検察組織というものは実態が見えにくいもののように思われている。
一番、検察の実態を知っているのは、内部にいた人間であるから、元検事で、検事を辞めた後、弁護士をしている人である。そういう人が、検察の内部事情を全て書いた本を書けば、検察の内部事情がわかる。
しかし類似したもので、検察とは、どういうものかを推測することは出来る。類似したものとは、警察である。(他にもあるだろうが)公務員で世の治安を守る仕事、という点で、検察と警察は同じである。
さて。警察の交通課を考えてみる。警察というものは、そもそも仕事が無くて暇な方がいいのである。警察は消防署と同じで、暇な方がいいのである。警察が暇であるということは、日本が犯罪が少ない平和な国であることを意味するからだ。アメリカと違い銃の所持が認められていない日本は、そもそも犯罪の少ない安心な国である。外国人が安心して海外旅行に行ける国の一つは日本である。
しかし。警察官や警察組織としては、仕事が無いというのは、退屈であり、苦痛でさえある。警察官のなかには、日本の犯罪をなくしてやろうという強い正義感と、やりがいをもってなった人もいるだろう。そもそも人間は働きたいという労働の欲求を持っているのが普通であり自然である。労働したい欲求は人間の本能である。
しかし。事件が無くあまりにも暇だと、警察は何かしたくなってイライラしてくる。そのため、暇があまり長く続くと、「よし。今日はいっちょ、ネズミ捕りでもやるか」と、車がスピードを出してしまいやすい所に行って、身を潜め、スピードオーバーしている車を捕まえて罰する。これによって警察は、仕事をした、犯罪者を取り締まった、という仕事の充実感を味わって、気分よく、警察に帰ってくる。ちょうど漁師が漁に出て魚を大量に捕った満足感と同じである。そして、実際、違反者を取り締まったという事実は間違いない。さらに、違反者は、違反者には違いないから、悪いヤツを懲らしめてやった、ざまあみろ、という皮肉な満足感も感じている。
しかし、現実には、ネズミ捕りは、実質的には、犯罪者を、ことさら作り出している行為に過ぎない。この心理は検察でも同じである。検察も暇な方がいいのである。しかし、あまりにも暇だと、人間の労働欲求本能からイライラしてくる。何かしたくなってくる。しかし、何かするといっても、検察の仕事は、不正を行った人物を立件するという事である。他に仕事は無い。だから、暇があまりにも続くと、ちょっとでも怪しそうな人物には、立件する根拠が不十分であっても無理矢理、事件をつくって、労働欲求本能を満たそうとしているのである。
そして、社会的に地位のある人を、この世の地獄におとしめる行為は、愉快なものである。そして、これを国民は喜ぶ。新聞も、はでなニュースが無いと商売あがったり、である。ここで、マスコミと検察の癒着が出来上がる。
国民も、検察は総理大臣までも手加減せず検挙する、ゆるぎない正義感を持った組織、人々と尊敬する。国民から尊敬されると、検察は、最高の快感と誇りを味わえる。
しかし。この快感と誇りを得たいという気持ちが、本来の、悪を取り締まる、という意識から、離れていき、悪くないものでも、大物を検挙していれば、オレ達は、国民から尊敬され、また、根拠など不十分でも、大物を検挙することが、オレ達の使命なんだという感覚に変わっていくのである。そして習慣というものは慢性化すると感覚が鈍磨してしまう。だから、冤罪の一つや二つ、作ったって、かまやしない、という心理になってしまうのである。
そして、これは、医者や学者などのプライドの高い人間の心理と共通している面がある。医者は誤診すると、自分は診断能力の無いヤブ医者という目で世間から見られる。これは非常な恥である。なんとしても医者はそれを避けたい。だから、誤診してしまったた、と分かっていても強引に自分の診断を正しいと押し通す。検察も見立て違いばかりしていると、国民から、アホと見なされ信頼されなくなる。だから冤罪と、途中で気づいても、医者の誤診と同じように、強引に押し通してしまうのである。
医者の誤診に関しては、開業医なら、そんなに噂は広まらないし、社会的地位もそんなに高くないから、正直に、患者に「誤診しました」と言いやすい。しかし、大学教授など、社会的地位が高い人だと、自分の名誉が傷つくから、正直には、なれにくい。検察もそれと同じで、社会的地位が高いから、自分の能力のプライドを守るためウソをつく。
又
検察は信頼できない組織である、と国民に思われてはならない、という使命感的なものを検察は持ってしまっているから、冤罪とわかっていても、無実の人間を犯罪者にしても罪悪感を感じないのである。
