ブラジルW杯も佳境に入ってきた。
今日も朝から気合を入れて
第2戦の対ギリシャ戦を応援した。
いつもの応援スタイルに加えて、
家にある文房具で作った日の丸もほっぺに貼ってね。
こんな時に、宅急便などお客さんが来ても
出られないから、
ミセスが出かけるのなら
家に鍵をかけて出てもらわねばならない。
そして結果はなんとストレスのたまるスコアレスドロー。
同じグループCでは
6時間前にコロンビアが
コートジボワールを2対1で下しており、
日本‐ギリシャの引き分けで
予選通過を決めている。
さて残る1チームはどこになるのか。
日本チームが予選を通過する可能性はあるのか。
ちょっと考えてみよう。
残る3チームのうち、
今のところ最も有利なのは、
コートジボワールである。
次のギリシャ戦で勝てば予選通過だ。
日本は次いで可能性がある。
同じ勝ち点のギリシャよりも
得失点差で有利だからだ。
とはいえ、日本は次のコロンビア戦で
勝たなければ予選通過はない。
負けるか引き分けだったら即、チーンである。
そして勝ったとしても
ギリシャとコートの行方次第ということになる。
コートが勝った場合もチーンなのである。
コートが引き分けの場合は
得失点差の争いとなる。
またコートが巻けた場合は
ギリシャとの得失点差の争いとなるわけだ。
つまり、首の皮一枚つながった状況ではある。
人間なら首の皮一枚つながったところで即死だけれど、
サッカーは違う。
コロンビアは予選通過を決めて
次の日本戦は消化試合となる。
一位通過と二位通過で
決勝での対戦相手が変わるといっても、
どうしても勝たねばならない
という気迫は削がれるだろう。
しかし日本は違う。
絶対に負けられない戦いがそこにあるのだ。
「美しいサッカー」、「自分たちのサッカー」などどうでもよい。
次は死に物狂いのサッカーをぜひ見せてほしい
と願っている。
出来上がったドブロクは、
ろ過した後も、まだまだ発酵は進んでいく。
炭酸ガスがどんどん発生して
やわなペットボトルなんかに密封すると
蓋が吹っ飛んだり、破裂したりするそうだ。
ドブロクがかつて「爆弾」と呼ばれていたのは
こういうところからきているのだろう。
であるからして、保存しておく容器は、
少なくとも炭酸飲料のペットボトルにしなければならない。
もちろんきれいに熱湯消毒し、
できれば少量のドブロクで
共洗いもしたものであれば言うことはない。
そのために3日前からゼロコーラの
1.5リットルを飲み始めていた。
こうして飲み干した後の
ペットボトルに詰めたドブロクは
発酵を抑えるために
冷蔵庫に入れて保存するとともに、
時折蓋をチェックして
内圧が発酵してできた炭酸で高くなっていたら、
ふたをプシュッとゆるめる作業をしてあげないといけない。
出来上がってからも手間がかかるのである。
それと並行してdoironがさらに挑戦したのが
「杉玉造り」
造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、
新酒が出来たことを知らせる役割を果たすものである。
「搾りを始めました」という意味もある。
これも瓶に仕込むと同時に制作に取り掛かった。
先ずは針金で芯玉造りをする。
硬めの針金を用意し、
それで円を4つ造り、
さらにそれを針金で固定しながら作った球体がこれ。
ネットで見ると本当の杉玉は
直径でこれの10倍くらいあるのだが、
いきなりそれほどの大物を作るのは無理というもの。
第一、杉が手に入らない。
手に入れようと思えば、
山へ拾いに行かねばならないが、
杉玉づくりには新鮮な杉が必要だとのことなので、
まさか、勝手に切ってくるわけにもいかない。
ではどうしたかというと、
実はドブロクづくりを決意した時から考えていて、
目をつけていたのがあるのだ。
それが庭の「ヒマラヤ杉」だった。
杉に変わりは無かろう、
これで杉玉が作れるんじゃないか、とね。
しかもなんと好都合なことに、
少し前からミセスに剪定も依頼されていたので
まさしく一石二鳥である。
喜んで剪定し、
「ありがとう」と感謝していただきましたが、
