浜野矩随
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デンマンさん。。。 浜野矩随(はまの のりゆき)さんというのは政治家でござ〜ますかァ〜?
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いや。。。政治家ではありません。。。現在生きている人ではありません。。。江戸時代の人ですよ。。。
名前を聞いたことがござ〜ませんわァ〜。。。
実は、僕も知らなかったのですよ。。。先日、次の落語を聴いて初めて知ったのです。。。
浜野矩随という人は金物細工をする職人のようですわねぇ〜。。。
そうです。。。
。。。で、どういうお話なのでござ〜ますすかァ〜?
あれっ。。。卑弥子さんは上のクリップをクリックして面白い話を聴いてないのですかァ〜?
あたくしは一応聴きましたわァ〜。。。でも、この記事を読んでいるネット市民のなかにはスピーカーが故障して音が出ないかもしれないじゃありませんかァ〜。。。
分かりました。。。次のような話ですよ。。。
落語 浜野矩随
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明和から安永年間にかけて、武蔵国大森村に腰元彫りの名人で浜野矩康(のりやす)という者がいた。
腰元彫りとは刀の小柄・柄頭、あるいは煙草入れに彫る彫刻である。
矩康は酒のために若死にする。残されたのが一人息子の矩随(のりゆき)であるが、不器用で何を彫らせても駄作である。
代々の家にもいられなくなり、芝・浜松町の裏長屋に年老いた母親と住む。
矩随は貧しくとも親孝行であり、そんな矩随を芝神明の道具屋、若狭屋新兵衛はなにかにつけ面倒を見てくれる。
ある日、矩随は新兵衛のところに小柄に彫った作品を持っていく。
ブタかと思ったらこれはイノシシだと言う。
それでも新兵衛は二朱の金を与える。
それから三日目、また矩随は若狭屋を訪ねる。
この日は新兵衛は酔っぱらっていて、機嫌が悪い。
今度の作品は馬だが足が三本しかなく、しかも一本が異様に太い。
亡くなった父親の足がむくんでいたのを思い出しながら彫っていたらこんな風になったと言う。
新兵衛は、こんな物は売り物にならない。
今まで矩随が持ってきた作品も一つも売れず、抽斗に入ったままになっている。
矩随が親孝行だからこそ、二朱ずつの金を出しているが実は迷惑している。
倅がこんな出来の悪いものばかり拵えているのを父親の矩康さんは草葉の陰で嘆いているだろう。
いっそのこと、腰元彫りなんかやめてしまえ、あるいは思い切って死んじまえと言う。
新兵衛は二朱の金をポーンと放り投げ、矩随はそれを掴んで若狭屋を出る。
その後で、なんであんなキツイことを言うのかと、新兵衛は女房から叱られる。
家に戻った矩随は母親に、とうとう若狭屋さんにまで愛想を尽かされたと話す。
母親は若狭屋さんの言う通りお前は死んでおしまいなさいと言い、矩随も承知する。
母親は、その前に形見として観世音菩薩を彫って貰いたいと言う。
母親は観世音菩薩の描かれた掛物を掲げて一心不乱に祈る。
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矩随はこの観世音菩薩を手本に彫ろうと思ってジッと見入る。
それから21日経って身を清め、仕事場へと入っていく。
観音経を唱えながら、不眠不休でタガネを打つこと7日7晩。
8日目の朝、フラフラしながら矩随は仕事場から出てくる。
彫り上げた観音様を母親に見せる。
見事な出来栄えだと母親は言う。
これを若狭屋へ持っていって、値を付けてもらってくれ。
形見にしようと思ったけれど、オマエが亡くなったら金銭が必要だから、50両で売っておくれ。
50両以下だったら家へ戻ってはいけない、どこへでも行って死んでおしまいなさいと言う。
矩随は若狭屋を訪ねる。
すっかりやつれた姿を見て新兵衛は驚くとともに、前来た時に暴言を言ったことを詫びる。
矩随が新兵衛に観音菩薩を見せると、これは父親の矩康が作ったものだと勘違いをする。
新兵衛がこれは50両で売れる品だと言うと矩随は泣き出す。
矩随はこの観音菩薩は自分で彫ったものだと打ち明ける。
彫り上げるまでのいきさつを話すと新兵衛は感心する。
家を出る際、湯飲みに入った水を半分ずつ母親と飲んだことを矩随が話すと新兵衛は驚く。
それは別れの水盃だ。
浜松町の裏長屋へと急ぐと、母親は梁(はり)から紐をたらし、首をつってすでに死んでいた。
この後、矩随の彫るものは傑作ばかりで、早速江戸中で名工・名人と評判が立つ。
矩随の作品は引っ張りだこで、どこへ行っても見つからない。
若狭屋は大坂から来た男に、かつて矩随が作った駄作、ブタに似たイノシシを売りつけるが、それでも男は大喜びする。
不器用であった矩随が、努力の末いつしか名人と呼ばれるようにまでなった。
古今亭志ん生の『浜野矩随』より
この浜野矩随というお人は実在した歴史上の人物なのでござ〜ますかァ〜?
