歴史の空白
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デンマンさん。。。 どういうわけで歴史の空白 を取り上げるのですかァ〜!
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ちょっと次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『空白の150年』
■『150年の空白』
■『現実主義者 馬鹿の見本』
これはアメブロの僕の「バークレーの書きたい放題!」ブログの「いいねされた記事リスト」です。。。赤枠で囲んだ箇所に注目してください。。。
あらっ。。。『空白の150年』と『150年の空白』に“いいね”が付いてますわねぇ〜。。。
そうです。。。ついでだから次のリストも見て欲しいのですよ。。。
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■『拡大する』
■『空白の150年』
あらっ。。。バンクーバー時間の10月16日の午前9時58分までの24時間以内に『空白の150年』に“いいね”が5個付いたのですわねぇ〜。。。
そうです。。。僕がこの記事を投稿した7日前にも連続して“いいね”が 4個付いたのですよ。。。上のリストを見れば分かるけれど、1つの記事に“いいね”が8個以上つくというのは、僕のブログでは珍しいことなんですよ。。。
つまり、「歴史の空白」に関心を持っているネット市民の皆さまが たくさん居るということでござ〜ますかァ〜?
そういうことなのですよ。。。次のように検索すると、その事がよく分かります。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
■『空白の150年』
歴史の空白 と入れて検索すると、なんと 6,350,000件もヒットするのですよ。。。つまり、日本史や世界史の歴史の空白についての記事が これだけ溢れているということです。。。
要するに、歴史の空白 は多くのネット市民の皆さんの興味を惹きつけるのでござ〜ますわねぇ〜。。。
そういうことです。。。ちなみに、Yahoo!知恵袋のベストアンサーに選ばれた次のページを見てください。。。
空白の4世紀ってなんですか?
ベストアンサー
cel********さん
2017/10/2 17:12
>空白の4世紀ってなんですか?
歴史の議論に使える程度に、信頼しうる文字史料がない
よって、遺跡・遺物などの“モノ”でしか歴史が語れない
が、“モノ”だけで語れる歴史は著しく制限される、例えば、なんと言う支配者の時にどの地域が征服されたかを“モノ”に基づいて語るのは事実上不可能。
(なお、モノに刻まれた文字は文字史料にカウント)
だから、空白の4世紀、です。
信頼するに足る文字史料がない、とは、言い換えれば日本書紀で4世紀の出来事として書かれている部分(応神天皇の終わり近くから仁徳天皇の代の最後まで、つまりほぼ仁徳天皇一代のみ)と、古事記でそれに対応する部分は、歴史の議論に使える様な文字史料とは考えられない、って事でもあります。
日本書紀で、歴史の議論に使える様な文字史料として使えるのは、西暦で言えば6世紀、天皇の代で言えば継体天皇以後、と言うのが、殆どの学者の考えです。
>3世紀以後に情報がないのでしょうか?
“信頼するに足る”文字史料、と言う意味ではその通りです。
他の方も仰る様に3世紀には、俗に言う“魏志倭人伝”がありますし、5世紀にはいわゆる“倭の五王”による朝貢の記録が中国側にあります。
だから、3世紀と5世紀の間は、文字史料の空白期間になっています。
なお、3世紀に邪馬台国と言う“派手なイベント”があったのに対して4世紀にはそう言うイベントがなかったから、空白の4世紀と言う、のでは勿論ありません。
信頼するに足る史料がないのに、4世紀にどんなイベントがあったか、なんてわかる訳がないです。
また、史料がないので、邪馬台国がヤマト朝廷に発展したかどうかはわからない、って言うのは正しいですが、それがわからない、だから「空白」、なのでもありません。『信頼するに足る史料がないので空白の4世紀』です。
>4世紀日本に文字が無かったってのは本当ですか?
