ジョルジュ・サンドについて
母は忠実な読手ではなかったかもしれないが、彼女が真の感情の格調を見出したような作品についていえば、その敬意をこめた、気どらない解釈、その美しい、やさしい声調のために、すばらしい読手であった。(・・・)
彼女がジョルジュ・サンドの散文を読むときも同様であって、その散文はつねに善良さ、道徳的卓越をあらわし、そうしたものをママは人生で何よりもすぐれたものと見なすように祖母から教えられていたのであったが──私が母に、書物のなかではそうしたものをおなじように何よりもすぐれたものと見なすわけにはいかないと教えることになったのは、ずいぶんあとになってからでしかなかったが──そうしたジョルジュ・サンドの散文を読むとき、母は、やってくる力強い波を受けいれずにせきとめるようなどんな偏狭さも、どんな気取も、すべて自分の声から除きさるように注意しながら、彼女の声のために書かれたように思われる文章、いわば彼女の感受性の音域に全部はいってしまう文章に、それが要求する自然な愛情のすべて、ゆたかなやさしさのすべてを傾けるのであった。彼女はそうした文章が必要とする調子にうまくその文章を乗せるために、その文章に先だって存在しその文章を作者の内部でととのえたが書かれた語には示されていない作者の心の格調といったものを見つけだすのであった、そうした格調のおかげで、彼女は読んでゆく途中に出てくる動詞の時制のどんな生硬さをもやわらげ、半過去と定過去には、善良さのなかにある甘美さ、愛情のなかにある憂愁をあたえ、おわろうとする文章をはじまろうとする文章のほうにみちびき、さまざまな音節の進度をあるときは早め、あるときはゆるめ、それらの音の長短が異なるにもかかわらず、それらを斉一な律動のなかに入れ、じつにありふれた散文に、感情のこもった、持続的な一種の生命を吹きこむのであった。
マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p70 井上究一郎訳・ちくま文庫
母は忠実な読手ではなかったかもしれないが、彼女が真の感情の格調を見出したような作品についていえば、その敬意をこめた、気どらない解釈、その美しい、やさしい声調のために、すばらしい読手であった。(・・・)
彼女がジョルジュ・サンドの散文を読むときも同様であって、その散文はつねに善良さ、道徳的卓越をあらわし、そうしたものをママは人生で何よりもすぐれたものと見なすように祖母から教えられていたのであったが──私が母に、書物のなかではそうしたものをおなじように何よりもすぐれたものと見なすわけにはいかないと教えることになったのは、ずいぶんあとになってからでしかなかったが──そうしたジョルジュ・サンドの散文を読むとき、母は、やってくる力強い波を受けいれずにせきとめるようなどんな偏狭さも、どんな気取も、すべて自分の声から除きさるように注意しながら、彼女の声のために書かれたように思われる文章、いわば彼女の感受性の音域に全部はいってしまう文章に、それが要求する自然な愛情のすべて、ゆたかなやさしさのすべてを傾けるのであった。彼女はそうした文章が必要とする調子にうまくその文章を乗せるために、その文章に先だって存在しその文章を作者の内部でととのえたが書かれた語には示されていない作者の心の格調といったものを見つけだすのであった、そうした格調のおかげで、彼女は読んでゆく途中に出てくる動詞の時制のどんな生硬さをもやわらげ、半過去と定過去には、善良さのなかにある甘美さ、愛情のなかにある憂愁をあたえ、おわろうとする文章をはじまろうとする文章のほうにみちびき、さまざまな音節の進度をあるときは早め、あるときはゆるめ、それらの音の長短が異なるにもかかわらず、それらを斉一な律動のなかに入れ、じつにありふれた散文に、感情のこもった、持続的な一種の生命を吹きこむのであった。
マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p70 井上究一郎訳・ちくま文庫