杉玉を作ろうとする段になって、
「はは~ん、やけに手早くやってくれたと思ったら
これが目当てやったのね」と言われてしまった。
「い、いや剪定しているうちに思いついたんやで」
とごまかしておいたが、
どうも魂胆は読まれているようだ。
そうして集めたヒマラヤ杉の小枝がこれ。
よしよしこれで材料はそろった。
あとは芯玉に詰め込んで成型するだけだ、
と意気揚々と取り掛かったのですが、
これが思わず苦戦。
枝が柔らかすぎるのと、
針金も意外に弱かったので、
刺しても刺しても抜けてくる。
「こりゃだめだ。やはり本当の杉が必要なのかなあ」
と一旦あきらめたのですが、
どうしてもあきらめきれず翌日再挑戦。
差し込んだヒマラヤ杉を釣り糸で固定しながら
根気よく作っていってようやくここまで出来た。
あとはこれをカットして
球体にする整形なのだが、
あまりカットすると抜けそうになったり、
アラが出てきたりするため、
ここまでで勘弁しといてもらおう
というところまで切りそろえたのがこれ。
何とか搾り始めには間に合ったようである。
ろ過後、こうして玄関に吊り下げると、
案外様になっているではあ~りませんか。
庭先でそれをしげしげと眺めていると、
ミセスが「しかし、とことん遊ぶ人やなあ」
とあきれ顔でつぶやいていた。
ところがしかしdoironの遊びは、
もうどうにも止まらない。
さらに筆と墨を持ち出して
ドブロク関連作業は続くのでありました。
続く
飲み会の話がきっかけで
ドブロクを作り始めた。
用意する原料は、
米とミネラルウォーターと麹と
ドライイーストと
プレーンヨーグルト。
そして道具は、
梅酒用の瓶とオタマと
出来上がったものを入れる
炭酸飲料のペットボトル。
細かく言えば、
ろ過用のザルと受けるボール、
そしてジョウゴがあれば、
これであなたも密造仲間だ。
道具はいずれも殺菌しておくことが必要だ。
そもそも酒を醸造することは
法律で禁じられている。
効率よく酒税を徴収するために
かなり昔に決められた法的措置で、
酒税が歳入予算の1%程度となっている
今の現状を考えれば、
この法律ほど無意味なものはない。
さて、その手順はというと、
まず、米を炊く。
本当は蒸すのがいいとのことだが、
3合の米に2合炊くときくらいの
少な目の水と少しの日本酒を入れ
炊飯器で炊くので十分である。
写真じゃわかりにくいけれど
とにかく少なめの水加減で。
消毒手順や温度管理の細かいところは省くとして、
炊きあがった硬めのごはんを
梅酒用のびんにいれ、
そこに1.2リットル程度のミネラルウォーターと
麹200g、ドライイースト1g、
プレーンヨーグルト大匙1杯強を入れて
静かによくかき混ぜて仕込みは完了。
これを2~3日間寝かします。
その間はひまさえあれば瓶を眺め、
時折麹の海に小さな泡が
ポコッと出てくると
「あ、今動いた」なんて言ったりして、
まるでお腹の子どもに話しかけているようだ。
瓶を手で持つと、ほのかに暖かいから、
なおさらいとしく思えたりしてね。
もう忘れたけどきっと胎内は
こんな感じだったんだろう。
家の中の静かで寒くない部屋に置いておいた。
気がついた時には音楽も聞かせてね。
奄美地方には音楽を聞かせながら
熟成させる黒糖焼酎があるくらいだ、
ドブロクにだって音楽はいいだろう。
ショパンやエンヤ、ビートルズに
松田聖子も聞かせてあげた。
きっと、ビンの胎内にまでそれらは届いて、
さぞかし落ち着きのないドブロクに育ったに違いない。
一日1回混ぜてやると、
日に日に香りがお酒っぽくなってくるのにもまた
ワクワクと期待を抱かせてくれる。
ろ過してからも発酵は進んでいくので、
香りをかぎながら頃合いを見て
次の段階に進めばいいだろう。
doironの場合は丸三日寝かせておいた。
そしていよいよ次は、
お酒のろ過の段階に入る。
またもや鍋と金属製の目の細かいザルと
オタマと漏斗を熱湯消毒して、それで濾していく。
この時、目の粗いザルでろ過するのも、
酒に混ざりもんが入って
野趣に富んだ酒になるようなことが
ネットに書かれてあったが、
ここは初めてのことだし、
