大阪狭山池は、農業の灌漑のために
作られた池ですが、
昭和57年にその池から
流れ出る西除川で大水害がありました。
合流する大和川の直前で
すごい量があふれだしたのです。
その時doironは水害が発生した自治体で
働いていましたので、大騒動でした。
連日水害現場に行き、
清掃と消毒を繰り返しました。
まああの時の記憶はすさまじいものでした。
被害を受けられた方は
もっと大変だったんでしょうが、
後始末の我々も大変な作業でした。
そんな水害を防止するために、
水門が作られ排水機が設置される
などしたのですが、ここ狭山池も
大きく回収されました。
ため池だったこのダムが、
水害防止用の狭山池ダムへと変貌したのです。
まあもともと4000haを灌漑していた
このダムの水も、田んぼ類が300haにまで減って、
その役割を大きく減らしていたのですが、
こうして改修することによって
新たな役割を与えられるようになりました。
なので、この時期のように
灌漑に使わないときには、
こうしてできるだけ水を抜き、
大雨に備えているようになったそうです。
とまあそんな話を説明員に
聞いている間に、もう次の班が
池底に降りてきました。
なにせ150人のツアー参加募集のところに
361人の応募があったので、
もう定員はいっぱいです。
10名程度に分けた班が
どんどんやってきます。
数班ごとに数名の説明員が
話しているのですが、
あまりゆっくりやってると
次の班が入ってこられません。
おおむね説明が終わると、
誘導員に引っ張られて
移動してゆきます。
このあと1班はため池の南東の
端っこにあるワンドを見に行きました。
ワンドは(湾処)と書きます。
川などの本流とつながっているところが
土手などに囲まれて
池のようになっているところです。
淀川歩きをしているとき
たくさん見ましたね。
この狭山池にもそんなワンドがあります。
池の水を抜くのですが、
魚などはこんなワンドなんかに
逃げ込んでいるんでしょうねえ。
このときにはあまり魚などが
バシャバシャしているような
状況はありませんでした。
生物多様性を狙って整備された
ワンドではなく、自然のワンドなんですねえ。
見学が終わったら
そこから湿った土の上を
じとーっと歩いて戻り、
さあ池南部の底見学はこれで終わりです。
また堤防に上がって
今度は池の西側の堤防を
北上していくことになります。
池底見学の間、写真をすごく熱心に
とっている人がいたので、
つけている腕章を見ると、
Y新聞の記者でした。
こんな取り組みの取材をしているんでしょうねえ。
写真は撮れましたかあとか
話しをいろいろしていると、
その記者は東大阪の支局にいたことが
あるそうです。
ああ、行政の担当だったこともあるんですね。
doironの過去の仕事を明かしつつ、
その新聞社の記者の名前を
4人ほど上げると、
ああ、その記者はもういませんねえ
とかいう情報をお聞きしました。
Y新聞の記者には事件の時に
大変お世話になったことなんかを
伝えておきました。
堤防を歩いていると、
誘導員からいろんな説明が出てきます。
池の西側には西除川が続いています。
その上にある大きな堤防が西側にあり、
これがこの池の最上位を
示す高さである説明がありました。
「池の水はこの高さを越えると、
どんどんここに流れてゆき
池周辺の水害を防いでいるんです」とのこと。
何気ない池の景色の中にも、
よく聞くと池管理者のいろんな思いが
詰まっていたりするんですねえ。
続く
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