西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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SJLLF2018年度春季大会 6月2日3日 獨協大学

2018年05月23日 | 手帳・覚え書き

大会プログラム:

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研 究 発 表 会 プ ロ グ ラ ム 6 月2 日(土) 13:15〜14:45
西棟3 階W-309 教室
司会:酒井智宏(早稲田大学)
1. Pourquoi crois-tu que P?におけるP の叙法選択に関して ― 語用論的前提の観点から
井上大輔(上智大学博士後期課程)
司会:黒岩卓(東北大学)
2. ピエール・ド・ベアルンの夢遊病の逸話(フロワサール『年代記』第三巻)
竹田千穂(早稲田大学博士後期課程)
3. 「『ジョウハリ』の器」、― 原著とその邦訳の間 ―(ある邦訳を例として『トリスタン・イズー物語』)
佐佐木茂美(明星大学名誉教授)

18世紀・19世紀 西棟2 階W-202 教室
司会:片岡大右(東京大学)
1. 『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』研究 ― サン・フォンの悪の至高存在
上田雅子(京都大学博士前期課程)
司会:海老根龍介(白百合女子大学)
2. ボードレール、「美」における暴力と求愛の揺らぎ
小倉康寛(一橋大学博士課程修了)

19世紀 西棟2階W-203 教室
司会:博多かおる(上智大学)
1. ミミは結核で死んだのか? ― ミュルジェール『ボエーム生活の情景』における〈病〉
辻村永樹(早稲田大学非常勤講師)
2. バルザック『ゴリオ爺さん』、ボーセアン夫人の最後の舞踏会をめぐって ―「罪を犯した女たち」と人物再登場法
谷本道昭(東京大学助教)

20世紀(1)西棟2 階W-204 教室
司会:三ツ堀広一郎(東京工業大学)
1. ミラン・クンデラにおける運命 ― 啓蒙主義と中欧的歴史観をめぐって
須藤輝彦(東京大学博士後期課程)
2. ミラン・クンデラの『無意味の祝祭』における自己パロディあるいは自己オマージュ
ローベル(田中)柊子(東洋大学准教授)
3. アルベール・カミュ作品における孤独と連帯
佐々木匠(早稲田大学博士後期課程)

20世紀(2)西棟2 階W-205 教室
司会:若森榮樹(獨協大学)
1. ジャック・ラカンにおける〈もの〉と昇華の問題 ― 宮廷愛、悪、不信
桑原旅人(東京大学博士課程)
2. ジルベール・シモンドンにおける「自然的なもの」―〈非−私〉の規定作用の観点から
堀江郁智(東京大学博士後期課程)

20世紀(3)西棟3 階W-310 教室
司会:伊藤洋司(中央大学)
1. Plein soleil et Thérèse Raquin – À propos des corps retrouvés dans l’eau
山本武男(慶応義塾大学専任講師)
2. 思春期文学における暴力と死 ― ギヨーム・ゲロ『獲物にはならない』を中心に
伊藤敬佑(白百合女子大学非常勤講師)

