西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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コレット(1873-1954)とジョルジュ・サンド

2014年08月03日 | 女性文学・女性


1954年8月3日、『クロディーヌ』『ジジ』『シェリ』『青い麦』などの小説で知られる、女性作家シドニ=ガブリエル・コレットがこの世を去りました。
今から遡ること、60年前のことでした。

"Moi, c'est mon corps qui pense. Il est plus intelligent que mon cerveau. Il ressent plus finement, plus complètement que mon cerveau...
Toute ma peau a une âme"
                      (Extrait de "La retraite sentimentale")

サンドが他界する3年前にこの世に生を受けたコレット。彼女はサンドの精神的恋愛小説で育ったとも言われています。サンドとコレットの共通性については、フランスのサンド研究者ミッシェル・エッケ氏(リール第三大学教授)が、2004年6月2日に慶應義塾大学における講演で述べておられます。エッケ氏は、サンド学会が2004年の作家生誕200年を記念し、講演会の招聘講師として日本にお招きしたのでした。

http://sandjapon.gooside.com/colette.htm

ちなみに、同年5月の日本フランス語フランス文学会の春季大会では、ミッシェル・・エッケ氏は、サンドの『わが生涯の記』について発表されました(主催:日本フランス語フランス文学会、日本ジョルジュ・サンド研究会 後援:フランス大使館2004年5 月 30 日)。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10030184-20060331-0137.pdf?file_id=12833

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/atomi-KJ00004417837.pdf?file_id=13886


では、コレットとは、どのような作家だったのでしょうか?

ベルエポックと二度の大戦を駆け抜け、女性の側から「性の解放」を叫び、同性愛も含む華麗な恋愛遍歴で有名だったコレット。「妖しく慎ましい奔放さ」に、ジャン・コクトーは虜になったと言われる。コクトーは、詩人、小説家、劇作家、評論家として著名であるだけでなく、画家、映画監督、脚本家としても活動し、作家のプルーストやラディゲ、詩人マックス・ジャコブの他、画家のモディリアーニやピカソ、キスリング、さらにバレエのニジンスキー、音楽ではサティやプーランク、果てはチャップリンなど、交流関係の広さでも有名であった。*
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・コクトー

コレットは、1873年、ヨンヌ県のビュイゼー村に生まれた。父は退役陸軍大尉、母はシドあるいはアデールと呼ばれる、実はシャルル・フーリエの最初の夫人でもあった。

ブルゴーニュの寒村で成長したコレットは、村を出て世紀末のパリに趣き、20才で14歳年上の文壇プロデューサーと結婚。

夫のアンリ・ゴーチェ=ヴィラールの筆名ヴィリーの名を使い、「クロディーヌ」シリーズを出版。お転婆でレズビアンめいた少女クロディーヌは、当時の若い女性の間で大流行となり、かくして、化粧品からファッションまでフランス最初のキャラクター商品が生み出された。

結婚から13年後の1906年、浮気でバイセクシュアルだったヴィリーと離婚。パリのミュージック・ホールでパントマイムや踊り子として活躍を始めた。この頃の愛人は、ナポレオン3世の縁者を名乗るベルブーフ侯爵夫人ミッシーだった。ニ人は舞台上で共演もしている。

1912年に3歳年下のアンリ・ド・ジュヴネルと再婚。男爵夫人となる。女の子をもうける一方で、育児よりは「ル・マタン」紙の主筆であった夫アンリを頼りに文章を磨く修業に猛然と取り組んだ。

1914年、オペラ座からバレエの台本の執筆を依頼され、『子供と魔法』を完成。音楽を担当したモーリス・ラベルは、この作品をオペラに仕上げている(オペラの初演は1925年3月21日)。

1924年、夫のアンリ・ジュヴネルの連れ子ベルトランとの仲を危ぶまれて離婚。この経験が名作『シェリー』を誕生させた。アンドレ・ジッドは「一カ所として軟弱なところがない。陳腐な表現もない」とこの作品を絶賛している。

1935年、62歳で17歳年下のモーリス・グドケと再々婚。幸せな結婚だった。が、結婚生活のかたわらで同性愛体験を謳歌。
第一次世界大戦中はジャーナリストとして活躍し、自宅を野戦病院として開放している。このような人道的な活動にもかかわらず、第二次世界大戦中に、はからずもヴィシー政権に協力してしまった。が、その主要因は、夫のグドケがナチスのゲシュタポに連行されたことにあったらしい。

1954年8月3日にパリにて逝去。81歳だった。8月8日に国葬が営まれ、なきがらはペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

受勲:
レジオン・ドヌール・シュヴァリエ賞 (1920年)
ベルギー王立アカデミー (1935年)
アカデミー・ゴンクール総裁 (1945年、最初の女性総裁)
グラン・オフィシエ (1953年)


ーーー
*コクトーは、友人であったエディット・ピアフの死を知った4時間後に亡くなったことでも知られる。死因は心臓発作で74歳だった。1936年5月に訪日。一週間の滞在中には、作家の林芙美子、詩人の江間章子や六代目・尾上菊五郎に会見。相撲を「バランスの芸術」と呼んだ。翻訳家の 朝吹登美子氏は、生前のコ クトーとも交流があり、死の報せを受け、コクトーの自宅に駆けつけている。三島由紀夫は、1960 年、岸惠子出演の芝居を演出中のコクトーを訪問したが、この時の案内役を務め たのが朝吹氏であった。ちなみに、朝吹登美子氏は、2011年の芥川賞受賞作家・朝吹真理子の大叔母に当たる。

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