かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 140

2021-01-06 20:50:51 | 短歌の鑑賞
   追加版 渡辺松男研究 16   2014年6月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:曽我 亮子   司会と記録:鹿取 未放

※ 末尾の(後日意見)を追加しました。

140 根が地下で無数の口をあけているせつなさよ明けてさやぐさみどり

        (紙上意見)
 たぶん根は昼夜を問わず二十四時間、無数の根の先からたえまなく水を吸い続ける。それを「無数の口をあけている」と表現するが、それを思えば切ない。しかし、そのおかげで翌朝には、爽やかなさみどりの葉がさやぐのである。(鈴木)
 

        (発言)      
★「根が地下で無数の口をあけている」が上手。私だったら水を吸っているとしか言えない。「切
 なさよ」でつなぐところが良い。(慧子)
★木が生きるため「根が地下で無数の口をあけている」その切ない気分はよくわかる。ただ、鈴木
 さんのように根が水を吸っているおかげで……というほどには因果関係の接続を思わないけど。
 もっと微妙な接続に思える。それから上の句ではニーチェとの繋がりとか、原罪とか存在悪と言
 ったら大げさかもしれないけど、生の根源のようなことを考えさせられる。(鹿取)

      (まとめ)
 『寒気氾濫』の小さな批評会で大井学さんが話された資料に、この歌をニーチェとの関連で読んでいるところがあるので引用させていただく。(鹿取)

   ……この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋がるもので
  あることが解る。「高みへ、明るみへ、いよいよ伸びていこうとすればするほど、その根は
  いよいよ強い力で向かっていく――地へ、下へ、暗黒へ、深みへ――悪のなかへ」というニーチ
  ェの言葉を思い浮かべるとき、さみどりの色彩は、地下の無数の口に支えられ、いよいよ高
  く、いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴えているようだ。些か不用意かと思われる「せつな
  さ」という言葉が、やはりここで使用されるだけの作者の内面的な根拠があったことを思わせる。
    (大井 学)

       (後日意見)(2020年12月)
 この歌は「せつなさよ」をどう捉えるかが、要だとおもいます。鈴木氏は「せつなさよ」という作者の詠嘆に近い思いに言及していません。氏は「明けて」を「翌朝」という具体的な時間帯と捉えていますが、根からの水分を吸い上げた結果、緑の葉の存在が現出するのだという因果関係を客観的に述べていると捉えたらどうでしょうか。そうすると「明けて」は根は地下の暗闇にあり、緑の葉は明るい地上にあるということの表象として捉えることができます。
 大井学氏は<この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋がるもの>と述べ、「みどりの色彩は…いよいよ高く、いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴えているようだ。と、ニーチェ的解釈されていますが、この歌にはそれほどニーチェの影響はないように思われます。この「せつなさ」の感情はニーチェ的力の「均衡」よりも、仏教的なものを根源としているのではないでしょうか、美しさと悲哀を訴えているのはみどりの色彩ではなく、無数の口をあけて何かを主張し、訴えざるをえない根なのです、それは暗闇に追いやられ、存在を消された者の怨念に近いものなのかもしれません。口は食物を摂取する器官と同時に、語りかけ訴える器官でもあります。地上の葉っぱ一枚の生存を成り立たせるために無数の無用なものが、地下へと追いやられるのです。「せつなさ」はそのような根と緑の葉、明と暗、光と影といった生きとし生けるものの本当のありよう、摂理をみつめ、認識したときに湧き上がる諦観に似た感情ではないでしょうか。
 渡辺氏はあらゆる生き物を人間と同等に扱い、立場の弱い者に対して慈しみの感情を持って詠い
上げます。渡辺氏のこのような作家姿勢を、上記の歌を鑑賞していると、あらためて思います。
  (S・I)

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