特 別 講 演 1 6 月 2 日(土) 15:00~16:15
西棟1 階 W-102 教室
Saussure et la littérature
Gabriel BERGOUNIOUX (Université d’Orléans)
Saussure constitue une référence pour les études linguistiques. Son nom reste attaché à la fondation du programme structuraliste qui, à travers les études de Jakobson, Barthes ou Genette, a ouvert de nouvelles perspectives à l’analyse littéraire … S’il n’a pas manifesté d’intérêt particulier pour ce domaine, il a consacré à ces questions un temps important de sa recherche (les anagrammes latins, grecs et védiques, la critique de la légende des Nibelungen) et une partie de ses
enseignements (sur les écrivains classiques et sur la prosodie de la Renaissance au XVIIIe siècle).
La publication de différents manuscrits au cours des dix dernières années a révélé cette facette de son œuvre. Ces inédits ne témoignent ni d’une ambition théorique commensurable à celle qui a été déployée en linguistique, ni d’une continuité entre la réflexion sur l’expression littéraire et l’étude scientifique des langues et du langage telle que R. Jakobson a pu l’illustrer.
On récapitulera dans un premier temps les principes qui ont déterminé les propositions faites sur l’agencement des vers indo-européens et la mythologie germanique. On montrera de quelle façon ces élaborations contournent une interrogation qui se confronterait directement au statut de la fiction et au rôle du créateur puisque le fait littéraire s’est trouvé ramené à l’élucidation de références historiques ou à des arrangements formels de phonèmes, de mètres et d’accents.
On examinera ensuite quel pourrait être l’apport d’une linguistique structurale à la compréhension formelle des œuvres.
En replaçant Saussure dans une approche qui sera développée ultérieurement par Benveniste (énonciation), Propp, Greimas théorie du récit) et en prenant pour exemples des textes en français appartenant à tous les siècles – jusqu’à l’extrême contemporain –, on effectuera un premier repérage dans ce que serait la conception saussurienne d’un savoir sur la littérature, une pratique qui s’était trouvée inscrite d’emblée dans le programme de la sémiologie.

特 別 講 演 2 6 月 2 日(土) 16:30~17:45
西棟1 階 W-102 教室
Style littéraire et norme langagière
GillesPHILIPPE (Université de Lausanne) L’imaginaire littéraire moderne définit spontanément le style comme écart : la « signature rédactionnelle » est alors
prioritairement définie par des traits lexicaux ou grammaticaux qui, par leur nature ou leur quantité, ne correspondent pas à l’usage commun ou à l’usage recommandé et qui dérogent ainsi à ce qu’il est convenu d’appeler la norme. Si cette idée s’est imposée vers 1850 et reste aujourd’hui vivace, tant dans l’imaginaire collectif que dans la pensée littéraire et linguistique, elle n’a jamais pour autant fait consensus et a cohabité avec l’idée contradictoire selon laquelle la littérature serait le lieu du « bien écrit ». On pourra réfléchir à cette tension en interrogeant le lien entre style et norme dans tous les sens : sur quelle base définit-on la norme et le style pour mesurer leur conflit ? Qu’est-ce qu’un texte « bien écrit » ou « mal écrit » ? Les écrivains qui « écrivent bien » et ne s’écartent pas de la norme sont-ils encore des écrivains ? Tous les genres littéraires ont-ils également vocation à mettre en question la norme ? De telles questions ne sauraient recevoir de réponses sur un plan théorique ; leur formulation et leurs enjeux sont profondément ancrés dans l’histoire, comme on le verra à partir de nombreux exemples.

研 究 会 6 月2 日(土) 10:00~12:00
西棟W-202 教室 日本カミュ研究会 西棟W-419 教室 日本スタンダール研究会
西棟W-203 教室 バルザック研究会 西棟W-420 教室 日本ジョルジュ・サンド研究会
西棟W-204 教室 日本プルースト研究会 西棟W-421 教室 フローベール研究会
西棟W-205 教室 日本フランス語学会 西棟W-422 教室 日本マラルメ研究会
西棟W-416 教室 ラブレー・モンテーニュ・フォーラム 西棟W-423 教室 日本ヴァレリー研究会
西棟W-417 教室 パスカル研究会 西棟W-424 教室 日本クローデル研究会
西棟W-418 教室 18 世紀フランス研究会 西棟W-425 教室 バタイユ・ブランショ研究会

