漢方学習ノート

漢方医学の魅力に取りつかれた小児科医です.学会やネットで得た情報や、最近読んだ本の感想を書き留めました(本棚3)。

「食べるって何?」ー食育の原点ー

2009年08月25日 20時24分35秒 | 食育
著者:原田信男、ちくまプリマー新書、発行:筑摩書房(2008年)

 本屋さんを覗くと「食育」関係本がたくさんあり、何を読んで良いのか迷ってしまいます。著者は料理評論家、教育者、等さまざま。そんな中で、大学教授であるこの著者の専門分野は「日本生活文化史・日本文化論」と異色の存在です。ありきたりの食育論から一歩踏み込んだ内容を期待して購入しました。

 まず「ハッ」とした導入部分・・・
「私たち自身が生命であると同時に、実は私たちが食べているものも生命なのです」
「生きることは、殺すことでもあるのです。それが食べること、生きることの本質なのです」

 「こんな視点もあるのか!」と目から鱗が落ちる事項が多々ありました。
 著者の専門分野にとどまらず、知識を縦横無尽に使って歴史上の「食」を紐解いていく流れは圧巻です。
 学校の歴史の授業もこんな切り口で教えてくれれば楽しくて頭にもよく入ったのに・・・と感じるほど。
 特にワクワクしながら読んだ箇所は「コメ文化とムギ文化の違い」で、日頃の疑問が氷解するようでした。
 また、肉食を否定してきた日本の裏の歴史も興味深く読みました。

 印象に残った事項を挙げてみます。

■ 食料を捨て過ぎる国、日本
 現在の日本では、デパート。小売店の総菜売り場や、ホテル・レストラン、されには家庭などから膨大な廃棄食料が出されています。だいたい25~30%の食べ物が、消費期限外のものも含めて棄てられています。
 仮に25%出としても、単純計算で3000万人分以上の食料を棄てていることになります。世界中には飢えに苦しむ大勢の人々がいるにもかかわらず、です。

■ 食物連鎖
 もともと酸素は植物による光合成における産業廃棄物のようなものでした。
 植物は太陽光エネルギーによって二酸化炭素と水から有機物を合成します(動物自体は有機物を生成できません)が、動物はその時に輩出される酸素を呼吸し、植物という有機物を食べて生きています。代わりに動物は呼吸活動やその死体の酸化によって二酸化炭素を発生させていますし、窒素などを排出物として大地に還元することで植物生長のための条件を整え、さらに肥料をも提供していることになります。

■ 地球環境と生命
 生命とは単なる自己増殖ではなく、地球環境中にある分子が、生命体の中の分子と絶えず入れ替わるという流れそのものなのです。
 地球の環境と生命は、同じ分子を共有しながら、それをお互いに入れ替えることで共存しています。つまり炭素や窒素や酸素を構成する分子が生命の体内組織の一部となって、環境との間を行ったり来たりしながら時間の流れの中での生命活動の継続こそが”生きている”ということの実態なのです。
 そうした物質の環境と生命との交換の流れが停止したとき、生命は死を迎えます。だから私たち人間という生命はタンパク質を食べ続けなければならないのです。

■ 牧畜・遊牧の技術
 人間が最初に家畜とした動物はイヌで、それは1万年ほど前のことであり、狩猟民がオオカミを馴化させたことに始まります。これはイヌを狩猟のための役蓄として利用したものですが、そのうちに動物そのものの肉や卵や乳、あるいは毛や皮の確保を目的として動物を育てる牧畜が始まります。紀元前7000年頃には中近東でヒツジやヤギの牧畜が、その後ウシやブタの馴化が農耕民によって行われ、今から5000年前にはウマやニワトリを家畜化するに至りました。
 動物たちが家畜化して人間への依存を高めると、その形態や機能に変化が起こり、大型化して生殖能力も高まります。乳を子どもから取り上げてヒト用に利用し、果てはホルスタインのような種も作り上げました。