クリアなドブロクをまず作ろうと
できるだけしっかりとろ過することにした。
瓶からすくいあげたドブロクを
鍋の上のザルにおたまで移し、
さらに水分を絞るように押しつぶてろ過していく。
これで、一応ドブロク酒と
酒粕の出来上がりである。
酒粕は後日、粕汁となる予定でーす。
さっそくぐい飲みに注いでみた。
大河ドラマで出てくるような徳利はないので
普通にペットから注いだのはちと残念。
おお~、ドブロクの白い濁りには、
黒いぐい飲みがよく似合う。
さて、こうして酒はできたけど
今回のドブロク造りはまだ完成したとはいえない。
お遊び好きのdoironですから、
この程度で楽しみが終わるはずがない
というものだ。
その先の楽しみの話とは・・・明日に続きます。
JRパンフレットの地図は、
いつぞやも出かけた
お初天神を抜けていきます。
ちょうど1年前、昨年の6月7日に
このブログで紹介したコース取りとなるわけですね。
再掲になりますが、
拝殿の前の柱にある
戦争時のグラマンによる機銃掃射の跡がこれ。
今回は柱にちゃんと解説が貼られてありました。
この神社の名前にもなったのが
「お初徳兵衛」の恋物語です。
そのためか、
神社の一角にはいつもカップルが
数組座っておられます。
さすがにそれは写真には撮れませんよね。
そしてこれがお初徳兵衛にまつわる話しから
「恋人の聖地」と呼ばれるようになったいわれを
書いた説明版です。
「恋人の聖地」は、
地域活性化のために
民間団体が公的支援を受けて、
全国各地に設定をしていってます。
現在は全国に125ヵ所あるそうです。
大阪には3か所あります。
ここお初天神と、梅田スカイビル、
りんくうマーブルビーチです。
そのうちにあべのハルカスも入るかな。
右近の橘、左近の桜も確認して
お初天神を後にします。
目指すは最後の目的地である
大阪駅へと向かいます。
と、今年もありました。
ジャンボ宝くじ売り場です。
昨年は一億円が展示されておりましたが、
今年はパワーアップしていて、
な、な、なんと5億5千万円が展示されておりました。
当たりたい~
というわけで、横にあった当選祈願スタンプを
ここまで一緒に歩いてきた
JRのパンフレットの裏に押しておきました。これ。
今日歩いて訪れたどの神社よりも
熱い願いを込めて押しておきました。
でも肝心のくじを買い忘れたので、
多分当たらないでしょう。
大阪駅前の歩道橋に上がったところで、
ナビを止めました。
結果を確認すると、
距離はパンフレットより3キロ以上長い
10.6キロになっていました。
ま、かなり手持ちの地図をそれて
ウロウロもしましたからね。
とにかく地図に書かれたコースの
約三時間の歩行はこれで終わりですが、
まだお店の開店時間まで時間があるので、
梅ブラショッピングをしてから
ミセスの知り合いのお店に向かいました。
そこは阪急東通商店街の外れの方にある
居酒屋割烹です。
店の名前は、その知り合いの名字の一部を取って
「ほたる」
といいます。
名字は蛍原でも樽本でもありません、念のため。
久しぶりに行くので、
店に何かお土産でもと思い、
結局、絵を一枚描いて差し上げることにしました。
葉っぱの上で、
お尻に火をともす
二匹の蛍を想像で描き、
それに言葉を添えて約1時間で完成。
これ。
お土産ですと言って渡すと
こんな時にはたいてい
「へえ~」とびっくりされるのですが、
以前ミセスがしおりをあげているので、
普通に喜んでいただきました。
目立つ所に置いていただいたので
額の裏にはちゃっかり名刺もはさんでおきましたぜ。
約3時間をそこで過ごし
昔話にも花を咲かせながら
ミセスはかなり呑んだようで、
帰る頃には足下が少々怪しかったです。
本人は「久しぶりにいっぱい歩いたからや」
と言ってましたが、果たしてどうなんでしょう。
梅田から自宅まで、
ハラハラしながら帰ったdoironなのでした。
御堂筋はやはり大阪のメインストリートでした。
かなり土地勘を養えたし、
浪速なんでも歩いておいてよかったなあ
とつぶやきつつこのシリーズ終わり。
ん?まだ御堂筋歩いてたん?