日本フランス語フランス文学会 2018 年度春季大会
ワ ー ク シ ョ ッ プ 第1 部 6 月 3 日(日) 10:00〜12:00

ワークショップ1 西棟2 階W-201 教室
〈聖なるもの〉の〈ポリティック〉― シモーヌ・ヴェイユから出発して
コーディネーター・パネリスト:鈴木順子(東京大学非常勤講師)
パネリスト:有田英也(成城大学)、岩野卓司(明治大学)、上田和彦(関西学院大学)
20 世紀前半を駆け抜けた、知と信、そして行動の人シモーヌ・ヴェイユ(1909‐43)。2019 年の生誕110 周年に先立ち、昨年末われわれ は『シモーヌ・ヴェイユ 〈聖なるもの〉と〈ポリティック〉』(水声社、2017)を刊行し、ヴェイユの宗教的側面と政治的側面がいかなる関係を取り結んでいたかを解き明かすことで、彼女の思想の 21 世紀的意義をヴェイユ研究の中心と外部の両面から問う試みをした。今回のワークショップでは、上記共著者であるパネリスト四人がその試みをさらに進めようとするものである。
鈴木は、ヴェイユにおける「聖なるもの」と「苦しみ」「歓び」との関係に着目し、そしてその関係が彼女の(一見犠牲的な)政治的行動を、どのように支えたかを考察する。有田は、不幸と悪をめぐる『重力と恩寵』の考察を手掛かりに、 ヴェイユが集団的な肉体労働に見出した霊性について考える。岩野は、バタイユとヴェイユにおける聖なるものと政治の関係を、過剰と死のテーマに沿って考察する。上田は、ブランショによるヴェイユ読解を手がかりとして、不幸と注意をめぐるヴェイユの思索が、いかなるポリティックにつながるのかを取り上げてゆく。このワークショップは、ヴェイユを中心テーマとしつつも、それに留まることなく、同時代や後の時代の文学・思想・歴史とも関連づけながら幅広く考えていくことを目的としている。従って多くの時間をパネリスト同士の議論に、また何よりも会場の皆さんとの質疑応答に割きたい。ヴェイユの提起する問題を様々な立場から共有する貴重な機会となることを期待している。

ワークショップ2 西棟2 階W-206 教室
女性作家と文学場のジェンダー
コーディネーター:小倉孝誠(慶應義塾大学)
パネリスト:川島慶子(名古屋工業大学)、村田京子(大阪府立大学)、東辰之介(駒澤大学)
18 世紀から19 世紀にかけては、科学的啓蒙や文学の領域で多くの女性が活躍し、同時代的には多くの読者を得ていた。しかし例外を除いて、その後それら女性作家の多くは科学史や文学史から排除されてきた。近代は知と文学の言説を戦略的に「男性化」してきたと言えるかもしれない。知の生産や創作が展開する「文学場」は、ジェンダー的な力学と無縁ではないのだ。本ワークショップでは、18 世紀の女性科学啓蒙家と19 世紀の女性作家を対象にして、同時代の男性作家と比較しながら、広義の「文学場」とジェンダーの関係を問い直す。
川島は「女が書くこと、公表すること、名前を出すこと」に着目する。女性作家を扱う場合、この三要素は分けて考えなければならない。ここでは 18 世紀の科学啓蒙家エミリー・デュ・シャトレを取り上げ、彼女が科学の本を書き、出版し、そこに自らの名を冠するに至った経緯を、ジェンダーの視点から分析する。
村田は「捨てられた女」のテーマを取り上げる。このテーマはオウィディウスのサッフォー像に遡り、バルザックが同名の小説を出版するほどの文学的クリシェとなっている。男性作家が創造した「捨てられた女」のテーマを女性作家がどのように扱ったのか、スタール夫人やサンドの作品をバルザックの小説とも比較しながら検証する。
東はソフィー・ゲーを取り上げる。『アナトール』(1815)で知られる彼女の小説の魅力は細やかな観察にあるが、それだけでは長いキャリアを築くことはできなかった。女性作家が特別視されていた文学場において、ゲーはどんな戦略を取ったのか。ジャンル選択や男女の描き方に注目し、バルザックら男性作家と対比して検討する。