実在した人物なのですよ。。。
日光東照宮のあの有名な眠り猫を彫った左甚五郎は、日本人ならば、おそらく誰もが知っている名工だと思いますけれど、この浜野矩随というお人は あまり知られていないようですわァ〜。。。あたくしも初めて目にしたお名前ですわァ〜。。。
もともと講談で取り上げられたのですよ。。。講談は、落語よりも古いのです。。。講談の起源は戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているのです。。。寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈ですよ。
初めから講談と呼ばれたのでござ〜ますかァ〜?
いや。。。江戸時代の宝永年間に公許の常設小屋で上演されるようになり、「講談」というより「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生したのです。。。
落語も江戸時代にはあったのでしょう?
ありました。。。元禄期、京都の四条河原や北野などの大道(だいどう)で「語り手」が面白い話を人々に聞かせたのですよ。。。これを「辻噺」といい、これを行った人々を「噺家」と呼んだのです。。。これが落語家の始まりとされるている。。。でも、実際に「落語」と呼ばれるようになったのは明治時代になってからのことなのですよ。。。
あらっ。。。知りませんでしたわァ〜。。。つまり、江戸時代に 下手くそな「彫り師」だった男が、やがて見違えるような名工になったという話を講釈師が取り上げたのですわねぇ〜。。。
そういうことですよ。。。当時は、浜野矩随が江戸市民の間にも知られるようになっていたのです。。。
講釈師が、その話を広め、やがて落語家もそのネタを取り上げて噺にまとめたわけなのでござ〜ますかァ〜?
そういうことです。。。やはり、面白いのでこれまで語り継がれてきたのですよ。。。事実、上のクリップでは古今亭志ん生さんが語っているけれど、息子の古今亭志ん朝さんも語っているのですよ。。。
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あらっ。。。親子で語りついでいるのですわねぇ〜。。。
実は、この親子にも、ちょとばかり似たような話がある。。。志ん朝さんは、初めから落語家になるつもりはなかったのですよ。。。
あらっ。。。初めは何になるつもりだったのでござ〜ますかァ〜?
当初は外交官になるという夢があり、獨協高等学校ではドイツ語を学んだのですよ。。。でも、大学受験に失敗し、役者になろうかとも思った。。。だけど落語家になるつもりはなかった。。。浪人している時に父親の志ん生さんから「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる」と説得され入門した。
あらっ。。。意外に簡単に進路を変えてしまったのでござ〜ますわねぇ〜。。。
でも、浜野矩随のように頑張ったのですよ。。。入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進した。。。10年以上頑張っても真打ちになれない人もたくさん居る世界です。。。同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝さんを指して八代目桂文楽は「三遊亭圓朝を襲名出来るのはこの人」と志ん生さんに述べたほどです。。。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝さんを買っていたのですよ。。。入門から5年目に真打に昇進したというのも、文楽の鶴の一声によるものだった。。。
他の落語家の評価も高かったのですか?
例えば、志ん朝さんの晩年に七代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っていることからも分かるように、志ん朝さんは大学受験に失敗したとはいえ、落語の世界では異例の出世を遂げた人なのです。。。親子ともに落語の名人と言われても恥ずかしくない。。。
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上の様子は、父親の志ん生さんが息子の志ん朝さんに新しい噺の稽古をつけているところでござ〜ますかァ〜?
いや。。。息子の志ん朝さんが父親の志ん生さんに将棋を教えているところですよ。。。
お二人は、今でもお元気で活躍しているのでござ〜ますかァ〜?
いや。。。すでにふたりともあの世の人です。。。二人共、実にうまい噺家だった。。。マジで惜しまれます。。。
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【ジューンの独り言】
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ですってぇ〜。。。
あなたも、古今亭志ん生親子の落語を聴いて、二人共うまい噺家だと思いましたかァ〜?
ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ〜?
分かりましたわァ。。。。
では、あなたもビックリするような
忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。
なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!
無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。
つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。
浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?
そのへんのところが詳しく映像に残っております。
観るだけの値打ちがありますわ。。。
では、どうぞ。。。
ところで、どうして小百合さんが
「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
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あなたは ご存知ですかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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メチャ面白い、
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
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