年末に出かけた浄瑠璃寺のことを書こう
前から行きたかったお寺のひとつで
年末にやっと休みが取れたので
ぶらっと出かけてみた
えっ?年末なのに何故春なのかって
実はこれ、有名な?エッセイのタイトルなのです
堀辰雄の「大和路」
その中にある4編のエッセイのひとつが
「浄瑠璃寺の春」と題されていて
妻と二人で奈良を旅した彼が、
たどり着いたこの山里のお寺の小さな山門で
馬酔木の花に出会った話。
馬酔木の枝葉には、アセボチンという有毒成分があって
馬が食べると、酔ったように足がなえるところから
そんな名前がつけられている。
彼が馬酔木を手にとって眺めていた
つい半日前のことを
まるでずっと昔からそうしていた様に
回想されたという体験を記したその話は
まるで馬酔木の毒に酔ったような
不思議な雰囲気のエッセイとなっている。
また、その地を訪れた堀辰雄は
寺の建物や
それを取り巻く自然の姿を
しっとりと書いている。
馬酔木のほかに
小さな山門、塔のさび付いた九輪
緋桃の木、柿の木。
今回僕が訪れたその時は
季節も全く違っており
それらが今も彼が訪れた約60年前と
まったく同じ姿で
そこにあったわけではないけれど
山門横の馬酔木の姿や
塔の頂上にそびえる九輪の姿の中に
ここでもやっぱり、京都のあの寺と同じように
彼の感じた「一瞬」が
「永遠」という名で
閉じ込められていることを
彼は馬酔木の花の姿に重ねて書くことで
表現しようとしたのだろうと
勝手にそんなことを思ったりした旅でした。
P.S.
お寺というのは、
たくさんの人の想いや情念がしみついている所
そんな中に身を置くと
僕の琴線はいつも打ち震えます
今回の訪問で
この寺の中に横に一直線に並んで安置されている
9対の仏像のお姿を前にして
僕は手帳にこんなことを書きました。
「浄瑠璃寺」
ここは山城。当尾の里。
この山里に佇むお寺には
高貴な9体のほとけがおわせられ
だまってじっと庭を見つめたままで
かれこれ数百年の時を刻んでいる
気の遠くなるような時間
全身を包み込む濃密な空間の中で
じっと庭を見つめている
そのほとけたちは
隣のほとけとお互いに話をするわけでもなく
目と目を合わせることもない
だから、それぞれがどんな顔をしているのか
もう思い出せないくらい長い間
みんなまっすぐ前ばかり見つめている
前ばかり・・
後ろを振り向くことはない
よそ見をすることもない
まばたきひとつせず
まっすぐ前ばかり見つめている
それもひとつの答えなんだと
言わんばかりにきっぱりと
まっすぐ前だけを見つめている
人々の切なる願いを
いくつ聴いただろう
生き交う人々の様々な想いを
どれだけ受け止めただろう
なのに黙ってほとけは変わらず
まっすぐ前を見続けている
人のおろかさを慈しむように
口元にうっすら笑いを浮かべてね・・
合掌
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