狭山事件
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狭山事件は、1963年(昭和38年)5月に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件、およびその裁判で無期懲役刑が確定した元被告人の男性が再審請求を申し立てている事件。
1963年(昭和38年)5月23日、
当時24歳の石川 一雄が逮捕され、同年6月13日、窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領の罪で起訴された。
また同年7月9日、強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂の罪で起訴され、一審の浦和地裁で石川は、全面的に罪を認め、
1964年に死刑判決が言い渡された。
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二審の東京高裁で石川は、一転して冤罪を主張し、1974年に無期懲役判決が言い渡され、
1977年に最高裁で無期懲役刑が確定した(1994年12月に仮釈放された)。
これまで3度再審請求の申し立てが行われ現在、第3次再審請求が審理されている。
解説
本事件については、捜査過程での問題点を指摘する見解もあり、石川とその弁護団や支援団体が冤罪を主張して再審請求をおこなっているが、日本弁護士連合会が支援する再審事件ではない。
再審えん罪事件全国連絡会の加盟事件にも含まれていない。
石川が被差別部落の出身であることから、本事件は部落差別との関係を問われ、市民権運動の時代に大きな争点となった。
部落解放同盟や部落解放同盟全国連合会などの部落解放運動団体や、中核派・革労協・社青同解放派などの政治党派の立場からは、この事件に関する裁判を狭山差別裁判と呼ぶ。
その理由について狭山弁護団の松本健男は、事件や裁判の背景に「部落差別に起因する無学無知」があったためであるという。
同様の趣旨を弁護団の橋本紀徳も語っている。
しかし、満足な学校教育を受けなかった点については石川当人が「被差別部落出身だからというわけではなく、そんな時代でした」と発言している。
「差別裁判」という呼び方には被差別部落の内部にも反対する意見があった。
また、一審当時から「石川一雄君を守る会」(のち「石川一雄さんを守る会」)を通じて石川を支援していた日本国民救援会は冤罪説に立ちつつも そもそも「差別裁判」とは、部落出身者たることを秘して結婚した男性を誘拐罪で逮捕し、懲役刑にした高松裁判のような事例を言うことは、「差別」のひどさを天皇に直訴した北原泰作らが書いているとおりである。
正木ひろし弁護士も、「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになる」(1974年11月1日付朝日新聞)と論じている。
彼ら(部落解放同盟)の規定が間違っていることは改めて言うまでもない,と批判している。
事件の展開
1963年5月1日
埼玉県狭山市大字上赤坂の富裕な農家[注釈 10]の四女で、川越高校入間川分校別科1年生の少女(当時16歳)が、午後3時23分に目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明になった。
午後6時50分ごろ、心配した長男(当時25歳)が車で学校に行き所在を尋ねたが確認できず、午後7時30分ごろ帰宅したが少女はまだ戻っていなかった。
午後7時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見した。それは四女の生徒手帳が同封されていた脅迫状だった。
午後7時50分ごろ、長男は堀兼駐在所に届け出、その後、駐在所から狭山警察署に連絡された。警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られた。
脅迫状の指定時刻「五月2日の夜12時」が5月2日午前0時とも読めるため、5月1日23時40分、次女(当時23歳)が20万円分の現金に見せかけた偽造紙幣を持ち、身代金受け渡し場所として指定された狭山市大字堀兼の佐野屋酒店の入口前で犯人を待った。
5月2日
午前0時半過ぎになっても誰も現れなかったため、張り込みの刑事5~6名を含む全員が引き揚げた。
午前3時ごろ、狭山市大字入間川の畑付近で数匹の犬が一斉に吠えた。2日後、この付近から被害者の遺体が発見されている。
23時55分ごろ、次女はあらためて佐野屋酒店の前に立ち、20万円分の偽造紙幣を用意して犯人を待った。
付近の茶畑や民家の庭の植え込みには、張り込みの刑事が40人潜んでいた。
5月3日
午前0時10分から15分ごろに犯人が現場にあらわれた。
