小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

サド哲学に対する反論(人間性の開放の危険さについて)

2018-06-09 02:47:37 | 考察文
サド哲学に対する反論(人間性の開放の危険さについて)。

(これは、以前書いたメモ。後日もっと、ちゃんと、書きます)

サド哲学。人間性の解放。
文学者・哲学者の、サドは、人間性の解放が、いかに危険か、ということを、小説で説いている。サドの系譜につながる、バタイユも、それを小説や評論で書いている。
しかし、僕は、「人間性の解放が、いかに危険か」、という命題に、そもそも矛盾を感じる。
三島由紀夫が、「文化防衛論」、と、題した、You-Tube、で、早稲田の学生にそれを説いている。一見、何となく、聞いていると、もっともだ、と思ってしやすい。
しかし、僕は、三島由紀夫の考えに、異論を唱える。
「人間性の解放が、いかに危険か」という、テーゼは、「国家や、社会という、秩序を、とっぱらってしまった時、人間は、どう行動するか」、という問題と同じだと思う。
つまり、「ある一定の数の人間の集団をアナーキズム(自由奔放)の状態にして、行動することを許したら、どうなるか?」と言ってもいい。

僕は、人間性というものは、年齢的には、非常に早期に形成される、と思っている。
し、実際、そうである。
子供(幼稚園児)は何と礼儀正しいことか。
僕は、人間性というものは、社会(で守るべきルールの自覚)によって、形成されるのではなく、親子関係によって、形成されるものである、と思っている。
第一、人間性が形成される3歳から4歳ころの子供、は、社会とか、国家とかの概念なんて、わからない。し、幼稚園という集団にも、属していない。
人間性は、親子関係によって形成されると僕は思っている。
(特に、母親)
子供は、母親から、自然と、言語を覚える。言語を身につける、ということが、すでにもう人間性を90%以上、獲得した、といってもいいほどである。ぜならな、言語を獲得した、ということは、母親に限らず、全ての人間と、会話できるからである。
しかし、言語を獲得した、だけでは、まだ、人間性が、100%、形成された、とは、いえない。なぜなら、その程度の、子供(自分の思いを伝えられるようになっただけの人間)は、自分の欲求だけを、母親に訴えるだけで、他人を慮ったり、社会のルールを守らなくては、という意識もない。
母親との関係は良好で、幼い子供は、母親を愛する。
しかし、すべて、自分の、やりたい欲求を訴えるだけで、社会的な人間とはいえない。
しかし、さらに、成長するにつれ、ワガママを言うと、母親から注意される。
していいことと、してはいけないこと、を、日常の親子関係の中から、経験的に知っていく。
もちろん、経験的に知っていくだけではなく、その理由も、わかるようになる。
こうして、幼稚園に入るまでには、もう、人間性というものが形成される、と、僕は思っている。
幼稚園の子供は、もう、すでに、社会的人間である。
社会人としての、ルールを知っている。
礼儀を知っている。
自我にも目覚めている。
だから、幼稚園に入って、好きな女の子を見ても、いきなり、抱きつく、ということもしないし、(してはならない、という社会的ルールを知っているから)。
他人の物を、横取りする、ということも、しない。(これも、社会的ルールを獲得しているからである)

それ以前の、母親との会話で、言語を身につけただけで、「あれして欲しい。これして欲しい」、だけしか、訴えられない、ほんの幼い幼児は、まだ、人間性を獲得していない、と僕は考える。つまり、言語と、自分の欲求だけの人間。である。

そういう幼児を、体だけ大きくして、そういう人間たちを集めて、アナーキズムの集団にしたら、サドや、バタイユの、言う所の、完全に、人間性が解放された、行為が行われる、可能性は非常に強いと思う。
つまり、男は、好きな女をつかまえ、女が嫌がっても、女に好きなことをし、また、他人の物を平気で、奪うだろう。
しかし。
僕は、ここに、サドやバタイユの矛盾を感じるのである。
なぜなら、好き勝手なことをしている、彼らは、まだ、「人間性を身につけていない」のだから。
だから、こういう仮説の実験が、仮に成功したとしても、それは、
「人間性の解放がいかに危険か」、ということの証明には、なっていない。と僕は考える。
なぜなら、彼らは、(繰り返し言うが)、「まだ、人間性を獲得していない」のだから。
つまり。
「人間性をまだ獲得していない、人間に、人間性を完全に解放させる事がいかに危険か」
という、のは、日本語の文章として、おかしいのは、誰でも、わかると思う。