ブラジルに行ってたんと違うん?
もう御堂筋はええやん。
という声が聞こえてきそうですが
出かかった何とかなので
何を何させてくださいよ~
では御堂筋ウォークを再開します。
栴檀木橋の南の橋詰には、
この橋の歴史が展示されています。
橋の高覧部の端にある柱には
様々なものがあります。
先ほど通ったなにわ橋の
ライオンが座っているのもそのひとつで、
これを親柱(おやばしら)といいます。
これまで歩いてきた中で、
橋の名前を紹介する時には
たいていこの親柱の写真を紹介しました。
紀の川に架かる川辺橋の親柱には
和歌山城が描かれていましたね。
これが栴檀木橋の大正時代の親柱、
そしてこれは昭和初期のもので、
これが現在の親柱です。
この橋からは生駒連山を背景に
大阪城が望めたそうですが、
今はビル群の眺めになっています。
足下は、橋の先に見える
煉瓦造りの中之島公会堂の姿にあわせて
レンガを敷き詰めたデザインになっています。
橋の上から眺める景色が、
今昔併せ持った多彩な景色で
ファンの多い橋なのではないでしょうか。
渡りきると目の前がその公会堂。
会議室なども借りられるそうです。
建物を眺めていると、
一昨年のクリスマスの頃、
この建物のプロジェクションマッピングを見た時の
とても楽しい記憶がよみがえります。
また、大阪国際女子マラソンの応援を
このあたりでしたのも思い出します。
北の橋詰を左折し、
公会堂と図書館の間を抜けていくと、
今度は堂島川に架かる「水晶橋」にさしかかります。
川面に映る夜景の灯りが
まるで水晶を散りばめたように
キラキラしていることから名づけられたとか。
車も通れないから橋の上はなかなかの憩空間です。
橋の上から写真を撮っている人もいました。
JRのパンフレットでも
ここを一番のビュースポットに挙げています。
おお~、ここでも川床が気持ちよさげですねえ。
橋を渡りきったら目の前が裁判所です。
かつての職場で、
一時期裁判の仕事をしていたことがあり、
よくここに足を運びました。
訴えられていた側だったので、
被告席に座っていました。
結果はすべて勝訴だったのですが、
結局相手には納得してもらえず、
裁判に勝って争いに負けた形になったのは
心残りでもあるところです。
当時の判決文が手元にありますが、
被告欄に名前が載るという
貴重な体験をさせてもらいました。
当時、こうして裁判所の周りを歩くなんてことは
想像もしていませんでした。
弁護士と打ち合わせで入ったお店が、
今も裁判所の周りに残っています。
当時、気がつかなかったのですが
裁判所の植え込みの中には
こんな石が建てられてあります。
佐賀藩の蔵屋敷跡の碑です。
裁判所の駐車場を整備する際に、
発掘調査をしたところ判明したそうです。
調査では船が入る水門や石垣も見つかったとか。
大阪湾から入り、浪速をめぐって
淀川から京都にもつながる堂島川や土佐堀川が
水上交通の幹線であったことを伺わせますね。
裁判所の周りには、
こんな蔵屋敷跡も残っています。
裁判所の北側には、老松通があります。
裁判所で競売にかけられた骨董品や
絵画を入手するのに都合がいいからでしょうか、
骨董品や美術商のお店がずらっと並んでいます。
自分でも絵を描くので、
ウインドウに並べられた絵画の中でも
自然の姿を描いた絵にはいちいち反応してしまいます。
「いい仕事してますねえ」と言いながら眺めていたら
ミセスに「あんたも頑張りや」と言われてしまいましたわい。
老松通りを抜けると再び御堂筋に出ます。
そこにはこんな立派な道標が立っています。
ここから800mほど東にある、
大阪商人の心の支えであった
天満宮への案内石です。
少し前までNHKで流れていたドラマ「銀二貫」は
大阪の寒天問屋の話でしたが、
その中でも天満宮のことが頻繁に出てきました。
大火事で焼けた天満宮の再建のために寄付する
銀二貫にまつわる心温まる時代劇でした。
天満宮にも一度じっくり挨拶をせねばと思っています。