次女は犯人と約12分間にわたって会話したが、犯人は「警察に話したんべ。
そこに2人いるじゃねえか」と張り込みに気づき、0時25分ごろ「おらぁ、帰るぞ」と逃げてしまった。
このとき、張り込みの刑事40人は、脅迫状の「友だちが車出いくからその人にわたせ」との文言を真に受けて車通りにしか配置を行っておらず、犯人を取り逃がしてしまった。
犯人の声について、次女は「年齢は26~27歳から33歳くらい。
ごく普通の声で、どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声であった」と証言。
また、次女の脇にいた狭山市立堀兼中学校教育振興会会長は「中年の男」と証言。
張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と証言している。
早朝よりの捜査によって、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑で見つかった。
捜査官は、足跡の臭いを警察犬に追わせたが、1匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で追跡を停止した。
もう1匹は、佐野屋から北側の川越方面に進んで停まった。
夜明けに足跡の採取をおこなった結果、足跡は地下足袋(職人足袋)によるもので、権現橋方面に向かった後、市道をやや逆進し、さらに南側の畑に入っていた。
犯人の足跡の臭いが途絶えた不老川(草刈橋からI養豚場方面を望む)
その権現橋のたもとにI養豚場があった。
また、I養豚場の経営者の自宅もあった。I養豚場の経営者は被差別部落出身であり、従業員も被差別部落出身者が多かった。
I養豚場は、地元では愚連隊の溜まり場として知られ、石川一雄の兄たちからも警戒されていた。
権現橋はまた、被害者少女の通学路にもあたっていた。
朝、埼玉県警は記者会見を開き、本事件を公開捜査にすることを発表。
上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。
近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と発言、中勲捜査本部長も「犯人は土地鑑があることは今までの捜査でハッキリしている。
近日中にも事件を解決したい」と発言した。
朝から警察官45人と地元の消防団員45人による雑木林の山狩りがおこなわれた他、捜査員165人による聞き込みが実施された。
14時25分ごろ、狭山市大字入間川字井戸窪の山林内にて被害者の自転車の荷掛けゴムひもが発見された。
5月4日
10時半、殺害された少女の遺体が発見された。
遺体は狭山市大字入間川(現:祇園21-20)の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていた。
遺体には目隠しがしてあり、首と脚に細引き紐が巻かれ、手は手ぬぐいで後ろ手に縛られていた。
うつぶせに埋められた遺体の上には荒縄が置かれ、遺体の頭部には玉石が載せられていた。
19時から21時にかけて、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が、少女宅で司法解剖を行った。
遺体は死後2~3日経過しており、死因は首を絞めたことによる窒息死であったが、警察側の五十嵐鑑定では「加害者の上肢(手掌、前膊或いは上膊)あるいは下肢(下腿など)による扼殺」とされ、弁護側の上田・木村鑑定などでは、被害者の首に見られる蒼白帯から、幅広い布による絞殺とされた。
死亡推定時刻について、確定判決では5月1日午後4時20分ごろとし、弁護側では5月2日としている。
少女は生前に強姦されており、膣内から血液型B型でLe(a-b+)型の精液が検出された。
両足には生活反応のある(生前に受けたことを示す)傷があり、手の爪には犯人のものとみられる皮膚片が挟まっていた。
警察側鑑定では強姦とされ、弁護側鑑定では和姦とされた。
胃の中には粥状の食物が約250ml残っていた。
法医学ではこれは最後に食事したときから2時間、長くても3時間以内に死亡したと推定される(それ以上経過すると胃の中の食物はほとんど腸に移動してしまうため)。
胃の中にはジャガイモ・ナス・タマネギ・ニンジン・小豆・菜(葉)・米飯粒の半消化物のほか、トマトが残っていた。
後に同級生が法廷で証言したところによると、被害者が当日12時ごろ、昼食として摂った調理実習のカレーライス(ならびにその付け合わせ)には、トマトは入っていなかった。
後頭部には生前に負ったものと思しき裂創があり、おそらく転倒の際、角のある鈍体に衝突して生じたものと推定された。
弁護側鑑定では、牛乳瓶2本分程度の出血があったとされた。
