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おおどかさ(PART 1)

2019-08-19 11:03:51 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 

おおどかさ(PART 1)

 


(kirin02.jpg)

お、おどかさないで

 


(june901.jpg)




(kato3.gif)

ジューンさん、なんだか面白い写真を貼り付けましたねぇ~。。。


(june001.gif)

ちょっと面白いでしょう。。。

いったい、何をしようというのですか?

実は、宮廷文化の本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですわァ。。。



(guchu2.jpg)

 

『後深心院関白記』は、主に具注暦(ぐちゅうれき:カレンダー)に書き込む形式をとっています。

毎日の干支や吉凶等が記された一行の後に二行の空白行がとってあり、ここに日々のできごとを書くようになっています。

 


(goshin2.jpg)

 

楷書に近い、ゆったりとした書体からは、近衛家の格式にふさわしいいおおどかさが感じられます。

 


(kyutei2.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




153ページ 『宮廷文化史』
編者: 田島公
2016(平成28)年3月31日 第1刷発行
発行所: 笠間書院




なるほどォ~。。。 ジューンさんは日本の宮廷文化にも興味があるのですか?



卑弥子さんの影響ですわァ~。。。

卑弥子さんの何がそれほどジューンさんに影響したのですか?

卑弥子さんが書いた次の文章を読んで宮廷文化に興味を持ったのですわ。。。


白拍子というのは、平安時代後期に活躍した、
一口で分かりやすく申し上げるならば、
芸者のような者でござ~♪~ますわ。


(shira15.jpg)

このように白の水干(すいかん)に
立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で
「今様」と呼ばれる歌を謡(うた)いながら、
男舞と呼ばれる舞を舞うのでござ~♪~ます。

白拍子であった祗王(ぎおう)は、
時の権力者・平清盛の寵愛を受け、
彼の館で幸せに暮らしておりました。
あるとき、清盛に歌舞を披露したいという
別の白拍子が現れたのです。
その者が仏御前だったのですわ。

ただの白拍子に過ぎない仏御前を清盛は追い返そうとしました。
でも、遠路はるばるやってきた彼女を見かねて、
心の優しい祗王がとりなしたのでござ~♪~ますわ。
それで、仏御前は清盛に舞を見せることになりました。
しかし、これを見た清盛は心を奪われ、
仏御前を寵愛するようになってしまったのでござ~♪~ます。

皮肉なものでござ~♪~ますわねぇ~。
男と言うのは本当に浮気なものでござ~♪~ますわ。
祗王の座を奪う気持ちのない仏御前は辞退しようとしました。
しかし、それに気づいた清盛は、
邪魔な祗王を追放してしまったのですわ。
本当に悲しい事でござ~♪~ますゥ。



(seisho05.gif)

萌え出づるも

枯るるも同じ

野辺の花

いづれか秋に

あわではづべき



館を出る祗王がせめてもの忘れ形見にと
詠んだ句でござ~♪~ます。

さらに翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、
祗王に仏御前の前で舞を披露することを強要したのです。
祗王は、あまりの屈辱に死を決意するのでござ~♪~ました。
しかし、五逆罪になることを母親が説き、
やむなく祗王は清盛の館へ向かうのです。



(shira15.jpg)

仏もむかしは凡夫なり

われらも遂には仏なり

いずれも仏性具せる身を

隔つるのみこそ悲しけれ



このように謡(うた)いながら舞い踊り、
諸臣の涙を誘ったのでござ~♪~ます。

祗王は都に居れば、
また同じような思いをしなければならないと、
母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入るのでした。

当時、祗王21歳、妹の祇女は19歳、
母の刀自(とじ)は45歳でござ~♪~ました。

ところが、ある秋の夕べ、仏御前は祗王の元を訪れたのです。
なぜ。。。? どうした事でござ~♪~ましょうか?