ワ ー ク シ ョ ッ プ 第2部 6 月 3 日(日) 13:00〜15:00
ワークショップ3 西棟2 階W-201 教室
初期近代におけるテクストのデジタルアーカイブ構築にむけて
─ 国際人文学共同研究の可能性を求めて
コーディネーター:逸見龍生(新潟大学)
メインスピーカー:Maria Susana Seguin(モンペリエ・ポール・ヴァレリー大学)
本ワークショップでは、Maria Susana Seguin(17 世紀・18 世紀フランス文学・思想史・科学史)をメインスピーカーとして迎える。同教授が現在進めている国際共同研究に関する基調報告を受け、デジタル・ヒューマニティーズ(デジタル人文学、DH)のフランス文学史・フランス思想史研究における現況とその意義、課題を本学会と質疑応答を交えて共有していく。デジタル情報の発展が人文学研究の実践の場にインパクトを与えるようになってすでに久しい。かつては多大な労力をかけねば閲読でき
なかった中世から初期近世、近代にいたる稀覯本も、Gallica や Google Books などを始めとするデジタルデータの普及によってアクセスの様態は大きく変容した。また横断的な全文検索システムの進展は、人文学における読解アプローチを以前よりはるかに多様化させつつもある。さらに、Web を介した研究情報の国際共有を目指す共通のプラットフォーム構築向けた国際研究の動きも拡大してきた。
Seguin 氏が牽引しているデジタルアーカイブ・プロジェクト、Réseau Européen d’étude de la République des Sciences は、そうしたトランスナショナルな学術活動のひとつとして、ヨーロッパのみならず世界の研究機関と連携してアーカイブを構築しようとする人文学研究情報の最新研究である。個人の作家・作品研究とは異なる多様で大規模な電子コーパスの構築とその利用を対象としており、フランス文学の分野で従来より刊行・公開されてきた作家を中心とするデータベースとはやや異なるアプローチを採る。従来とは異なるどのような方法を取っているのか。それが初期近世のテクスト読解にいかなる可能性をもたらすのか。デジタルアーカイブ研究の意義と課題、あるいは日仏国際共同研究のさらなる研究連携の方法などを含め、ワークショップとして会場からのコメントの時間を十分にとりながら、多面的に議論を深めていきたい。

ワークショップ4 西棟2 階W-206 教室
アンドレ・マルローと視覚芸術
コーディネーター:永井敦子(上智大学)
パネリスト:昼間賢(立教大学)、Françoise NICOL(Université de Nantes)、吉村和明(上智大学)
小説家マルローの存在感が薄れて久しい。他方近年、マルローはむしろ複製論や博物館学等の分野で話題に上っている。私たちは、これらふたつのマルローの相互貫入性をたどることでこそ、新たなアプローチを獲得できると考える。
まず、昼間の報告「マルローと写真 ―『世界彫刻の想像美術館』における写真的世界観」。2004年に全集に加えられて以来、美術論は、特にディディ=ユベルマンの強烈な批判に曝されながらも、新たな関心を集めている。そこで、写真という制約でも可能性でもある媒体によって一連の「想像の美術館」を制作した作家マルローに注目しつつ、美術全集というよりは写真集として、なかでも『世界彫刻の想像美術館』について考察を深めることで、従来の批判を乗り越える展望がありうるのではないかと問う。
ニコルは「マルローとマッソン、1922年から1976年の連続線」と題し、美術論にはほとんど登場しないマッソンが、マルローと親密な友人関係にあったことを実証的に示す。さらにマルローがマッソンの芸術論を評価する理由等を明らかにする。
吉村は「マルローと映画 ― ありそうもない遭遇」と題し、スペイン内戦下での映画『希望 テルエルの山々』の制作、映画をめぐる理論的考察「映画心理学の素描」の執筆、文化相としての映画の擁護と「ラングロワ事件」という逆説的な結末という三つの側面で、マルローが映画に関わったことを示す。マルローの映画へのこうした関与は、それぞれの側面がからみあって映画という表現媒体にかんする多元的な問いかけを形成している。まずはこうした問題点を整理しておく。(発表は昼間、吉村は日本語、ニコルはフランス語で行う。)
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