一番、検察の実態を知っているのは、内部にいた人間であるから、元検事で、検事を辞めた後、弁護士をしている人である。そういう人が、検察の内部事情を全て書いた本を書けば、検察の内部事情がわかる。
しかし類似したもので、検察とは、どういうものかを推測することは出来る。類似したものとは、警察である。(他にもあるだろうが)公務員で世の治安を守る仕事、という点で、検察と警察は同じである。
さて。警察の交通課を考えてみる。警察というものは、そもそも仕事が無くて暇な方がいいのである。警察は消防署と同じで、暇な方がいいのである。警察が暇であるということは、日本が犯罪が少ない平和な国であることを意味するからだ。アメリカと違い銃の所持が認められていない日本は、そもそも犯罪の少ない安心な国である。外国人が安心して海外旅行に行ける国の一つは日本である。
しかし。警察官や警察組織としては、仕事が無いというのは、退屈であり、苦痛でさえある。警察官のなかには、日本の犯罪をなくしてやろうという強い正義感と、やりがいをもってなった人もいるだろう。そもそも人間は働きたいという労働の欲求を持っているのが普通であり自然である。労働したい欲求は人間の本能である。
しかし。事件が無くあまりにも暇だと、警察は何かしたくなってイライラしてくる。そのため、暇があまり長く続くと、「よし。今日はいっちょ、ネズミ捕りでもやるか」と、車がスピードを出してしまいやすい所に行って、身を潜め、スピードオーバーしている車を捕まえて罰する。これによって警察は、仕事をした、犯罪者を取り締まった、という仕事の充実感を味わって、気分よく、警察に帰ってくる。ちょうど漁師が漁に出て魚を大量に捕った満足感と同じである。そして、実際、違反者を取り締まったという事実は間違いない。さらに、違反者は、違反者には違いないから、悪いヤツを懲らしめてやった、ざまあみろ、という皮肉な満足感も感じている。
しかし、現実には、ネズミ捕りは、実質的には、犯罪者を、ことさら作り出している行為に過ぎない。この心理は検察でも同じである。検察も暇な方がいいのである。しかし、あまりにも暇だと、人間の労働欲求本能からイライラしてくる。何かしたくなってくる。しかし、何かするといっても、検察の仕事は、不正を行った人物を立件するという事である。他に仕事は無い。だから、暇があまりにも続くと、ちょっとでも怪しそうな人物には、立件する根拠が不十分であっても無理矢理、事件をつくって、労働欲求本能を満たそうとしているのである。
そして、社会的に地位のある人を、この世の地獄におとしめる行為は、愉快なものである。そして、これを国民は喜ぶ。新聞も、はでなニュースが無いと商売あがったり、である。ここで、マスコミと検察の癒着が出来上がる。
国民も、検察は総理大臣までも手加減せず検挙する、ゆるぎない正義感を持った組織、人々と尊敬する。国民から尊敬されると、検察は、最高の快感と誇りを味わえる。
しかし。この快感と誇りを得たいという気持ちが、本来の、悪を取り締まる、という意識から、離れていき、悪くないものでも、大物を検挙していれば、オレ達は、国民から尊敬され、また、根拠など不十分でも、大物を検挙することが、オレ達の使命なんだという感覚に変わっていくのである。そして習慣というものは慢性化すると感覚が鈍磨してしまう。だから、冤罪の一つや二つ、作ったって、かまやしない、という心理になってしまうのである。
そして、これは、医者や学者などのプライドの高い人間の心理と共通している面がある。医者は誤診すると、自分は診断能力の無いヤブ医者という目で世間から見られる。これは非常な恥である。なんとしても医者はそれを避けたい。だから、誤診してしまったた、と分かっていても強引に自分の診断を正しいと押し通す。検察も見立て違いばかりしていると、国民から、アホと見なされ信頼されなくなる。だから冤罪と、途中で気づいても、医者の誤診と同じように、強引に押し通してしまうのである。
医者の誤診に関しては、開業医なら、そんなに噂は広まらないし、社会的地位もそんなに高くないから、正直に、患者に「誤診しました」と言いやすい。しかし、大学教授など、社会的地位が高い人だと、自分の名誉が傷つくから、正直には、なれにくい。検察もそれと同じで、社会的地位が高いから、自分の能力のプライドを守るためウソをつく。
又
検察は信頼できない組織である、と国民に思われてはならない、という使命感的なものを検察は持ってしまっているから、冤罪とわかっていても、無実の人間を犯罪者にしても罪悪感を感じないのである。