De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

特攻の無念若者の心に生きる

2015-08-21 18:01:40 | 話題・問題・ひとこと
元予科練の生き残りの新聞投稿がSEALsの若者の間で波紋を呼んでいる。
死なされていった特攻兵の若者の思いが今を生きるSEALsの若者に生き継がれたという感慨である。
一見相矛盾しているように見える二つの集団。
特攻隊員はお国に従順で命までささげた若者、SEALsは安保法制という70年の平安な眠りから覚まされる制度に反発して立ち上がった若者。
しかし、86歳の元予科練の投書が、特攻隊員の無念の思いをSEALsの若者が引き継いでいることに気が付かせてくれた。
同じ年代の青年たち同志、夢と希望を抱えた同じ青年どうし、無念の死を遂げた誰か一人の思いをSEALsの誰か一人がそれぞれ生き継いでやってくれ。彼らは君たちと一緒に歩きたかった。いや、歩かせてやってくれ。彼らの思いをぐっと抱きしめながら。

私も涙が止まらないのです。

【7月23日朝日新聞朝刊「声」欄抜粋】
安全保障関連保安が衆院を通過し耐えられない気持ちでいた時、学生たちの反対デモを知って元予科練の私はうれしくて、涙を流した。
オーイ、特攻で死んでいった仲間たち、俺たちは今こそ生き返ったぞ。
(中略)
若かった我々が生まれ変わってデモ隊と立ち並んでいるようだ。今のあなたがたのように彼らは生きていたかったのです。

戦中の家族写真

2015-08-11 14:03:17 | 自分史エピソード
昭和18年、19年の写真と思われる。
一番ちびが私で、それぞれ3歳、4歳の時であろう。
一番上の姉は21年3月に厚木高等女学校を卒業している。
姉も勤労動員で最終年度は厚木飛行場に行かされたがこの写真のころはどうだったのだろう。
戦局の悪化の現実もさほど詳しく伝わってこなかったのか、撮影の緊張もあるが穏やかな表情である。
カメラは厚木の写真館の出張撮影である。この写真館は戦前戦後、学校の撮影も担当していて我が家にも定期的に訪ねてきて必ず家族写真を撮ってくれた。
父親の着ているものは剣道の胴着である。このころ、荻窪の国民学校や橋本の相原農蚕学校、厚木中学校(旧制)の剣道講師をしていた。
昭和19年とすると54歳である。いまなら定年前の働き盛りの年齢。早くも年寄りの風情である。
親は、昭和9年ごろ東京中野に住んで警視庁に勤務していたが引っ越してきた。和田家の家督相続人として早く田舎に戻らなければと焦っていたことが日記などで覗われる。
兄弟の多い家族で、本家建物には兄弟家族がひしめいていたことは私が抹消戸籍謄本を取り寄せ調査したことでわかっている。農地の登記上のことで、弟にその手続きを任せて、実印を渡してあったことからとんでもない事件に発展していた。気は焦るが公務員の恩給支給資格が得られるまではどうしてもやめられなかった。そして百姓のことは何にも知らないまま、農業を始めることになる。
写真のころは、自分で耕作する以外にわずかながら安定した小作米が届けられた。それでなんとか生活はできたのだが、戦後は凶作から始まって農地改革などにより貧困を味わうことになる。終戦前後、小作米も入らなくなっていた。