月さえも (PART 1)

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デンマンさん。。。、なんやら万葉集にでもハマッたようなタイトルを書いてますやん。。。

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めれちゃんは、タイトルから そないな印象をうけるのかァ~?
だれかてぇ、そないな印象を持つと思いますぇ~。。。
あれ、京都弁が出てきよったなァ~。。。 万葉集となると、やっぱり大阪弁よりも京都弁かァ~?
そないなことは、どうでもよろしおすゥ~。。。 それよりも、どないなわけで月さえもというタイトルにしやはったん?
あれっ。。。 めれちゃんは忘れてしもうたのかァ~?
わたしが何を忘れてる、とあんさんは言わはるのォ~?
めれちゃんが思い出せへんのやったら、まず次のリストを見て欲しいねん。。。

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■『拡大する』
■『フルトヴェングラーと芭蕉』

これはライブドアの わての『徒然ブログ』の日本時間で5月29日の午後11時6分から 30日の午前3時1分まで約4時間の「生ログ」やねん。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。

あらっ。。。 5月30日の午前2時11分にわたしの「即興の詩」ブログから あんさんのブログにやって来て『フルトヴェングラーと芭蕉』を読みはったネット市民がいたのやねぇ~。。。

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■『拡大する』
■『フルトヴェングラーと芭蕉』

。。。で、どなたはんが読みはったん?

めれちゃんの地元の大阪に住んでおる馬場沙織 (ばば さおり)さんが読みはってん。。。
あんさんは、またIPアドレスを調べて馬場沙織さんがアクセスしたことを突き止めはったん?
そういうことやァ~。。。

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。。。で、赤いアンダーラインが引いてあるリファラをクリックすると、どのページが出てきよるのォ~?

次のページが出てきよる。

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■『拡大する』
■『実際のリファラ・ページ』

あらっ。。。 わたしが2014年3月28日に投稿した『月さえも』やないのォ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

この上の短歌を読んでから、赤枠で囲んである トラックバック5番の 『フェルトヴェングラーと芭蕉』 をクリックしやはって わてのブログへ飛びはってん。。。

。。。で、馬場沙織さんは、大阪で何してはるのォ~?
あのなァ~、沙織さんは大阪市立大学の文学部の学生やがなァ~。。。

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馬場沙織さんは どないなわけで『フェルトヴェングラーと芭蕉』を読みはったん?

早苗さんは、文学部で国文学を専攻しておるのやがなァ~。。。 つまり、万葉集や古今和歌集に興味を持っているというわけやァ~。。。
それやのに、なんしてドイツの指揮者の名前が出てくる記事を読みはったん?
芭蕉もタイトルに出てくるやん。。。 沙織さんが興味を持った箇所を ちょっと読んでみィ~なァ~。。。

。。。で、どないなわけでフルトヴェングラーと芭蕉が関係あるん?

あのなァ~、フルヴェンのおっさんは次のようなことを言うたのやがなァ。

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人は芸術作品に没頭しなくてはならない。
作品には独立した世界がある。
そのプロセスは愛と呼ばれ、評価や比較とは対極の行為です。
愛は比較できないもの独自性のあるものだけを大切にします。
没頭するたびに喚び起こされるこの愛によってこそ作品の全体を把握できるのです。
作品全体は愛以外の何物でもありません。
それぞれの部分は理性によって把握できますが、全体を理解するには愛が不可欠なのです。
--- フルトヴェングラー
(赤字はデンマンが強調)

このフルヴェンさんの言葉が どないなわけで芭蕉と関係あるん?

先日も取り上げたのやけど、次のような芭蕉の句があるねん。
一つ家に遊女も寝たり萩と月
この句について白洲正子さんは次のように言うてるねん。

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ほんのちょっとした事でもおそろしい事はあるものです。
ほんのちょっとした、たとえば「も」が「と」とかわっただけでももう全部の意味ばかりでなく、芭蕉といった様な大人物まで、もう一度考え直してみなければならなくなるのはおそろしい事です。
一つ家に遊女も寝たり萩と月
その「遊女も」を「遊女と」と直したら、忽ち人生観まで変わってしまいます。
この一句の意味は、華やかな花の様な存在も世の中にはあるだろうが、自分は淋しい秋を友として生きている、遊女は見えずただ萩と月がある、それでもそういう色々の物が一緒にまじって暮らしているのが世の中というものだ、と云えば云える様な、孤独のあきらめがにじみ出ています。
が、もしミスプリントで、「遊女と」になっていたら、萩も月も、狸までうかれ出て、芭蕉と一緒に狂っている様なお祭気分になってしまいます。
おかしなものです。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)
34ページ 『たしなみについて』
著者: 白洲正子
2013年10月10日 第8刷発行
発行所: 株式会社 河出書房新社