■ 地域による農耕作物の違い
 最も古くは旧大陸のオリエント(チグリス・ユーフラテス川流域)で、ムギや豆・根菜類などを栽培する麦作農耕文化が始まりました。
 東南アジアにはタロイモやヤムイモなどのイモ類を栽培する根栽農耕文化が古い時代から始まりました。根菜は種子植物より栽培自体は比較的簡単ですが、根や茎には栄養分が多いため保存に適さず、それゆえ大きな文明を成立させることはありませんでした。
 アフリカ東部~インド中北部、中国黄河流域には雑穀農耕文化が生まれました。モロコシやキビ・アワ・ヒエなどの雑穀が中心でした。この雑穀農耕文化は中国南部で開花し、私たちになじみの深いコメの栽培を促し、稲作文化を生んだと考えられています。
 南アメリカではタピオカ(キャッサバ)やジャガイモなどイモ類を中心とした根栽農耕文化が、メキシコや中央アンデスにはトウモロコシを中心としてインゲンや落花生などの豆類を栽培する雑穀農耕文化が形成されました。

■ 食料の剰余が国家を生み戦争を生んだ
 農耕というシステムが発展すると確実に食料の剰余を蓄えることが可能になりました。社会的剰余により宗教・国家に従事する専門技術集団を組織することが可能となり、社会的分業を編成する国家というシステムが成立したのです。
 それとともに戦争が起こるようになりました。食料の剰余がない貧しい社会では大規模な争いは起きませんでしたが、豊かさを知った社会には犯罪・争いが起こりやすいという歴史の現実があります。

■ ムギとコメの文化の違い
 世界中で人口の約半分がコムギを主要食料としています。
 コメ(イネの種子の別称)はアフリカイネとアジアイネとがあり、現在では世界的にもアジアイネが主流となっています。さらにアジアイネはインディカ種とジャポニカ種があります。
 ムギもコメもその発育には水が必要で、いずれの耕地にも理想的には灌漑施設の存在が望ましい。
 比較的少ない水で育つムギは畑地でよいのですが、多くの水を必要とするコメには水を調節する水田という装置が望ましことになります。したがって、ムギは乾燥に強く比較的寒冷な地域でも栽培が可能ですが、逆にコメはとくに湿潤かつ温暖な場所を好みます。このため、イネの栽培地は東南アジアを中心としたモンスーン・アジア地帯にほぼ限定されますが、ムギは西アジアや中央アジア、ヨーロッパなどの乾燥がちな地域が対象となっています。
 現在の技術で最高の条件を与えてやれば、ムギは一粒が170倍になるのに対してコメは2000粒に増え、コメの方が生産力が高いことになります。

 コメは脱穀が簡単で、粒のまま粒食として食べることができます。
 一方、ムギ(とくにコムギ)は殻が離れにくいため、そのまますり潰し、これをふるいにかけることで果肉(実)と殻を分離させます。従って殻を覗いた段階ですでにムギは粉になってしまうのです。
 コムギ粉(オオムギ、ライムギも可)を水で練って一晩おくと発酵が起こります。これにパン種としてイースト菌をつけてやると、もれなく簡単にふっくらとしたパンを焼き上げることができます。

■ ムギ文化と牧畜
 ムギ文化は乾燥地帯に発達し、草原地帯でもありますから牧畜に適する風土でした。
 ムギ文化圏では「パン」+「ウシもしくはヒツジ肉」+「乳製品」というパターンになります。
 ムギ文化と牧畜の技術はこの地域の味覚大系を形成しました。日常の食事のみならず、調味料としても乳と肉が重要な役割を果たし、嗜好品(菓子・酒類)にも及びます。
 ビールはオオムギやビールムギを材料とし麦芽の発酵作用を利用したものでバビロニアやエジプトでは古くから飲まれていました。ウィスキーもオオムギの麦芽を用いた蒸留酒です。

■ コメ文化と漁労
 昔、日本の水田には多くの魚が生息していました(現在はダムやコンクリートの用水路、農薬の影響で消えました)。そこでは漁労も行われており、これを淡水漁業とか水田漁業とか呼んでいます。つまり水田農耕は水との関係から内陸での漁労とセットになっているのです。
 魚をコメにつけると乳酸発酵を促しておいしくなりますが、これが本来の寿司の原理です。江戸前寿司はいわばインスタント食品で、発行させる代わりにご飯に酢を加えることで発酵させたことにしてしまうファストフードと言えます。
 魚に塩をかけて圧力を加えるとアミノ酸発酵が起こります。これを調味料としたのが魚醤で、塩辛やくさやもこの仲間です。日本の味噌や醤油は大豆を魚の代わりに用いて作ったもので、これらを穀醤といいます。アジアでは魚醤・穀醤の両方が使われていますが、日本では穀醤が優勢になり現在に至っています。ベトナムのニョクマム、タイのナンプラー、インドネシアのサンバルは魚醤の代表的なものです。
 コメ文化圏ではコメと魚がセットになり、これに魚醤・穀醤という調味料を加えたものが味覚体系の基本になります。和菓子のほとんどがコメ粉を原料にしていますし、酒もコメが原料です。さらに動物としてはニワトリとブタが加わりました。

