(2)女性性/男性性:ルソーとサンド
では、サンド自身の性のアイデンテイテイは、どのようなものだったのだろうか。ここでは、サンドがその哲学を「モーツアルトの音楽のように心地よい」と賞賛し、自ら「ルソーの娘」と書き残したジャン・ジャック・ルソーとの比較を通し、サンド自身の性のアイデンテイテイについて俯瞰してみよう。
男性性と女性性の逆転あるいは一つの性の中の両性の混在といった特色は、『我が生涯の記』の作者であるサンドと『告白』の著者ルソーと異なる点であり、似ている点でもある。生まれて8日後に他界した母が父イザック・ルソーに残した人生とベッドの空虚を埋めるため、少年ルソーは激しい言葉とともに父親に繰り返し強く抱きしめられ、接吻をされ続けた。「もしおまえがおまえでなかったら、どんなに愛しただろうか」という言葉とともに。こうして、ルソーは父親により去勢された。不在の母の代替となり、父親の欲望が転化され、女性化されていったのだ。したがって、50代の『告白』の作者にとって、女性性は子供の頃からの自身の性のアイデンテイテイであった、と『ルソーと批評』の著者は指摘している。
他方、サンドの場合には、父親を4歳で亡くし、祖母からは父の名前と間違えてモーリスと呼ばれるほど父親の代わりに溺愛され、貴族女性のしつけを厳しく教え込まれつつ、父親の家庭教師からは男子教育を受けた。ルソーのように去勢されるまでには至らなくとも、ルソーの女性化とは真逆の性である男性性が、サンドには子供時代から植え付けられていたと言っても過言ではないだろう。しかし、サンドは、一方の性に偏った性をもつのではなく、両性を備えた独自の性、あるいはどちらももたない性をもつに至り、フロベールがサンドを「第三の性」と形容した独特のアイデンテイテイを形成していったと推察される。
ルソーの『告白』は一種の自伝であるサンドの『わが生涯の記』と比較した場合、作家のプライベートな部分の露出度は数倍にも及ぶと思われるほど強烈であることが明らかになる。男性作家のこうした露出度に関し考察してみると、男性性が支配している、時として自虐的で露出狂的でさえある男性作家の告白は、一般にレトリックとしてゆるやかに解釈されるのに対し、これが女性作家であった場合には、スケープゴートよろしく、書いた事は片端から文字通りにとられ、あからさまに侮蔑や軽蔑の対象とされてしまう。19世紀の一部の男性作家たちは、女性作家に対しパノプチコン的な特殊なまなざしをもって彼女たちの威信を地に落とすためにアンテナを張り巡らしていたのではないかと疑いたくなるほど過激であった。文学の真の発展にも、よりよい人間世界の構築のためにも何ら貢献しない、女性作家に対する悪口と中傷、嫌がらせは、ブルデューの表現を借りれば、一部の限定された文化資本をもつ極く特殊な階層の、現代で言えばグロバリゼーションのハビトゥスから逃れられない哀れむべき種族のみが為す行為といえるのであろう。サンドはこうした第二の性の作家に対する一部の男性作家の言われなき恥辱を自ら経験し、辛酸をなめた女性作家であった。女性作家はルソーのような露出度の高い『告白』の類いの自伝を書くべきではないとサンドが強調するのは、こうした辛い経験をいやというほど積んでいたからであったと推測される。