三島由紀夫の数多い作品の中でもっとも私が最も好きなのは、「青の時代」である。これは、戦後に起きた、「光クラブ事件」の山崎晃嗣をモデルとして、かなり事実に忠実に書いてある。再読三読に耐える。なぜ私がこの小説を好きなのかといえば、この小説は、一人の人間の生まれてから死ぬまでの物語であるからだ。私はそういう小説が好きである。それと、長編ではあるけれど、短かめである。文庫本で180ページである。私は、あまりにも長い長編は好きではない。それと。これは、事実をフィクション化したものだから、込み入った奇抜なストーリーのお話ではない。その点も好きである。それと、三島由紀夫は、この小説で、ふんだんにアフォリズム、衒学を盛り込んでいる。アフォリズムの中に埋め込まれた小説である。それは詩的ではない。そもそも、この小説の性格からして、詩的であったら、かえっておかしい。三島由紀夫自身は、あまりにも衒学をひけらかしていることに対してか、俗悪な文体とまで、自戒している。しかし作者の意図と読者の受け止めは、全く食い違うこともある。(少なくとも私には)私は、三島が思考の限りを尽くして書いた、アフォリズムや衒学の文章こそが好きである。三島は小説で読者に「俺はこんなに思考が深く、知識があるんだぞ」と読者に挑戦しているきらいがある。それをも三島は、俗悪な文体、と自戒した理由だろう。しかし、その挑戦がまた面白いのである。小説というものは、読者は作者の思いとは違う見方で読まれ、それが成功することもあるのだ。
織田信長は、討ち取った敵大将の首を髑髏にして金で塗り、それを酒肴にして勝利を祝ったといわれる。単に、その事実だけを思うと、非常に残酷趣味に見える。実際の所はわからないが、私にはそれは単なる残酷趣味だけではないように思える。なぜなら、信長ほど頭のいい武将はいない。第一、そんなことをしては、下臣達に、残酷極まりない人間と思われてしまう。大将は下臣達の心をなんとしても自分につなぎとめておこうとする。残酷すぎる人間と思われては、下臣達に、恐がられ、ちょっとこの大将には、ついていけず離れたいと思われかねないデメリットもある。大将は、包容力のある人間を演じていた方が得なのだ。頭のいい信長のことだから、そんなことは十分、理解しているはずだ。では、なぜ、そんなことをしたのか。私には信長という人間は、自分や他人、つまり人間の心の欺瞞というものを嫌っていて、それをぶち壊したい、という欲求、自分にウソをつきたくない、自分の心を直視したい、という気持ちから、そういう行為をしたように感じられて仕方がない。実際のところはどうだったのかは、わからないが。
ニーチェも「若い時は自分の悪を直視せよ」ということを言っている。信長の気持ちはそれだったのではないだろうか。第一、信長は残酷な性格だけではない。信長は損得勘定だけで行動する狡猾な人間ではなかった。斉藤道三を救おうとしたのも、純粋な思いやりからである。小ざかしい計算をする人間ではなかった。ともかく度量が大きかった。
子供の頃、ガキ大将として、野原を駆け巡って遊んでいたのも、歴史家は、戦術の研究や地勢研究のため、などと解釈している。信長ほどの頭のいい人間が、うつけた遊びをしていたのは、そういう深い意味があったと解釈するほかない、と見ているようだ。しかし、それも違うと思う。信長は子供の頃から度肝がすわっていた。これは。世の傑出人の中には、子供の頃から豪放な性格のため、やりたいことをやり、おおいに遊んだ、というタイプの人間と同じであると私には思える。子供の頃、遊ばないで、真剣に藩のことを考えるタイプの人間は、いわば、堅実で、面白みがない、損得勘定だけで行動する、現代でいえば青白いガリ勉タイプの人間ともいえる。そういう人間は肝がすわっていないことが多いから天下はとれないことが多い。
ニーチェも「若い時は自分の悪を直視せよ」ということを言っている。信長の気持ちはそれだったのではないだろうか。第一、信長は残酷な性格だけではない。信長は損得勘定だけで行動する狡猾な人間ではなかった。斉藤道三を救おうとしたのも、純粋な思いやりからである。小ざかしい計算をする人間ではなかった。ともかく度量が大きかった。
