熊野街道は堺市内ではどこを通っていたのか
というのは、諸説紛々で
これといって決まった道を指しているわけではありません。
原因のひとつは地理的なものによります。
大和川のつけ替え、湿地の存在、
暴れ川といわれた石津川の変遷もあるし、
もっと細かいところでは
40以上も存在する古墳の堀からの
余水がもたらす地形の変化などもありました。
また、堺が商業都市として
大きく発達してきたという
歴史上の変遷も人々の流れを変え、
それに沿って街道も変遷していった
という時間的な変化もあります。
そんなあいまいな堺市内のルートについては、
いろんな人がいろんな推考を試みていますが、
そこまで突っ込んで書くには全く力不足なので、
今回は、大阪府が街道ウォーキングマップとして
作成されたパンフレット「熊野街道」の推奨ルートを歩きました。
そのマップでは、御幸時代には
間違いなく古墳周辺を通っていたであろうルートと
堺市街の発展後に歩いたであろうルートを、
御陵通で不自然に結んでいますが、
そのルート沿いにはやはり見所も多く、
道標も整備されているので
そこを通ることにしたのです。
諸説については折々に触れていくことにします。
さて、今回は
とにかく熊野街道を、八軒家浜から山中渓までの
大阪府内ルートを一本道でつなぎたいため、
かつて歩いたルートとの接点から歩き始めることにします。
以前に歩いた堺市内ルートとの接点といいますと、
南海本線湊駅から
山之口橋までを
助走ならぬ助歩とし、
そこから街道に入っていくことになります。
ここがその山之口橋です。
堺の熊野街道を語るときに、
必ず名前の挙がる橋だけに、
欄干にはそのモニュメントが設置されています。
橋の上に立つと、
これから歩く街道が
スーパーの横から続いています。
歩き始めたのは10時27分でした。
大きな仕事を終え、さっぱりした気分で
久しぶりの街道歩きにワクワクしながら南下していきます。
すなわち熊野詣の往路ですね。
道には随所に、以前からすっかりおなじみの
「歴史の道」シリーズの道標が堺市によって立てられています。
資料では300mほど歩いた少し西側、
阪堺電車の東湊駅近くに
道標があることになっているのですが、
見つかりませんでした。
残念!
初っ端がこれでは先が思いやられます。
気を取り直して南下を続けていきますと、
浜寺石津町の辺りで、
国道26号線に出ます。
そのまま道は国道の向こうに続いているように見えますので、
街道を分断した代わりに、
立派な歩道橋が付けられていました。
歩道橋を降りたところにあるのが、
「一里塚地蔵」です。
ここは大和川から4キロ、
すなわち1里のところにあるため、
一里塚といわれていました。
山でも丘でもなく、単なる土の塊のようであったといわれていて、
そこには地蔵が祀られ
「一里山地蔵尊」として、
地域の人に親しまれているそうです。
街道はそこから一旦、
26号線の一本東側の道を南下していきます。
石標の写真を撮っていると、
通行人の女性が
「写真を撮ってあげましょか」
と声をかけてくれたので、
道標と一緒に写していただきました。
夏から一気に秋が深まった感のある今日この頃です。
春にTVで放映された時にも来ていたこのウェアを
タンスから引っ張り出してきました。
これを着ると、さあ歩くぞと気合が入ります。
さらに南下していきますと、
道は再度26号線と合流します。
ここから、ほんのしばらく交通量の多い
国道の歩道を南下しますと、
本日最初の神社「石津神社」に到着します。
次回に続きます。