腹部や下肢に引きずられた痕があった。
処女膜には少なくとも1週間以上前にできたものとみられる亀裂があったが出血はなかった。
ただし、処女膜の亀裂はスポーツなどによって生じた可能性もあり、事件前における性体験の有無は不明であった。
死斑の状態から、初め6時間以上にわたり仰向けにされ、その後うつぶせにされたものと推定された。
逮捕と自供
1963年3月に発生した
「吉展ちゃん誘拐事件」でも警察は犯人を取り逃がしており(2年後の1965年に犯人検挙)、次いで起きた狭山での誘拐犯人取り逃がしについて強い批判を受けた。
死体が発見された4日には
柏村信雄警察庁長官が辞表を提出し、引責辞任した。
埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させるも捜査は難航。
死体発見の同日、特捜本部はI養豚場の経営者に聞き込みをおこなったところ、同養豚場からスコップが紛失していることを聞かされたため、この経営者に盗難の被害届を書かせた。
スコップの存在を知っていたのはI養豚場関係者に限られることや、I養豚場の番犬に慣れている者でなければスコップを盗み得ない状況にあったことから、警察はI養豚場関係者に的を絞り、特命捜査班を組織してI養豚場関係者に対する捜査を開始した。
同養豚場の経営者家族や従業員たち27人中21名の血液型を検査したところ、B型は石川ただ1人であった。
さらに、その27人中14人の筆跡を鑑定したところ、石川の筆跡が脅迫状と一致するという結果が出た。
石川一雄と同姓で元同僚のIT(当時21歳、1998年病死[58])も血液型B型だったと伊吹隼人は述べているが、公判ではそのように認定されていない。
時の国家公安委員長・篠田弘作は「こんな悪質な犯人は、なんとしても必ず生きたまま捕らえる」と発表した。
11日午後5時ごろ、I養豚場から盗まれたスコップが狭山市大字入間川字東里の小麦畑で発見された。
このスコップは一見して農作業や土木工事に使われていたスコップではないことが明瞭であり、木部に食用の油が付着していたため、捜査当局はI養豚場の養豚用スコップと判断した。
そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから、遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。
冤罪説
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カバン、万年筆、腕時計が石川の自供により発見されたことは、犯人しか知り得ない物証として各判決の決め手となった。そのため三大物証と呼ばれている。しかし、下記の点を根拠に冤罪説を主張する者もいる。
腕時計については当初捜索のために発表された品名はシチズン・コニー(埼玉県警から特別重要品触として5月8日に手配された物はコニー6型で側番号C6803 2050678と個体識別情報があった)となっていたものが、実際に発見されたのはシチズン・ペット。つまり別の物。
この点につき最高裁は、「側番号は、捜査官が品触れを作成するために見本として使用した同種同型の腕時計の側番号を軽率にもそのまま記載したことが証拠上明らか」と、側番号が違うのは捜査官の不注意ミスと述べた。
さらに、「かえって、関係証拠によると、本件腕時計はY(被害者)と姉Tの二人が互いに使用していたことがあり、その場合、それぞれ違ったバンド穴を使用していたというのであって、本件腕時計のバンドにはその事実を裏付ける形跡が窺える」と述べ、発見された腕時計が被害者やその姉の使用品であることは間違いないとしている。
なお、1976年秋の証拠開示の結果、この品触れに載っていた側番号は確かに見本の時計のものであることが確認され、これにより「発見された時計は被害者のものではない」という弁護側上告趣意書の主張は誤りであることが判明した。
このことは「弁護側や、石川一雄の無実を信じて支援活動を続けている人びとにもショックを与え」た、とされる。
発見された万年筆は中に入っていたインクがブルーブラック。
被害者が当日にペン習字の授業で使っていたとされるインクはライトブルー。
この点につき最高裁は、「被害者又は万年筆やインクと無縁ではない申立人によって本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がある以上,本件万年筆が被害者の万年筆ではない疑いがあるとはいえない」と述べ、被害者または石川がペン習字の授業の後、インクを詰め替えた可能性を認定した。
石川の自宅は「自供」以前に何度も捜索されていたにも関わらず、人目につきやすい勝手口の鴨居から万年筆が突然「発見」されたのは「自供」後。
