坐摩神社は「いかすりじんじゃ」と読みますが、
一般には「ざまじんじゃ」の名で呼ばれています。
なぜ「いかすり」なのか。
それはすでに書いたので省略しましょう。
この神社の境内には
「上方落語発祥の地」の石碑があります。
大道芸だった落語を
この地で初めて寄席を建てて
落語を高座で演じるものにした
初代桂文治の偉業をたたえたものです。
この神社の鳥居はとても変わっています。
陶器神社のある西側の参道には
こんな鳥居がありました。
笠木、鳥木、貫ときて、
柱の間にもう一本横の柱が通っています。
これは塀と一体化してあるからでしょうか。
こんな鳥居は初めて見ました。
そしてもう一つ、
東側の坐摩神社の参道には、
大きな鳥居の左右にもうひとつずつ小さな鳥居がありました。
これは三輪山の桧原神社にあった
「三つ鳥居」といわれる形式です。
(昨年5月21日のブログ参照)
形式の分類では「三輪鳥居」といわれます。
いやはやいろんな鳥居があったものです。
そんな静かな神社を出ると
すぐさま人の往来の激しい交差点に出ます。
そしてこのあたりの御堂筋の歩道には
様々なオブジェが見られました。
これは、ヘンリー・ムーアの作です。
「2つに分断された人体」と
名前が付けられてありました。
どうもこの人は、肉体を分断するのが
好きなようでそのような作品を
数多く残しています。
他にもいろいろある彫像を
写真に撮っていると、
カバンを持って忙しそうに歩くビジネスマンに
「ヒマな奴や」と心で笑われている
ような気がしないでもありませんが、
気にせず歩き続けます。
中央大通りを過ぎると左手に
大きな西洋風の伽藍が見えてきます。
真宗本願寺派津村別院、
通称「北御堂」です。
急な階段を上がっていくと、
広大な広場の向こうに本堂がそびえています。
広場の周りにはベンチがずらっとおかれ、
営業まわりのサラリーマンたちの
恰好の休憩所になっていました。
大阪の商人たちは
「御堂さんの鐘が聞こえるところで
暖簾をはっている」というのを
誇りにしていたそうです。
それにしても、近代的なビルが建ち並ぶ
御堂筋沿いにもここまで歩いてきて
歴史が多く潜んでいるのと
癒しの場が多く点在しているのには
少なからず驚きました。
歩いてみるといろんなものが見えてきます。
ミセスも楽しそうでした。
ええ嫁ハン孝行になりましたな。
歩く楽しさを知ってもらえたら、
これからも出ていきやすいってなもんです。
毎回ついてこられても困りもんですが・・・。
そんな思惑を胸に秘め、
北御堂を左折します。
こんな置物のある店先を眺めつつ、
大阪会館を右折して北上していくと、
突き当たりのビルに鳥居が見えました。
まさかビルになってる神社?
と思いきやそのビルの向こうにある
「御霊神社」の鳥居のようです。
おお~その手前に、これは落語「池田の猪買」にも登場する
「美々卯」の本店です。
さすがに上方落語発祥の地に近いだけのことはあります。
そしてこの神社にも「文楽座」の跡地が残ります。
難波神社で人形浄瑠璃をしていた一座が
場所を替え、ここでも座を設けていました。
その後昭和20年3月14日の大阪大空襲で
すべて焼けてしまいましたが、
上方文楽の礎を築いた
文楽座の功績をたたえて
昭和49年に設置されたものです。
doironは人形浄瑠璃も見たことがなければ、
文楽のなんたるかもまったく知らないのですが、
今も各地に田舎文楽の劇場があったりするところを見れば、
さぞや楽しいものなんでしょうね。
ミセスの友達の旦那さんが、
今も文楽関係の義太夫をしているそうで、
たまに見に出かけて行ったりしていますが、
今度一度連れて行ってもらおうかな
とチラッと思ったりもしました。
あくまで、チラッとですけど・・・
髪の毛の妙にふさふさした
狛犬のいる御霊神社を出て、
再び御堂筋に戻る手前にあるのがガスビルです。
昭和8年に建てられたという、
国の登録有形文化財になっています。
近くの御霊神社が全焼したというのに、
ここは焼け残ったんですねえ。
それにしても古き良き時代のビルというのは、
今のビルと違って味があります。
続く