本当に食べ物としての饅頭であったのであろうか?」ということだ。獄中にある時の、気力を維持し闘士の気概を失わなかった人物が、出獄した後に安閑と饅頭を頬張って楽隠居みたいに過したい、などと願うのだろうか?そうした疑問が心の底に残るのである。

饅頭とは、本当は学問であり、著述であり、闘争ではなかったか?
実際の好物は饅頭であったのかもしれないが、既に逮捕歴のある人物に対する検閲等の徹底マークがあるであろうことを思えば、本当は書きたくて仕方がなかった、というような、学問研究への強烈な希求をそう表現せざるを得なかっただけなのではなかろうか。自分の存在意義を賭けてきた学問への情熱を捨て去ることは容易ではないだろう。自らが止む無く封印した「マルクス主義研究」という「大好きでたまらない饅頭」を、いつもいつも思い浮かべてしまっていたのではないか。そうした気を紛らわせる為に、意図的に饅頭に意識を向けさせてたというようなことはなかったであろうか。そんなことを思ってしまうのである。

私は河上肇博士の出獄以後の業績とか、著述については全く知らない。経済学研究の成果などが執筆されていたのかもしれない。ひょっとすると、本当にただ饅頭への強い欲望があっただけなのかもしれない。だが、ある種の宗教的解脱に近いような性質の研究者が、物欲、特に食欲だけに晩年の関心の多くを割いていたとは思い難いのである。河上博士にとっての饅頭とは、心の中の空白を埋めるためだけの隠喩に過ぎなかったのではないか、などと空想してしまうのである。


ところで、河上博士は20世紀初頭頃には読売新聞の経済欄によく執筆していたそうで、橋本五郎氏にとってはいわば先輩執筆者のようなものである。100年以上過ぎた今の時代でも当時の記事が色褪せることなく学ぶべきことが多々あるとすれば、新聞紙上で紹介して頂けるとよいと思うのだが、いかがであろうか。
読売新聞の過去の記事はデータベース化されたはずなので、河上博士の当時寄稿した記事も探せばきっとあるであろう。そういう意味では、新聞にも貴重な価値があると言えるであろう。是非、またの機会にでもと願っている。

今回河上肇という人物について取り上げてみようと思ったのは、田中秀臣先生のブログでちょっと読んだことがあったからだ。そうでなければ、私は河上肇も知らなかった(笑)。昔、読売新聞に執筆していたことも知り得なかった。

東京河上会幹事日記

知識の伝播、継承というものは、やはりコストのかかるもので、こうしたブログ記事の啓蒙活動というのは大変ありがたいものである。その労力に心より感謝申し上げる。



聖書と「エヴァンゲリオン」

2007年09月09日 17時04分45秒 | 社会全般
今日のfinalventさんの記事にあった謎について、少し書いてみたい。
finalventの日記


①エヴァンゲリオンの表記というのは?

私は聖書には無縁で、福音書についても全然知りませんでした。
エヴァンゲリオンの出所というのは、finalventさんの書かれていた通りでした。恐らく作者の造語的なものと思われました。

マニアな方々が、このようなものまで既に作っているようです。

人造人間エヴァンゲリオン - 新世紀エヴァンゲリオン百科事典『EvaWiki』

なるほど。結構詳しいです。元々はギリシャ語からで、ラテン語をあてると「euaggelion」ということのよう。
「eu-」は、「good」や「well」を意味する接頭辞で、現在の英語でも「eulogy」とか「eugenics」といった単語に現れています。
「aggelia」は「知らせのことで、合わせると「良い知らせ、グッドニュース」みたいなものになるようです。上の記事にも書かれているように、「angel」の語源ともなっているそうです。
因みに、ゴスペルは音楽的な用語として近年日本でも広く知られるようになったと思いますけれども、「gospel=good spell」ということで、「euaggelion」を英語に置き換えた語ということのようです。
漫画の中では多分馴染みやすいことを考えて、英語っぽく表記することにして、「evangel」という単語から「evangelion」という造語としたものと考えられる、と。

そうだったのかー。
エヴァンゲリオンからこんなに勉強になるなんて!(笑)
漫画も使いようなんですね、きっと。


②ホテルに聖書が置かれるようになったワケ

これは「国際ギデオン協会」という所の活動によるものだそうですが。本当にそうかといわれると、確かめようがないかも。

財日本国際ギデオン協会>ギデオン協会の起源

ボスコベルのホテルでの出来事が起源、ということのようです。


他のエピソードもあるようですね。

大陸横断ドライブ-後編

この記事中のマジソン市のところに「ホテルと聖書」という記事があって、そこには次のように記されています。

『19世紀末、この学園都市のボスコベルというホテルに或る旅行者が宿泊した。彼は平素、夜寝る時には聖書を読むことを習慣としていたが、その旅行に持参し忘れていた。
ホテルの支配人に聞いたが聖書は無かった。一夜まんじりとも出来なかった彼は帰宅後、今までの仕事を止め、ホテルに聖書を配る仕事を始めた。
忽ち聖書は全米のホテルに置かれるようになった。ヨーロッパにもその習慣は広まった。
J.F.ケネデイ大統領とジャックリーヌ婦人は、この話しに感動し、二人でそのホテルの19号室を希望して宿泊したというエピソードがある』

何とJFKが感動のあまり、同じホテルの同じ部屋番号?の19号室に宿泊した、ということらしい。
本当か?と思ったりするが、どうなんでしょうか。大統領が、ニコルソンとヒルが偶然相部屋となったのと同じ部屋に泊まるものなんだろうか(笑)。ギデオン協会の話とも、若干違っているみたいだ。実のところ、どうなんでしょうか。


聖書にまつわる話というのは本当にたくさんあって、日本人には関心のないものも多いと思います。結構意外なことがまだまだありそうです。


追加:

コメント欄を見ると、ほぼ同じような話が既に出されていた。ありゃりゃ。
何故日本のホテルにも聖書があるのか?
これは一つのスタイル、みたいなものかもしれませんね。他も置いてるから、みたいな。実際どうなんでしょうか…




日銀のコミュニケーション能力は最低!