いや、さすがにそこまで言うとウソと言うべきでしょうね。
例えば、3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があったのも殆ど間違いないです。
ただ、銅鏡に刻まれた文字に左右反対の鏡文字のものもある事(文字の意味よりも、デザインの一種ぐらいの意味しかなかった、と考えられる)、などからして、文字を解する人の比率はかなり低かっただろう、とは考えられますが…
『YAHOO!知恵袋』より
空白の4世紀に文字があったにもかかわらず なぜ歴史的事実が『古事記』にも『日本書紀』にも脱落しているのでござ〜ますかァ〜?
あのねぇ〜、中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。。。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われるのですよ。。。
つまり、ドサクサに紛れて、権力者にとって都合の悪い書物がすべて焼き尽くされたのでござ〜ますかァ〜?
そうとしか考えられない。。。それに反対する勢力も居たのです。。。例えば、大伴一族などは反藤原氏ですから、この一族などは代々伝わっている古い記録をどこかに埋めているはずです。。。そのうちに考古学者が大発見するかもしれませんよ。。。Yahoo!知恵袋のベストアンサーにも書かれているように3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があったのも殆ど間違いないから、その後の歴史的事実が残されていても不思議はないのです。。。
考古学者が頭を働かせて それらしい場所を発掘すれば、木簡・竹簡という形で地中に埋められている外交文書が発見される可能性があるということでござ〜ますかァ〜?
大いに可能性がありますよ。。。もしも、卑弥呼が魏の国に外交使節を派遣していなかったら、3世紀と4世紀の歴史は、すっぽりと日本史から消えていたのですよ。。。
あらっ。。。卑弥呼が魏の国に外交使節を派遣できたというのは、歴史的な幸運だったのでござ〜ますかァ〜?
そうなのです。。。司馬懿(しば い)というおじいさんが中国を統一していなかったら卑弥呼は外交使節を派遣できなかったのですよ。。。
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司馬懿
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司馬 懿(しば い、拼音: Sīmǎ Yì)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。
名門の家柄
河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次男で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卬の12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。
兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(中国語版)(季達)・司馬恂(中国語版)(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた(ただ単に八人の達たちということでなく、「八人の達人」という意味合いにかけている)。妻に張春華、息子に司馬師・司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。
司馬懿は若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれていた。
『晋書』「宣帝紀」によると、司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。
曹操への出仕
建安6年(201年)、司馬懿は河内郡で上計掾に推挙された。洛陽に書類を提出するため上京した際、兄の司馬朗とともに曹操の司空府によって出仕を求められるが、風痹(リューマチ)を理由に辞退した。『晋書』「宣帝紀」はこれを「漢のために曹操に屈したくはなかった」としている。
当時、名士が高官の招請を断ることは一種の流行となっていた。その後上計掾の職も辞し、7年間は家にいた。一方で兄の司馬朗は司空府の属員となっている。
その後かつて司馬懿に会ったことがある崔琰が曹操に司馬懿を推薦し、荀彧も彼を推したため、司馬懿は司空府の属員となった。司馬家は代々経学に詳しく、司馬懿は曹操の世子曹丕に仕えることとなった[2]。一説には曹操は刺客を放って、「もし驚いて逃げるようであれば殺せ」と命じたが、司馬懿は臥して動かなかったために難を逃れた。その後曹操は丞相となり、司馬懿を文学掾に任じて「捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕した[要出典]。『魏略』によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くのを恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨て応じたともいう。
司馬懿は曹丕の家臣として大いに信任され、陳羣・呉質・朱鑠(中国語版)は「太子四友」とともに称されたが、司馬懿は陳羣に次ぐ第二席を占めている。建安20年(215年)に曹操が陽平関の戦いに勝利し漢中を制した際、その勢いで劉備が支配して間もない巴蜀を平定するように進言したが[3]、曹操は「隴を得て蜀を望む(望蜀)」ことはしない、と言って、この意見を退けたという。
建安22年(217年)、太子中庶子に任じられる。曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒していたが、曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていた。司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るにいたった。この頃、疫病で兄の司馬朗を失う。
建安24年(219年)、関羽が荊州から北上して樊城を陥れようとした。この時、首都の許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。司馬懿は蔣済と共にそれに反対した。さらに孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すことを献策し、見事に成功を収めた。この年、厳格で知られる父の司馬防が死去した。
公孫淵の征討