さあ、遠くに大阪駅方面も見えてきました。
この歩行旅もそろそろ終点です。
最終回に続く
う~ん、今日は残念であった。
予選C組の第二試合。
日本対コートジボアール戦は
見ごたえのある戦いではあった。
前半16分の本田のゴールには
鳥肌が立ったなあ。
良きにつけ悪しきにつけ
賞賛と批判の矢面にさらされ続けている彼の
鬱憤を晴らしたゴールであった。
後半立て続けに2点を入れられたのは
ゴールを守り続けた日本の
心の隙間を突かれるとともに
ドログバ参戦による相手チームの精神的高揚に
してやられた格好だ。
あそこはもう少し日本チームも
集団的自衛権を行使して・・・
おっとと
話がややこしくなる。
つくづくサッカーは、技術もさることながら
ピッチを支配するメンタルの
影響の大きなスポーツだなと思った。
少しでも盛り上げようと
doironも頑張った。
まずは二階のベランダに
サムライカラーの毛布フラッグを掲げた。
道行く人にも熱き想いを伝えよう。
そしてさらにウエア、タオル、旗を見につけ
携帯まで青くした。
(恥ずかしいので写真を小さくしました。
なんとメンタルの弱いこと)
本当は「キリン」の日本代表が
プリントされた一番搾りを飲みながら
応援したかったのじゃが
ミセスに止められたので
これを飲みながら応援した。
こんな、地球の片田舎の我が家でも
こうしてウェア、小物、物品あわせて
貧乏でも頑張って応援に
5000円ほど費やして頑張っているのだから
W杯の経済的効果はすごいはずだ。
だいたい1000万人がdoironと
同じようなことをしたとして
それだけで500億だもんな。
W杯は「サッカー」というスポーツが持つ底力を
形にした大会やね全く。
さあ日本選手諸君、負けを引きずってはいけない。
僕らは次の試合までのたかが4日間で
君らに飛躍的な技術的向上を望んでいるのでもなく
ましてや持久力の増大を期待しているわけでもない。
それに、作戦変更を策したところで
いたちごっこにも似て、それこそ悪あがきというものだ。
そんなことよりも、僕らに見せてほしいのは
君たちの心を切り替えるメンタルの強さなのだ。
それこそがサッカーの別の醍醐味でもあるのだから。
次の20日のギリシャ戦では
挑むことへの弱気をまったく見せないで
「さあ行くぞ」と闘志をみなぎらせて
ピッチに登場する君たちをdoironは待ってるぜ!
W杯が開幕し、
テレビでは過去の名場面なんかもよく出てくる。
その中で、ペレやロナウジーニョなどに混ざって
あの「ジダン」もたびたび登場する。
これでなぜあのトレイル好きのおっさんが
「ジダン」なのか、
戦後生まれの若者にも
ようやく理解できたことでしょう。
とまあ今やある意味旬ともいえる、
そのジダンが
少し前にプロデュ―スした飲み会が開催され、
そこに参加してきたときのことを書こう。
その飲み会はそもそも先輩フリーライターに
仕事の極意などの教えを乞いたい
というdoironのために
ジダンが場を設けてくれたものだったのだが、
彼の不手際か服部半蔵の陰謀か、
はたまたあとさき考えずに
頭突きをするようなジダンの詰めの甘さが露呈してか、
肝心のそのライターさんが欠席となってしまったのでありました。
残念!また場を設けてね~。
一方で、参加者のひとり
ランナーズの若ちゃんからは
逆に取材を受けることになりました。
そうです。
若ちゃんもれっきとした売れっ子ライターですもんね。
取材を受けながらも
ふむふむ、ボイスレコーダーは素早くセットね、
メモは大胆に取るのね、
取材の運び方はスムーズにか
と貪欲に技を盗ませていただきました。
その後の宴会の場には、
「走るカメラマン」も登場。
彼には、山道でぶら下がっている
「毛虫」の撮影方法を教えてもらいました。
でもこの日のもっとも大きな収穫は、
この「走るカメラマン」ことTさんが
最近凝っているという「ドブロクづくり」のことでした。
