馬場あき子の旅の歌32(2010年10月実施)
【砂の大地】『飛天の道』(2000年刊)189頁~
参加者: N・I、Y・I、T・S、曽我亮子、鹿取未放
レポーター: N・I 司会とまとめ:鹿取 未放
244 張騫(ちやうけん)のききし砂漠の夜想曲しんしんと人麿以前の孤独
(当日意見)
★沙漠の音がノクターンに聞こえる。(曽我)
(まとめ)
この歌は一転して、紀元前の話である。どうして国も違い、時代も違う人麿(7~8世紀の飛鳥時代の人)が張騫に並べられているのだろうか。張騫(紀元前114年没)は中国前漢時代の政治家で、武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらしたとされている。漢は大月氏と組んで匈奴の挟撃作戦を狙って張騫らを使節団として送ったが、張騫は匈奴に捕らえられ、その後十余年間に渡って拘留された。匈奴は張騫に妻を与え、その間に子供も出来たが、張騫は脱出に成功する。月氏の王に漢との同盟を説いたが、月氏の王はこれを受け入れなかった。その上帰路またしても匈奴に囚われた。しかし今回は匈奴の後継者争いの隙をついて1年余りで脱出、紀元前126年に遂に漢へと帰還した。張騫の死後、張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に対して有利な立場を築くようになる。
ところで張騫と人麿の共通項といえば、旅であろうか。人麿は役人として各地を旅し、石見の国で死んだと伝えられている。もちろん人麿の時代の旅も命がけだっただろうが、敵国を通って同盟を説く為に沙漠の中の、まさに道無き道を旅した張騫の危険さとは比べようもない。張騫の往来によって道ができたと言われるほどである。囚われの身の時も当然だが、道無き道を行くときにも、張騫は常に命の危険にさらされていたはずだ。そうして、たぶん張騫は人麿のようには歌を(詩を)詠まなかったであろう。すると張騫の聞いた沙漠の夜想曲とは何であったろうか。最初は匈奴に捕らえられていた時に、囚われの身で聞いた敵国匈奴の歌だろうと思っていたが、242番歌の「しづしづと沙漠広がるまひるまの砂の音ちさく笑ふ声する」などからみると、沙漠そのものの奏でるもの悲しい音のことかもしれない。また、人麿と並べられたところをみると、己の中に歌を持たない張騫は、歌を持っていた人麿よりずっと孤独だったろうというのだろうか。ここで馬場は、砂漠化が進む現代のシルクロードの国々を旅しつつ、己が言葉を持つことの意味、歌を持つことの意味を自問していたのだろうか。(鹿取)
(後日意見)
★曽我さんのいう通り、砂の鳴る音を聞いていたのだろう。(11月・藤本)
★鹿取さんの「まとめ」にある異民族の匈奴の歌を聞いていたと解釈したい。張騫詩文は伝わって
いないので、作らなかったと考えていいだろう。たとえば『三国志』では劉備だけが詩を作らな
かったと書かれている。(11月・実之)
(2016年10月追記)
余談だが、私の持っている『鬼の研究』(1977年度版)の扉に著者馬場あき子の署名があって「晩菊のくさむら冬に耐えておりやすらわぬかなことばをもてば」の歌が書かれている。(鹿取)
【砂の大地】『飛天の道』(2000年刊)189頁~
参加者: N・I、Y・I、T・S、曽我亮子、鹿取未放
レポーター: N・I 司会とまとめ:鹿取 未放
244 張騫(ちやうけん)のききし砂漠の夜想曲しんしんと人麿以前の孤独
(当日意見)
★沙漠の音がノクターンに聞こえる。(曽我)
(まとめ)
この歌は一転して、紀元前の話である。どうして国も違い、時代も違う人麿(7~8世紀の飛鳥時代の人)が張騫に並べられているのだろうか。張騫(紀元前114年没)は中国前漢時代の政治家で、武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらしたとされている。漢は大月氏と組んで匈奴の挟撃作戦を狙って張騫らを使節団として送ったが、張騫は匈奴に捕らえられ、その後十余年間に渡って拘留された。匈奴は張騫に妻を与え、その間に子供も出来たが、張騫は脱出に成功する。月氏の王に漢との同盟を説いたが、月氏の王はこれを受け入れなかった。その上帰路またしても匈奴に囚われた。しかし今回は匈奴の後継者争いの隙をついて1年余りで脱出、紀元前126年に遂に漢へと帰還した。張騫の死後、張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に対して有利な立場を築くようになる。
ところで張騫と人麿の共通項といえば、旅であろうか。人麿は役人として各地を旅し、石見の国で死んだと伝えられている。もちろん人麿の時代の旅も命がけだっただろうが、敵国を通って同盟を説く為に沙漠の中の、まさに道無き道を旅した張騫の危険さとは比べようもない。張騫の往来によって道ができたと言われるほどである。囚われの身の時も当然だが、道無き道を行くときにも、張騫は常に命の危険にさらされていたはずだ。そうして、たぶん張騫は人麿のようには歌を(詩を)詠まなかったであろう。すると張騫の聞いた沙漠の夜想曲とは何であったろうか。最初は匈奴に捕らえられていた時に、囚われの身で聞いた敵国匈奴の歌だろうと思っていたが、242番歌の「しづしづと沙漠広がるまひるまの砂の音ちさく笑ふ声する」などからみると、沙漠そのものの奏でるもの悲しい音のことかもしれない。また、人麿と並べられたところをみると、己の中に歌を持たない張騫は、歌を持っていた人麿よりずっと孤独だったろうというのだろうか。ここで馬場は、砂漠化が進む現代のシルクロードの国々を旅しつつ、己が言葉を持つことの意味、歌を持つことの意味を自問していたのだろうか。(鹿取)
(後日意見)
★曽我さんのいう通り、砂の鳴る音を聞いていたのだろう。(11月・藤本)
★鹿取さんの「まとめ」にある異民族の匈奴の歌を聞いていたと解釈したい。張騫詩文は伝わって
いないので、作らなかったと考えていいだろう。たとえば『三国志』では劉備だけが詩を作らな
かったと書かれている。(11月・実之)
(2016年10月追記)
余談だが、私の持っている『鬼の研究』(1977年度版)の扉に著者馬場あき子の署名があって「晩菊のくさむら冬に耐えておりやすらわぬかなことばをもてば」の歌が書かれている。(鹿取)