この点につき最高裁は、「鴨居の高さや奥行などからみて、必ずしも当然に、捜査官の目に止まる場所ともいえず、捜査官がこの場所を見落すことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる」と、警官が見落とした可能性を認定した。
なお石川自身は「あれは関さん(石川の知人である巡査長)が置いたのではないと思います。関さんは親切な人でしたから」と発言している。
警察側が証拠とする脅迫状の筆跡が石川の筆跡と異なるものであることは明確であり、かつ、当時の石川には文字を書く能力がないに等しかった。
この点につき最高裁は、脅迫状の筆跡や用字上の特徴と石川の特徴を比べた上で、両者の特徴は同一であると結論づけた。
識字能力について石川自身は「浦和(拘置所)にいたときの私は字の読み書きは全く出来ませんでした」「昭和42年ごろから、私は文字の読み書きを拘置所の中で、独力ではじめたのです」と自称していたが、裁判所は、石川が14歳の時に3ヶ月間ひらがなや漢字を習っていたこと、顧客の氏名を漢字で書きこなしていたこと、報知新聞の競輪予想欄や読売新聞を読む力があったこと、友人から交通法規の本と自動車構造の本を借りて読んでいたことなどを挙げて「他の補助手段を借りて下書きや練習をすれば、作成することが困難な文章ではない」と認定した。
これに対し、狭山弁護団の松本健男は「常識的な判断過程では、石川は当時漢字が書けなかった、したがって漢字を多用した脅迫状を書くことはできないとすべきところを、判決は、確かに石川は逮捕後書いた説明文には漢字をまったく用いていないが、手本の『リボン』(ママ)をみて書いた脅迫状には漢字が多用されている、これは石川が本を見て漢字を練習して書いたからだというのである」と非難しているが、そもそも裁判所は「被告人は教育程度が低く、逮捕された後に作成した図面に記載した説明文を見ても誤りが多いうえ漢字も余り知らない」と述べているだけで、「石川は逮捕後書いた説明文には漢字をまったく用いていない」などと認定した事実は存在しない。
なお、国語学者の大野晋は、検察側証拠として提出された脅迫状について、東京高裁控訴審と第2次再審請求の2度にわたり筆跡鑑定を行い、脅迫状の筆跡および文章が逮捕時の石川の稚拙な日本語能力では不可能なものであると分析し、「脅迫状は被告人が書いた物ではないと判断される」と結論づけた。
しかし、裁判所は大野晋、磨野久一(京都市教育委員会指導主事)、綾村勝次(書道家)による3鑑定書について「これらの鑑定書の説くところは、一言にしていえば、不確定な要素を前提として自己の感想ないし意見を記述した点が多く見られ、到底前記三鑑定を批判し得るような専門的な所見とは認め難い」「被告人は、「りぼん」から当時知らない漢字を振り仮名を頼りに拾い出して練習したうえ脅迫状を作成したものと認められる(「刑」の字についてはテレビその他で覚えていた可能性も考えられることはすでに指摘したとおりであり、「西武」についても、被告人は西武園へしばしば行っていたのであるから、同様に前から知っていたであろうことは容易に推測されるところである。)」と退けた。
また、大野鑑定は石川の埼玉県警狭山署長あて上申書(1963年5月21日)と脅迫状だけを比較したものだったため、半沢英一から「上申書だけでなく、関源三さんあての手紙なども問題となるので、これらの筆跡資料も対象として立論がなされるべきだった」と批判された。
関係者の相次ぐ変死
1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。
1963年5月6日 - 被害者宅の元使用人[注釈 47] が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。
1963年5月11日 - 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。なお、この通報者は石川一雄の競輪仲間であった。「つまりは、彼は石川氏に容疑が向けられ始めた直後に警察に現れたため、おそらくは『捜査かく乱を狙う人物』と疑われたのである」と伊吹隼人は推測している。
1964年7月14日 - 被害者の姉[注釈 48] が農薬を飲んで自殺。
1966年10月24日 - 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の長兄が西武新宿線入曽駅~入間川駅間の踏切で電車に轢かれて自殺。
1977年10月4日 - 被害者の次兄が首を吊って自殺。
1977年12月21日 - 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』の取材協力者として事件を追っていたルポライター集団「文珠社」のひとり片桐軍三が暴行死とも見られる変死を遂げる。
さらに