景初2年(238年)、遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられる。このとき皇帝の曹叡は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ねた。司馬懿は「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、その他休養などに60日を当てるとして、1年もあれば充分でしょう」と答え、「(公孫淵が)城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。(公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と答えた。
司馬懿は毌丘倹、胡遵らとともに公孫淵討伐に出発した。司馬懿が遼東に到着したころ、遼東では長雨が続いていたため、遠征はさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。
魏の征討に対し、公孫淵は呉に援軍を求めた。孫権は使者を殺害しようとしたが、配下の羊衜は恩を売った方が得策と進言した。そこで孫権は、「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と書簡を送りつつも、援軍を約束した。司馬懿は野戦で公孫淵が派遣した軍勢を破り、公孫淵は籠城した。公孫淵軍は兵は多く、食料は少なかった。司馬懿はこれを想定しており「兵力が多く兵站の確保が難しいときにはある程度犠牲が出ようとも速戦でかたをつけるべきで、逆に兵力が少なく兵站が安定している場合には持久戦を行うのがよい」と語った。
司馬懿の思惑通り、公孫淵軍の食料は底をついた。公孫淵は使者を送り、人質を差し出して和議と助命を嘆願した。司馬懿はこれに対し次のように弁舌し拒絶した。
「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。お前達は降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみ。人質など無用である。」
公孫淵は子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して逃亡したが、司馬懿は追撃して公孫淵親子を斬り殺した。城は陥落し、司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り、遼東の制圧に成功するが、更にその後の処置は苛烈を極めるものであった。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺し、京観を築いたという。司馬懿は曹叡に述べたとおり、1年で公孫氏を滅ぼした。しかし、戦後処理で残虐な行為があったことは後世の批判となった。唐代に編纂された『晋書』は、「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。
呉は援軍を送ったものの、既に公孫淵父子が敗死した後だったとして、遼東で略奪して引き上げている。
なお、公孫淵の滅亡によって朝鮮半島北部が魏に押さえられたために、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を派遣するようになり、司馬懿はこれを自らの徳として誇り厚遇したという説もある。
出典: 「司馬懿」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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司馬懿のおじいさんが公孫淵を滅亡させなかったら卑弥呼は外交使節を送れなかったのですよ。。。
歴史的な幸運だったのですわねぇ〜。。。
そうです。。。でも、卑弥呼の存在があったためにその後の権力者は歴史を改竄(かいざん)しなければならなかった。。。
でも、その後、卑弥呼は外交使節を送っていませんわよねぇ〜。。。
国内が戦乱で明け暮れて、外交使節を送るどころではなかったのですよ。。。このドサクサの中で大和朝廷が頭角を現して日本を統一することになるのですよ。。。
でも、どうして卑弥呼のことが『古事記』にも『日本書紀』にも出てこないのでござ〜ますかァ〜?
『古事記』を書かせた天武天皇にも、『日本書紀』を書かせた持統天皇にも卑弥呼を書くことは都合が悪かったのですよ。。。卑弥呼を書くことになると天照大神から連綿と続いている天皇家の血筋がマヤカシであることになってしまうのです。。。書きたくても書けない!。。。中国にも知られている卑弥呼の連合国を倒して権力を奪ったということは書きたくない!
それで、卑弥呼さんは天照大神(あまてらすおおみかみ)という神話の中の女性として『古事記』と『日本書紀』に登場するのですわねぇ〜。。。
時代が違うけれど、仕方がないからそういうことにしたのでしょう!?
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【ジューンの独り言】
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ですってぇ〜。。。
あなたも、天武天皇と持統天皇が古代日本史を改竄したと思いますかァ〜?
ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ〜?
分かりましたわァ。。。。
では、あなたもビックリするような
忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。
なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!
無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。
つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。
浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?
そのへんのところが詳しく映像に残っております。
観るだけの値打ちがありますわ。。。
では、どうぞ。。。
ところで、どうして小百合さんが
「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
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あなたは ご存知ですかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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メチャ面白い、
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
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