「こ、これは面白そう!」と
doironの好奇心はすぐにガシッとわしづかみにされてしまいました。
「その話をしたらdoironさんが食いついてくるよ」
という、Tさんの奥様のお見立てどおりでしたな。
「ドライイーストを使ってる」→(たしか家にあったぞ)、
「密閉したら蓋が飛ぶほど発酵するよ」→(うひゃあ、面白そう~)
話を聞きながら
(麹はどこで売ってるかなあ)、
(確か納戸に梅酒の容器が余っていたなあ)
と思考は広がり、
気持ちはどんどん発酵し始めていて、
しまいには
(作ったドブロクの銘柄を決めなくちゃ)
(濁り酒を飲む黒い杯も買わなきゃ)
とどんどん思考は飛び、
好奇心の発酵が進んだぜ。
それにしても仕込みはばっちりでしたよTさん。
その日はつぶらなお目々を
キラキラさせながら帰ったdoironでした。
ところが、少し前に親父が入院し、
また数日後に義父さんも入院して
バタバタすることになり、
好奇心の発酵はあの時のまま止まっていたんだよね。
しばしの時を経て、
義父さんが退院し、
後は親父も来週退院
という運びになったところ、
心の奥底から「早よドブロクしようよ~」
という声が聞こえ始めてきたのだ。
そこに持ってきて、
W杯の日本の初戦の対戦相手のエースの名前
「ドロクバ」
が頻繁にテレビからも流れるようになったものだから
自然に起こった
「ドロクバ」→「ドブロク」
の連想がついに一歩を踏み出させ、
W杯開幕のその日にdoironのドブロクづくりも
いよいよ開幕したのである。
ブラジルが勝った開幕試合を見た後、
さっそく納戸から梅酒の容器を引っ張り出すとともに、
米麹などを買いに
スーパーに走ったdoironなのでした。
そうして仕込んだのがこれ。
詳細はまたのちほど出来上がった頃に。
御堂筋を歩いている途中ですが
ちょっと休憩して
今日はこの話題。
そう、いよいよサッカーW杯が始まったのだ。
早速ホスト国ブラジルが1勝をあげた。
それにしてもヤバいなあ、ネイマール
数日前から日本チームもブラジル入りをした
というニュースが流れている。
日本チームのキャンプ地は
「イトゥ」だとのこと。
じゃあさ、宿舎はやはり
イトゥに行くなら「ハトヤ」かね。
なんちゃって。
こう見えてもdoironはかつてマラソンを始める前は
社会人サッカーチームに所属しておりまして、
毎週末バリバリ試合をしていたのだよ。
でもそのチームは結局負けてばかりの
弱小チームだったけどね。
doironはその左ウイングだった。
(最近は”ウイング”もあまり言わないなあ)
どんな選手だったかというと
ドリブルが超苦手でねえ。
トラッピングがとりわけ下手。
飛んできたボールを止めようとしたら
たいがい相手チームにパスをするような
形になってしまってたもんなあ。
「お前は相手の回し者か!」
とよく言われました
取柄は足の速さと豊富な運動量くらいなのですが、
そんなdoironでも自分でゴールを決めた
3本のシーンは鮮やかに覚えているんだよね。
なんちゃってサッカー人生における
貴重な記憶だ。
憶えているといえば
観戦の方でも記憶に残っているシーンは多い。
W杯関連でもナデシコ優勝シーンをはじめ、
日本をW杯に導いた野人岡野のゴール、
ドーハの悲劇と言われた
ロスタイムでのイラクのゴール。
Jリーグでは
昨年J2で今年はJ1に昇格したものの
またもやJ2降格の危機に
さらされているガンバの2005年のJ1優勝のシーンは
涙なしには語れない。
マラ、トラ、ウル以前は
かようにサッカーに傾倒していた時期もあったのだ。
今回のW杯の見所は何といっても初戦やね。
その戦いぶりで予選通過が読めるでしょうよ。
その初戦は日本時間で15日日曜日の午前10時。
自治会掃除も今月は1日にすでに済ませてあり、
応援する準備は万端である。
今回のW杯公式ウェアは
貧乏なので買えませんが
少し前にアディダスショップで
半額で打ってたので同色のシャツをゲット!