※ 日本の美称は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」で、豊かにコメが実る国を意味します。天皇家の祖神とされる天照大神は農耕の神・太陽神であると同時に、天界から稲種つまりコメを伝えた神でもあるのです。現在でも天皇の祭祀にはコメに関するものが多々あります(新嘗祭、大嘗祭等)。

■ アジアの中の日本の食
 アジアにおける日本の食文化の特徴はブタ肉の欠落です。
 統一国家ができる頃、なぜか公的に肉食が否定されるようになりました。675年(天武天皇4年)には「肉食禁止令」が出されています。その内容は、今後狩猟や漁労を行うことを止めて、4月から9月まではウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリの肉を食べてはいけない、というものでした。もっとも、日本人が食べてきた肉はイノシシ・シカ・カモシカでしたから、肉食を完全に否定したわけではなく、これは稲作に精を出すように仕向けた法律と見ることもできます。
 弥生時代以来、2000年以上も日本ではコメ作りが行われてきましたが、ほぼ誰もが白いコメだけのご飯を腹一杯食べられるようになったのは、実は1960年代のことです。しかしそれ以降、皮肉なことに食生活は西洋化しコメの消費は低下の一途をたどることになります。

■ 親鸞の言う「悪人」は犯罪者ではなく肉食民を指した
 肉食を国として否定してきた日本ですが、社会の下層にまでコメは行き渡らず、肉食せざるを得ない下層民が存在しました。このことをよく理解し、肉食という罪悪と穢れを背負った下層民達を救おうとしたのが法然や親鸞など鎌倉新仏教の創始者達でした。
 法然は、下層農民達に向かって、肉を食べるのはやむを得ないことだと説いています。
 親鸞は、当時、狩猟や漁労をする人々が悪人と見なされていたのに対し、そうしなければ生きていけない悪人こそが救われるべきだと主張しました。
 これが弟子・唯円が「歎異抄」で伝えた親鸞の「悪人正機説」という思想です。つまり、殺傷をする必要のない前任が極楽往生できるならば、肉食をせざるを得ない悪人が往生できないはずがない、と下層民達に教えたのです。

■ 肉食の復権
 江戸時代はコメを経済の中心とした「石高制」が確立しました。このことにより、狩猟・漁労は”卑しい”職業と見なされ、動物の処理に携わる人々を理不尽にも差別するような社会が成立したのです。
 この呪縛を解いたのは1871年の天皇による「肉食再開宣言」です。西欧列強との交流を行うためには肉を用いた養殖を避けることができなかったという時代の要求がその理由ですね。
 しかし長い歴史はそう簡単に方向転換できませんでした。栄養学的に摂取タンパク質比率で畜産物が水産物を上回ったのは昭和50年(1975年)ですし、消費量で魚と肉が逆転するのは意外に遅く昭和63年(1988年)のことなのです。

■ 「一味」~同じものを食べる
 一味は中世に使われた「一味同心」に由来し、「同じものを食べる、つまり一つの味を皆で確かめることによって、心を同じくして物事に立ち向かう」ことを意味します。
 共食という行為は人間相互の関係を緊密にするために非常に大きな役割を果たしています。人間は一人では生きられず、必ず家族や組織という集団で、それぞれに分業を受け持ちながら生活していく必要があるからです。
 ところが現代社会はあまりに分業化が進み過ぎたために「孤食」という現象を生み出しました。これは歴史的に見て極めて異例な行動です。
 しかし人間は本来的に共食をする動物であり、その中で、つまり家庭で子ども達は「食べる」という行為を学んでいくのです。一人前になった後も、共に食べながら仲間や恋人と心を通わせ合っていくのです。
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