2007年09月08日 16時28分02秒 | 経済関連
「近頃の若いモンは…」とかの定型句ではありませんが、コミュニケーション能力が足りないとか、社会人として必須能力だとか言われているご時世ではありますが、これが本当に必要なのは「日銀」なのではありませんか?(爆)

Yahooニュース - 時事通信 - 日銀、全部門で最低=市場との対話能力-英銀調査

(記事より引用)

【フランクフルト8日時事】市場とのコミュニケーション能力は日銀が最低-。各国中銀が金融政策への理解を高めようと、市場との対話や透明性向上に腐心する中、英投資銀行バークレイズ・キャピタルはこのほど、こんな調査結果を公表した。
 調査対象は日銀のほか、米連邦準備制度理事会(FRB)、欧州中央銀行(ECB)、イングランド銀行(英中銀)の4行。調査期間は8月1日から24日で、世界各地の約1200に及ぶ商業銀行やヘッジファンドなどから回答を得た。
 市場との対話能力に関する地域別調査では、日銀は日本を含む全地域で最低、逆にFRBは全地域で最高だった。商業銀行やヘッジファンドなど業種別の調査でも、日銀は全業種で最低。外国中銀では、学界で英中銀が1位となったほかは、すべてFRBがトップの評価を受けた。


もう笑い転げてしまいましたよ(冗談ですけど)。
まあ、世界基準では「最低」、ってことは確かなようですな。ナイス(死語?)、バークレイズ・キャピタル。
比較される相手が、FRB、ECB、BOEではハナから勝ち目はなさそうですけどね。素人なので、よく知らないんですが。少なくとも、私のような門外漢にまで「これはオカシイ」と思われるということは、余程酷い、ということなのではないかと思われます(笑)。何度も指摘してきたし、つい先日にも書いたばかりですけど。

参考記事:
みのひとつだに なきぞかなしき

日銀には「art」が足りない

出生数減少と景気動向


どんな評価方法だったのか知りたいな。結果の公表はないんだろうか?あったらいいのに。
日銀としては、結果については謙虚に受け止めた方が宜しいのではないかと思います。よく検討して、改善すべきは改善した方がいいと思います。
それにしても、全部が最低評価、ってのも、どうよ?(笑)
普通は、何か一個くらいは取り柄みたいなもんがあるわけでしょう。実践は苦手だけど理論は素晴らしいので学界からの評価は高い、とか、対話は苦手だけど政策実行はよいとか。でも、どれも最低、って……感想としては、「やっぱりな」とか「どうりで日本は…」とかそんな感じですかね。


例で書いてみましょうか。
日本の中学生が4人いました。アメリカ君、ユーロ君、イギリス君、日本君です。国語、英語、数学、社会、理科の5教科の得点力を調べました。すると、アメリカ君は優秀な成績で、殆どトップでした。イギリス君は数学ではトップでした。ユーロ君の成績は平凡でしたが、日本君は全教科で「オールびり」でした。成績は「全部が最低」です。

どうです?笑えるでしょ?
何か一つくらいは、「トップを取れ」という強欲を言っているわけではないんですよ。そんな無茶なお願い(笑)をしているわけではないんですよ。せめて、「全部びり」じゃなく「一つくらいはびりじゃないものを」という、極めて控えめな要望をしているのですよ。5教科全部で最低点のボンクラ学生じゃなくて、一つくらいは最低点じゃなくなるように頑張ろうね、ってことをお願いしているわけです。
ま、日銀の頭の悪さは今に始まったことではないらしいので、周囲から言われても「そんな結果を信じない」とか言い張るんだろうね、きっと。それとか、「みんなが判らないのは、お前らの頭が悪いからだ」とか他人のせいにできるしね。日銀というのは、基本的にそういう態度なんですよね。決して改めようとはしない。

私のような場末ブログで何を書いてもしょうがないわけですが、傍から見てても相当いかれているのですから、日々影響を受ける関係者たちから見ればそれは一目瞭然ってことだわね。日銀のような「ダメ中銀」を持ってしまった時点で、日本の「最低確定」、日本国民の「不幸確定」みたいなもんです。国民が代わりに苦労させられる、ってこと。あ~あ。


政策決定会合メンバーは、あれだ、「ニート塾」みたいなところで、本気で合宿でもやって頂いた方が宜しいんじゃないでしょうか。そこで、コミュニケーション能力とか、軍隊方式みたいに徹底的に叩き込まれてきて下さいよ。前にも似たようなご提案をさせて頂いたことがあるわけですが、現実味を帯びてきたようでございます。