さて。
それでは。
本題に入るとしよう。
もっと成長して、母親から、しつけ、されて、していいことと、していけないこと、の分別がわかるようになった、(つまり、社会的ルールを知った)、つまり、人間性を獲得した、人間(子供でも大人でも)、を集めて、自由に好きなことをしていいよ、という、アナーキズムの集団をつくったら、どうなるか?
サドやバタイユや、三島由紀夫は、人間性の解放を危険視しているから、そういう集団では、男が女を犯し、男達が、女を輪姦し、人殺しが起き、略奪が起き、メチャクチャな集団になる、と、思っているようだが。
僕は、そう思わない。
確かに、そういう集団が出来た、初期には、強姦も、輪姦も、殺人も、略奪も、かなり起こるだろう。
(今、思いついたが、食べ物、と、住居、と、衣服、のある無人島に、多くの人間が、流れ着いた場合を考えてみればいい)
しかし、人間には、良心の無い人間だけではない。
人間には、良心のある人間もいれば、おとなしい人間、物事を深く考える人間もいる。
そういう人間が、好き勝手なことをしていたら、この集団は、下手をすると、全員、滅んで、死んでしまうかもしれない、という危惧をもつ、と僕は思う。
そして、信頼できる人間を、リーダーにし、彼に、集団が滅びないよう、守るべきルールがつくられる、だろう。
しかし、時間が経って、リーダーが好き勝手なことをするようになったら、また、無秩序の社会になり、そして、また、新しいリーダーが選ばれたりするだろう。

それは、歴史が証明している。
人間は、原始の頃は、国家も法もない、無秩序な人間の集団の集まり、だった。
しかし、それで、個人個人が、好き勝手なことを、していたら、全員、死んでしまう、という恐怖感から、人間は、ルールというものを思いついた。

十五少年漂流記。は、フィクションの小説だが、実際に、ああいうことは、起こりうることである。あの場合、15人の少年、少女は、まさしく、法も社会も無い、(アナーキズム)の集団だが、彼らが、自分の欲求のまま、行動するはずがない。そんなことをしたら、全員、死んでしまうからだ。

ソドムの市、でも、ゴモラの市、でも、ルールはあったはずだ。
なぜなら、ソドムの市、でも、ゴモラの市、でも、人々は、好き勝手なことだけを、していたはずはない。
そんなことをしていれば、食料の生産も行われなければ、住居も無い、(大工という職人がいないのだから)
だから、そんな社会は、すぐに滅びてしまうはずだ。


世の中の、全てのことは、正規分布に従う。
良い人もいれば、悪い人もいる。

サドの人間認識の誤りは、人間を、みな、同一、と見なしている所にある。
しかし、人間性の悪の一面を、しっかり見て、それを世間に訴えたサドの功績は大きいと思うが。

僕は、人間性を知るには、多数の人間の、寄せ集め、の集団より、個人を見た方がわかりやすいと思う。
独裁者の国家の、元首が何をするか?
それは、北朝鮮を見れば、一目瞭然である。
独裁者は、国家に反抗する人間を殺し、元首は、たらふく食い放題。
独裁者の性癖にもよるが、快楽殺人を楽しんでいた独裁者もいるだろう。
アラビアンナイトは、おとぎ話だか、王様は、一日に、一人の女を殺していた。
ああいうことは、古代の暴君、ネロ、その他、数えきれないほどの無数の暴君によって、平然と行われていた。



人間性について、書いているうちに、色々と、書きたいことが、出てきた。



しかし、とりあえず、サド哲学に関して結論を言うならば。

「サドにとっての、「人間性の開放の危険」、という思想は、サドの好みの入った、極端に誇張された、サドにとってのユートピア的仮想思想である。しかし、それには、確かに、人間性に関する、間違いない真理の一面を含んでいる。」

と言えると思う。



僕は、人間性は、どんなに汚くても、恥を知っている、という感覚があることが、人間性の開放に、ブレーキをかけている、と思う。

なので、安倍晋三のような、「恥知らず」、な人間にこそ、人間性の完全な開放の危険さ、を、まざまざと、見ている思いがする。

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