1963年5月 - 石川一雄宅と同番地に住む青年O(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になったこと。
1964年3月18日 - 身代金受け渡しの際に被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が石川の死刑判決の直後に脳出血で急死したこと。
1967年2月14日 - 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡したこと(享年83)。
1968年1月28日- 主任検事の原正が浦和市の自宅にて脳出血で急死したこと。
1970年12月25日 - ハンガーストライキ4日目(1963年6月22日)の石川を診察したことのある川越署嘱託医が行方不明となった後、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見されたこと。
I養豚場時代の石川一雄の同僚で、石川と前後して別件逮捕され(1963年6月3日)、共犯容疑を追及され、1966年7月に証人として公判に出廷した被差別部落出身の青年TA(逮捕当時23歳)が行方不明になったとされること。
以上の人物を加算し、変死者を12人と数える場合もある。
ただし、青年TAについては身元を隠して千葉県に移住したことが確認されている。
上記の一連の変死と狭山事件との関係は何ら証明されておらず、憶測の域を出ない。
特に1963年5月11日の目撃通報者の自殺について亀井トムは「自殺を偽装した謀略殺人」との説を唱えた。
この説について半沢英一は「この亀井トムさんの説は、根拠とする事実の認定からして間違っていました。
例えば、T・Nさんの自殺当日に取られたT・Nさんの奥さんの供述調書によれば、T・Nさんは奥さんの眼前で、たしかに包丁で心臓をついて自殺しており、他殺でなかったことは確実です」と批判している。
亀井トムは被害者の日記における「夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。
ふとんの中でもくやしいくやしい」(1963年4月27日)との記述を根拠として、財産分与をめぐる身内の犯行との説を唱え、部落解放同盟や殿岡駿星もこの説を踏襲した。
亀井によると、被害者の父は「農家の子は男も女も中卒で充分。もし高校に行きたければ自分で働いて行け」との持論の持ち主で、長兄も次兄も夜間高校出身だったが、被害者は兄弟姉妹の中でただ1人昼間の高校に行った、高校に行けば知的になる、そうすれば財産の6分の1はもらいますよと主張するようになる、これは長兄にしてみると非常に困ることだった、という。
一方、伊吹隼人は財産分与をめぐる身内の犯行との説を「なぜ高校に入学したばかりの少女を真っ先に殺害しなければならないのかの説明がつかない」と批判している。
その後、上告審の段階から部落解放同盟は真犯人探しの推理を避けるようになった。
狭山事件最新弁護団の依頼で石川冤罪論の立場から筆跡鑑定をおこなった半沢英一は、家族真犯人説を示唆する小説を書きつつ、「『狭山事件の真犯人』について私は、当時の警察の捜査が、思いこみによって非常に偏っていたことから、本質的な情報が収集されなかった可能性が高く、今となっては推定不可能だと考えています」と述べている。
出典: 「狭山事件」
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足利事件
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足利事件とは、1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から父親がパチンコをしていたところ当時4歳の女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件。
事件翌年の1991年(平成3年)、事件と無関係だった菅家 利和(すがや としかず)さんが、被疑者として逮捕・被告人として起訴された。
菅家利和さんは、刑事裁判で有罪(無期懲役刑)が確定し、服役していたが、
遺留物のDNA型が、2009年(平成21年)5月の再鑑定の結果、彼のものと一致しないことが判明し、彼は無実の冤罪被害者だったことが明らかとなった。
服役中だった菅家利和さんはただちに釈放され、その後の再審で無罪が確定した。
菅家利和さんの無罪が確定するまでの間、長らく日本弁護士連合会が再審を支援していた。
また、この事件は真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件でもある。