旗は近所の大型スーパーの
スポーツ用品売り場にあったよ。
本番では棒の下についている吸盤で
おでこにくっつけて応援だあ。
日曜日の朝
通りに人通りは途絶え
世間はひっそりと静まり返るだろうて。
そして残る予選の日程は
20日午前7時~
と25日午前5時~。
先ずは予選通過を祈ろう。
さて今年はどんなシーンが記憶に残るだろう。
御堂筋の道修町3丁目の交差点を横切って、
今度は御堂筋の東に向かいます。
昔から、道修町は
薬の町といわれているように、
このあたりは塩野義製薬、
改源、田辺製薬、大日本製薬など
薬関係の会社が多くあります。
若いころは薬といえば、
たまに医者でもらったり、
薬局で買ったりするもの
というイメージしかありませんでしたが、
自分も周りの人間も
常備薬として何種類もの薬を飲み、
しかもやめられなくなってくるものですから、
製薬会社がいかに大きな市場を持っているか
ということを実感するようになりました。
両親だけでも数えきれないほどの薬を飲んでいます。
だからこその、立派なビル構えなんですねえ。
ここらあたりは、
「いつもお世話になっています」
とお辞儀をしもって通らなければなりません。
と、その時「アイスクリーム」の文字が目に入りました。
歩いた日は北海道でも35℃を超える
猛暑を観測した日でした。
大阪でも30℃を超えていました。
ここらでちょっと休憩しましょう。
入ったのは、「ゼー六」というお店です。
これは創業100年を誇る
ちょっと有名なアイスモナカのお店です。
抹茶とストロベリーを買ったところ、
アイスモナカは持ち帰りのみだったので、
しかたなく店の前で立って食べました。
これ。
最中が薄くてパリパリで、
アイスが適度にやわらかくおいしかったです。
さすがに100年続いている味だけのことはあります。
それを食べながら、
ふと横の建物を見ますと、
2階部分の壁に仕切りのようなものがあります。
これ。
これは卯建(うだつ)といいます。
町屋が建ち並ぶ場所で防火壁の役割をするものです。
財力を誇示するためのものとして設けられたことから、
見栄えがしない、さえないことを
「うだつがあがらない」という風になった
その語源ともいえるものです。
薬屋さんが建ち並ぶこの地域では
きっとこの卯建が並んでいたんでしょう。
特にここは乾燥した漢方薬を扱っていた会社なので、
火の元には神経を遣っていたのでしょう。
この会社の背後には、
立派な倉もありました。
アイスでお腹も落ち着いたので
さあまた頑張って歩きましょう。
ここまで6km位を歩いてきました。
すぐにあったのが、
薬の神様の「少彦名神社」。
「神農さん」の名前で、
薬業界の人たちに親しまれています。
その昔大阪でコレラが流行った時に、
薬を作るとともに邪気を払うといわれる
トラの置物を祀ったところから、
トラをシンボルマークにしています。
だからといって、薬の神さんですから
タイガースファンが大挙して押し寄せる
というわけではありません。
その参道には、いろんな薬が展示されています。
中には懐かしい薬もあって、
しばしの間眺めておりました。
すべての薬に敬意をこめて、
お詣りし、そこを後にします。
堺筋の大きな交差点に出ると、
道の向こうに古くて貫録のある建物が見えてきました。
そこでの暮らしぶりが
谷崎潤一郎の小説「春琴抄」に描かれた
という旧小西家住宅です。
その交差点を左折し
難波筋を北に向かうと、
北浜の方に出ていきます。
薬の町から、金融街へと入ってくわけです。
大阪のウォール街といわれる
街の重厚なビルヂングが続き、
土佐堀川に突き当たったところの右にあるのが、
正面に大阪株式取引所に尽力した
「五代友厚公」の銅像がデーンと建つ
大阪証券取引所のビル。
え~、アベノミクス以来、
株には少なからずお世話になっておりますので、
お礼を申し述べておきました。
そして正面が「ライオン橋」こと「なにわ橋」です。
この橋を渡らずに左折し、
少し行くと土佐堀川に架かる橋である
「栴檀木橋(せんだんのきばし)」にさしかかります。
橋の名前は、
昔この橋のたもとに
大きな栴檀の木が植えられていたことから
つけられた名前です。
栴檀とはあの
「栴檀は双葉より芳しい」