(hotoke06.jpg)

実は、祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、
仏御前は、清盛の館を抜け出して
尼となっていたのでござ~♪~ます。

それからのち、祗王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、
みな往生の本懐を遂げたのでござ~♪~ます。

小百合さん、いかがでござ~♪~ますか?
女の身として涙なくしては読めないですよね。
おほほほほ。。。


(giou-ji.jpg)

それにしても、祗王寺のお庭は
苔がとっても美しいですことォ~。。。
見とれてしまいますわぁ~。
あああぁ~。。。デンマンさんとご一緒に見たいわぁ。。。
うしししし。。。

 


(himiko22.gif)




『愛憎と苔寺』より
(2008年10月7日)




確かに卑弥子さんが説明している白拍子や平清盛は宮廷文化と無関係とは言いません。。。 でもねぇ~、ジューンさんが手に取った本は正真正銘の貴族の文化ですよ。。。 平清盛は貴族化したけれど、もともとは武士ですからねぇ~。。。



知ってますわ。。。 平清盛は伊勢平氏の頭領である平忠盛の長男として生まれました。。。 でも、ある説によると実父は白河法皇という伝承もあるのです。。。 それが本当だとすれば清盛は純粋な貴族ですわァ~。。。

あれっ。。。 ジューンさんは、そんな事まで知っているのですかァ?

だから、言ったでしょう。。。 これも卑弥子さんの影響ですわ。。。

でもねぇ~。。。 ジューンさんが引用した『後深心院関白記』は平清盛の時代からは、ずいぶん時代が下って室町時代のものですよ。。。


愚管記

 


(goshin3.jpg)

 

『愚管記』(ぐかんき)は、南北朝時代の公卿・近衛道嗣の日記。
『道嗣公記』(みちつぐこうき)・『後深心院関白記』(ごしんしんいんかんぱくき)とも称する。

『愚管記』の名は記主の道嗣自身が付けた謙称である。
記録期間は、右大臣在職中の文和元年(1352年)から薨去4年前の永徳3年(1383年)までの約32年間に及ぶが、文和年間は特定行事に関する別記のみであること、貞治2年(1363年)・同4年(1365年)・永徳2年(1382年)などを欠くことを除けば、ほぼ通年で揃っている。

日々の記事は簡略で、その内容は、室町幕府の動向を始め、南朝との交渉関係、山門と禅宗の対立、年中行事、世相の様子など多岐に亘る。

『後愚昧記』・『師守記』と並んで北朝後期の公家社会を知る上での根本史料だが、摂関家にはこの日記より残っていないため、当時の摂関家の様相を考える手掛かりも多い。

自筆原本は巻子装で、その大部分に当たる49軸(日記47軸・部類記1軸・抄録1軸)が陽明文庫に所蔵され、一括して重要文化財に指定されている他、若干の断簡が伝存する。
記事は当年の具注暦行間の余白や継紙に記入されたものが多い。

主な写本としては、近衛政家による抄出本2軸や近衛家熙による新写本(予楽院本)26冊があり、何れもやはり陽明文庫に所蔵される。
翻刻された刊本には、新写本を底本としたものが『文科大学史誌叢書』(全12冊)や『増補続史料大成』(全4冊)に、原本を底本としたものが『大日本古記録』(既刊5冊、続刊中)に収録される。
なお、原本(一部抄出本)の影印も『陽明叢書 記録文書篇4』(全3冊)として既刊である。




出典: 「愚管記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




。。。で、ジューンさんは何が知りたいのですか?



だから、冒頭のおおどかさの意味ですわ。。。

あのねぇ~、おおどかさというのはお、おどろかさないでとは、全く関係ありません。。。

 


(kirin02.jpg)

お、おどかさないで

 



。。。で、どういう意味ですか?



確かに、最近 めったにお目にかからない言葉だけれど、おおどかさというのは「人の性質がおっとりしているさま」、「物事にこせこせしないさま」、「おおようなさま」という意味なのですよ。。。

あらっ。。。 デンマンさんは詳しいのですねぇ~。。。

もちろん、僕もさっき調べたばかりですよ。。。 うへへへへへへ。。。 だいたい、言葉は生き物ですからね。。。 もう死語に近い言葉などは、本の中で使うべきではないのですよ。。。

つまり、現在、生き生きと使われている言葉だけ使うべきだとデンマンさんは信じているのですか?

当たり前でしょう! もし、死語に近い言葉を使ったら、ジューンさんのように そこで足踏みして、他の人に意味を尋ねなければならないのですよ。。。 僕にしてみれば、こうして記事は書けるけれど、他に書きたい記事を先延ばしにしなければならないので、えらい迷惑ですよ。。。

つまり、死語に近い言葉を本の中で使うと読者に迷惑をかけることになるのですわねぇ~。。。

そうですよ。。。 本を書く人は読者のことを考えて言葉を選ぶべきです。。。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)












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