白洲正子さんは遊女は見えずただ萩と月があると解釈してるねん。

あんさんは芭蕉が遊女と一緒に寝たと思うてはるのォ~?
もちろんやがなァ~!
そやけど、芭蕉さんが遊女と一緒に寝はったら、萩も月も、狸までうかれ出て、芭蕉と一緒に狂っている様なお祭気分になってしまいますと正子さんは言うてるのやでぇ~。。。
そう解釈するのが可笑しいねん。 わては芭蕉はんが遊女と一つの布団で寝たとは言うてへんでぇ~。。。 その場合には、次のような句になるはずやんかァ~。。。
一つ褥(しとね)遊女も寝たり萩と月
「褥」とは「布団」あるいは「寝床」の意味やがなァ。 このような句であれば、当然、芭蕉がスケベ心を起こして遊女と寝はったかもしれへん。 けどなァ~、芭蕉はんの句には「一つ褥」じゃあらへん。 「一つ家」になってるねん。 遊女と芭蕉の間にはかなりの距離があるのやがなァ。 要するに一つ家の中でも一緒の布団に寝たわけやない!
そやったら、あんさんは どないな情景を思い浮かべはるのォ~?
次のようなやり取りが芭蕉はんと遊女の間に交わされたのやないかいなァ。。。

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芭蕉: 旅のものですが、どうやら道に迷ってしまったらしく、もうすぐ日が暮れます。 宿を探すにも、どうもこの辺りには一軒もそれらしいものは見当たらず、探しあぐねていたら、この草庵を見かけたというわけです。
遊女: そうでございますか。。。 それはお困りでしょう。
芭蕉: もし差し支えなければ、今夜、軒下でもお借りして夜露をしのぎたいと思うのですが、ご拝借できるでしょうか?
遊女: 軒下では、夜露をしのぐにも ご不自由しますもの。。。 むさくるしい草庵ではございますが、宜しければ どうぞおあがりくださいませ。。。
芭蕉: しかし、それではあまりにも不躾(ぶしつけ)と言うもの。。。 旅は慣れておりますので、軒下で結構でございます。
遊女: いえいえ、お見かけすれば、お年を召しておられますし、軒下では寒さもきびしゅうございます。。。お風邪を召したら、この先、長旅はきびしゅうございます。 “袖振り合うも他生の縁”と申します。 どうそ、ご遠慮なさらずにおあがりくださいませ。
芭蕉: しかし、このような老体(ろうたい)が上がりこんでは、ご家族に迷惑をかけるというもの。。。
遊女: こう申しては何ですが、あたくしは囲われ者。。。、主人は留守をしております。 独り者ゆえ、他の誰にも気兼ねはご無用でございます。 何もおもてなしはできませぬが、夜露をしのぐには、このあばら家も充分にお役に立つことと存じます。 さあ、どうぞ ご遠慮なさらずにおあがりくださいませ。。。

芭蕉はんは、この遊女の親切に甘えて草庵に上がらせてもらいはったわけやがなァ。

。。。で、フルヴェンさんの言葉が どないなわけで この情景に関わっていると あんさんは言わはるのォ~?
つまり、フルヴェンさんの言葉を言い換えれば次のようになるねん。

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人は芭蕉の句に没頭しなくてはならない。
芭蕉の句には独立した世界がある。
そのプロセスは愛と呼ばれ、評価や比較とは対極の行為です。
愛は比較できないもの独自性のあるものだけを大切にします。
没頭するたびに喚び起こされるこの愛によってこそ芭蕉の句の全体を把握できるのです。
芭蕉の句 全体は愛以外の何物でもありません。
それぞれの部分は理性によって把握できますが、全体を理解するには愛が不可欠なのです。
--- フルトヴェングラー
(赤字はデンマンが強調)

そやけど、芭蕉はんと遊女は愛し合ったわけではあらへんと思うわァ。

あのなァ~、めれちゃん。。。 芭蕉はんと遊女が一つの布団の中で愛し合ったかどうかは、全く関係あらへん。 関係あるのは、解釈する人の心の問題やがなァ~。 つまり、思いやりの心、相手の心を気遣う気持ち、人情の機微。。。 そうしたものが芭蕉の句の独立した世界になっている。 その世界に入り込めば、遊女の思いやりの心、相手の心を気遣う気持ち、人情の機微が読む人の心にも伝わってくる。 そもそも、それがインスピレーションになって 芭蕉はんは上の句を作りはったと、わては思うねん。
『フルトヴェングラーと芭蕉』より
(2014年4月26日)

。。。で、上の部分を読みはって 沙織さんは どないに思いはったん?

そやから、フルヴェンさんが言わはった「それぞれの部分は理性によって把握できますが、全体を理解するには愛が不可欠なのです」という意味が、遊女と芭蕉の会話を読んでしみじみと理解できたというわけや。。。
どのように。。。?
めれちゃん。。。 そこまでわてに言わせるのかァ~。。。 つまりやなァ~、芭蕉はんと遊女が一つの布団の中で愛し合ったかどうかは、全く関係あらへん。 関係あるのは、解釈する人の心の問題やがなァ~。 つまり、思いやりの心、相手の心を気遣う気持ち、人情の機微。。。 そうしたものが芭蕉の句の独立した世界になっている。 その世界に入り込めば、遊女の思いやりの心、相手の心を気遣う気持ち、人情の機微が読む人の心にも伝わってくる。 そもそも、それがインスピレーションになって 芭蕉はんは上の句を作りはったわけやァ。。。 そのことを沙織さんは、しみじみと理解したというわけやァ~。。。

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(すぐ下のページへ続く)