といわれるあれですね。
ちなみに、doiron家の近くの公園にも
植わっています。これ。
そしてもう少し続きます。
坐摩神社は「いかすりじんじゃ」と読みますが、
一般には「ざまじんじゃ」の名で呼ばれています。
なぜ「いかすり」なのか。
それはすでに書いたので省略しましょう。
この神社の境内には
「上方落語発祥の地」の石碑があります。
大道芸だった落語を
この地で初めて寄席を建てて
落語を高座で演じるものにした
初代桂文治の偉業をたたえたものです。
この神社の鳥居はとても変わっています。
陶器神社のある西側の参道には
こんな鳥居がありました。
笠木、鳥木、貫ときて、
柱の間にもう一本横の柱が通っています。
これは塀と一体化してあるからでしょうか。
こんな鳥居は初めて見ました。
そしてもう一つ、
東側の坐摩神社の参道には、
大きな鳥居の左右にもうひとつずつ小さな鳥居がありました。
これは三輪山の桧原神社にあった
「三つ鳥居」といわれる形式です。
(昨年5月21日のブログ参照)
形式の分類では「三輪鳥居」といわれます。
いやはやいろんな鳥居があったものです。
そんな静かな神社を出ると
すぐさま人の往来の激しい交差点に出ます。
そしてこのあたりの御堂筋の歩道には
様々なオブジェが見られました。
これは、ヘンリー・ムーアの作です。
「2つに分断された人体」と
名前が付けられてありました。
どうもこの人は、肉体を分断するのが
好きなようでそのような作品を
数多く残しています。
他にもいろいろある彫像を
写真に撮っていると、
カバンを持って忙しそうに歩くビジネスマンに
「ヒマな奴や」と心で笑われている
ような気がしないでもありませんが、
気にせず歩き続けます。
中央大通りを過ぎると左手に
大きな西洋風の伽藍が見えてきます。
真宗本願寺派津村別院、
通称「北御堂」です。
急な階段を上がっていくと、
広大な広場の向こうに本堂がそびえています。
広場の周りにはベンチがずらっとおかれ、
営業まわりのサラリーマンたちの
恰好の休憩所になっていました。
大阪の商人たちは
「御堂さんの鐘が聞こえるところで
暖簾をはっている」というのを
誇りにしていたそうです。
それにしても、近代的なビルが建ち並ぶ
御堂筋沿いにもここまで歩いてきて
歴史が多く潜んでいるのと
癒しの場が多く点在しているのには
少なからず驚きました。
歩いてみるといろんなものが見えてきます。
ミセスも楽しそうでした。
ええ嫁ハン孝行になりましたな。
歩く楽しさを知ってもらえたら、
これからも出ていきやすいってなもんです。
毎回ついてこられても困りもんですが・・・。
そんな思惑を胸に秘め、
北御堂を左折します。
こんな置物のある店先を眺めつつ、
大阪会館を右折して北上していくと、
突き当たりのビルに鳥居が見えました。
まさかビルになってる神社?
と思いきやそのビルの向こうにある
「御霊神社」の鳥居のようです。
おお~その手前に、これは落語「池田の猪買」にも登場する
「美々卯」の本店です。
さすがに上方落語発祥の地に近いだけのことはあります。
そしてこの神社にも「文楽座」の跡地が残ります。
難波神社で人形浄瑠璃をしていた一座が
場所を替え、ここでも座を設けていました。
その後昭和20年3月14日の大阪大空襲で
すべて焼けてしまいましたが、
上方文楽の礎を築いた
文楽座の功績をたたえて
昭和49年に設置されたものです。
doironは人形浄瑠璃も見たことがなければ、
文楽のなんたるかもまったく知らないのですが、
今も各地に田舎文楽の劇場があったりするところを見れば、
さぞや楽しいものなんでしょうね。
ミセスの友達の旦那さんが、
今も文楽関係の義太夫をしているそうで、
たまに見に出かけて行ったりしていますが、
今度一度連れて行ってもらおうかな
とチラッと思ったりもしました。
あくまで、チラッとですけど・・・
髪の毛の妙にふさふさした
狛犬のいる御霊神社を出て、
再び御堂筋に戻る手前にあるのがガスビルです。
昭和8年に建てられたという、
国の登録有形文化財になっています。
近くの御霊神社が全焼したというのに、
ここは焼け残ったんですねえ。
それにしても古き良き時代のビルというのは、
今のビルと違って味があります。
続く