当事件を含めて、足利市内を流れる渡良瀬川周辺で遺体が発見された3事件は足利連続幼女誘拐殺人事件とされている。
当事件の捜査・刑事・司法手続における問題点
当事件においては、事件未解決や冤罪被害発生の直接の原因になった、警察当局や裁判関係者の捜査上や裁判手続きでその理由や動機が不明な行動や事象が多数確認される。
最初の有力な目撃証言に基く捜査を早々に打ち切った(当事件捜査において最大の不審点でもある。その実質の捜査実態も不明)。
1997年からの再審やDNA型再鑑定の請求を長期間拒否した(その明確な理由や動機も不明)。
いずれも、適切な捜査と対応をしていれば、事件解決に繋がったと考えられる重要点である。
特に最初の目撃証言の時点で、それに基づく適正な捜査を行っていれば、その時点で犯人検挙が実現し当然のことながら冤罪も起こらなかった可能性。
1997年のDNA再鑑定の請求から2005年の公訴時効成立までの間に司法がDNA型再鑑定請求を認め、再審が行われていれば、その時点で菅家さんの無罪が確定し、事件の再捜査も可能だった点も指摘されている。
最初の有力な目撃証言に基づく捜査を打ち切った正当な理由についても警察当局は明らかにしていない。
目撃証言については、近年の清水潔による調査報道を受けて、菅家利和さんの自白と矛盾するということで事件とは無関係とする警察の見解もあるが、通常の捜査であれば、反対に有力な目撃証言と矛盾するから菅家利和さんの自白は虚偽(強要された)と判断するところである。
そもそも目撃証言に基づく捜査は早期に打ち切っているので、打ち切った正当な理由があれば、菅家利和さんの自白と矛盾しているとする旨をわざわざ警察発表でする必要もないはずのものである。
最初の目撃証言をした証言者たちの中の一人に対し、自宅を訪れ、「正直言ってアンタの証言が邪魔なんだ。消したいんだ」と目撃証言の撤回を迫り、証言を撤回させ調書も勘違いに書き換えた。
この事件の捜査に当時導入されたばかりのDNA型鑑定が採用されたのは、実際の事件でその実績を作りたかったためである。
しかし、当時の鑑定の精度の低さゆえ時期尚早であり失敗であったことは、後年の再鑑定の結果明らかになっている。
菅家利和さんをマークをしていた時期により確実性の高い前科・前歴から数人の男の行動調査をしていた。
しかし、理由不明のままその数人の男に対しての捜査を中止している。
これは、いくつかの冤罪事件に共通して見られる、犯人決めつけに基づく行為である。
この場合は、菅家さんを犯人と決め付けたことにより、より容疑性の高い数人の男に対しての精査を怠った。
同じようなことは、菅家さんを犯人とするあまり、初期目撃証言に対して精査を怠った行為にもみられる。
菅家利和さんが自白した、手で首を絞めたことによる「扼死」と被害者の鼻の穴などから細かい泡状の液体(泡沫液)が漏れていたという「溺死」の鑑定所見と、被害者の死因の鑑定の点で矛盾が見られる。
菅家利和さんの自白(
強要されたものと判明)そのものを重要証拠とし、秘密の暴露として認定し起訴し公判でも採用されている点。
だが、その
秘密の暴露を元として有罪とするだけの裏付ける検証結果や状況証拠は何一つ見つかっていない。
現に、女児の死因の矛盾、女児を自転車の荷台に乗せて土手を下る男の姿の目撃証言が存在しない、犯行ルートが時間的に不可能である等が生じている。
自白を精査すれば虚偽であることは起訴前に判明した可能性がある。
なお、前述のとおり、
自白と反する目撃証言や状況証拠はいくつも判明している。
当時のDNA鑑定に、当時の「精度の低さ」の他に「型の取り違え」の可能性などの重大な問題が潜在していたことが判明している。
また、検察はこの問題を検証しない。
当事件との関連性が指摘されている
未解決の誘拐殺人および誘拐事件
群馬県・栃木県の県境付近では1979年以降、幼女の誘拐事件が起きている。
この事件を含め4人の幼女が死亡し、1人が失踪する事件の計5件の事件(北関東連続幼女誘拐殺人事件)が発生したが、いずれも未解決事件となっている。
当事件の真犯人による仕業と見る検証や分析がある。
足利事件で真犯人が検挙されていれば、同時にそれ以前に起きた数件での犯人検挙、足利事件以後に起きる事件が未然に防げた可能性も指摘されている。
1996年の事件との関連
歩く恰好や風体(いわゆるルパン似、ニッカボッカを穿き帽子にサングラスという格好)など、事件発生時に目撃された男の姿が、上記の事件の一つで1996年に発生する「太田市パチンコ店女児失踪事件」でパチンコ店の防犯ビデオに写った男の姿とよく似ていると、日本テレビの「真相報道 バンキシャ!」などの報道番組も指摘している。
「バンキシャ」では目撃者の女性も取材に応じている。
出典: 「足利事件」
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