子供の頃、ガキ大将として、野原を駆け巡って遊んでいたのも、歴史家は、戦術の研究や地勢研究のため、などと解釈している。信長ほどの頭のいい人間が、うつけた遊びをしていたのは、そういう深い意味があったと解釈するほかない、と見ているようだ。しかし、それも違うと思う。信長は子供の頃から度肝がすわっていた。これは。世の傑出人の中には、子供の頃から豪放な性格のため、やりたいことをやり、おおいに遊んだ、というタイプの人間と同じであると私には思える。子供の頃、遊ばないで、真剣に藩のことを考えるタイプの人間は、いわば、堅実で、面白みがない、損得勘定だけで行動する、現代でいえば青白いガリ勉タイプの人間ともいえる。そういう人間は肝がすわっていないことが多いから天下はとれないことが多い。
さて。ボクサーのグローブは単に素手で相手を殴ると危険だからという理由ではない。他にも理由がある。一つはボクサー自信の手が怪我しないように守るため。である。しかしもう一つ理由がある。それは、ボクサーは素手で殴るより、グローブをつけて殴った方が、大きな力を出せるからである。
相手に与えるエネルギーは、力積=F(力の大きさ)×T(力のかかっている時間)、である。ボクシングではナックルパートで打つ。つまり面で打つ。グローブをはめることによって、それがクッションになるから、T(力のかかっている時間)が長くなるのだ。だから、総量の力蹟も大きくなる。グローブをはめない素手で殴ると、痛みの度合いは格段に大きくなる。しかしグローブのクッションがなくなるから、T(力のかかっている時間)が、少し減ってしまうから、力積が小さくなり、一瞬の痛いパンチとなり、グローブをつけた時より力が少し減ってしまう。
一方、空手のパンチは、面ではなく、人差し指の中手骨の骨頭で打つ。空手のパンチは元々、固い物体を破壊するためのパンチである。つまり点で打つ。固い物体を壊す時、同じ力なら当たる面積は小さいほどいい。針では小さな力でも物体を刺し抜けるが、トンカチでは、物体を刺し抜くことは出来ない。
これは空手の蹴りでよくわかることであるが、空手は虎趾で、相手の顔面という固い物を蹴る時には、強い力を発揮できるから、クリーンヒットすると一撃必殺となりうる。しかし相手の太腿や脇腹など、柔らかい所を蹴るには向かないから、一撃必殺とはならない。ムエタイでは、元々、固い物体を壊すのではなく、いかに相手に与えるダメージの総量を大きくするか、ということを考えて作られた蹴りだから、力積は空手の蹴りより大きいから、実線では、一番有効な蹴り方なのである。だから、空手の試合では、空手独自の蹴りではなく、ムエタイの蹴り方の要素を取り入れなくてはならないのである。
相手に与えるエネルギーは、力積=F(力の大きさ)×T(力のかかっている時間)、である。ボクシングではナックルパートで打つ。つまり面で打つ。グローブをはめることによって、それがクッションになるから、T(力のかかっている時間)が長くなるのだ。だから、総量の力蹟も大きくなる。グローブをはめない素手で殴ると、痛みの度合いは格段に大きくなる。しかしグローブのクッションがなくなるから、T(力のかかっている時間)が、少し減ってしまうから、力積が小さくなり、一瞬の痛いパンチとなり、グローブをつけた時より力が少し減ってしまう。
一方、空手のパンチは、面ではなく、人差し指の中手骨の骨頭で打つ。空手のパンチは元々、固い物体を破壊するためのパンチである。つまり点で打つ。固い物体を壊す時、同じ力なら当たる面積は小さいほどいい。針では小さな力でも物体を刺し抜けるが、トンカチでは、物体を刺し抜くことは出来ない。
これは空手の蹴りでよくわかることであるが、空手は虎趾で、相手の顔面という固い物を蹴る時には、強い力を発揮できるから、クリーンヒットすると一撃必殺となりうる。しかし相手の太腿や脇腹など、柔らかい所を蹴るには向かないから、一撃必殺とはならない。ムエタイでは、元々、固い物体を壊すのではなく、いかに相手に与えるダメージの総量を大きくするか、ということを考えて作られた蹴りだから、力積は空手の蹴りより大きいから、実線では、一番有効な蹴り方なのである。だから、空手の試合では、空手独自の蹴りではなく、ムエタイの蹴り方の要素を取り入れなくてはならないのである。