妻の食事介助をしていてつくづく思うことがある。それは、食事に対する考え方が全く私と違っているようで、理解できないということだ。何が違うかというと、妻は口に合わないものは食べない、そして口に合わないものが非常に多いということだ。やれ味が濃いだとか味が薄んだとか、味付けに文句を言うことが多い。それも、さも自分の言うことが正当であるかのように言うから私は腹が立つ。味付けなんて人それぞれ、多少の違いはあるものだ。それをいちいち文句言っていたのでは話にならない。事は味付けばかりじゃない。野菜を切っても、やれ小口切りだとか、銀杏切りだとか、ざく切りだとか、そんなこと少しぐらい違っていても大したことではないだろう。そんなことを聞きながら、食事介助していると、疲れがどっと押し寄せて来る。そこで、夕飯は、ワタミの宅食にしたのだが、好き嫌いは相変わらずだし、やれ食材が変だとか細かいことをぐずぐずと言ってくる。まあ、私が作ったものを言われているわけだから、自分が作っていた時よりも気が楽だが、それでも、あまり細かいので腹が立ってきた。
おそらく食事に対する考え方が大きく違っているのだろうと思わざるを得ない。私は、食事は仕事の一つだと思う。だから、食卓に並んだものは食べる、好き嫌いは言わない。多少、好みに合わなくても、味覚を麻痺させてでも、ただただ食べる。そんな風に育ってきたと思う。親戚の家に行って、食事を出された時などはとても大変だった。ごはん一杯目は完食するのだが、完食すると、お替りどうぞと言ってくる。「もう、十分いただきました。」と言うと、「育ち盛りだから、まだ食べられるでしょう!もう一杯どうぞ!」と言ってくる。それでも断り続けると、打ちのめしが食べれないというのか?と、うちの飯はまずくて食べれられないというのか?と言わんばかり、根負けして、それじゃ、ちょっとだけにしてくださいといった引き下がらざるを得ない。当時は、食べっぷりがそれこそ人物評価にも結び付いてくる時代だったから、そんなことが評判になっても困るので、引き下がらざるを得なかった。そういう経験が、食事は仕事の一つという思いを育てたのだと思う。
私の母親でさえ、友達を家に連れて行ったとき、友達の食べっぷりをみて、あの子は大したものだ。きっと立派になるだろうと評したくらいだ。好き嫌いの多い友達を連れて行ったときなど、逆に、あの子はだめだ!と、一言で済まされた。
そのような時代だったからか、ご飯を何杯食べたということが自慢話になった。そんなこんなで、食べすぎて、おなかパンパンに膨らませて、「よく食べたなあ、満腹だ。」と満足げにあお向けになって、おなかが落ち着くのを待っていたものだ。そんな少年自体の鍛錬のおかげで、普通時に食事をした後、余裕で、ラーメン一杯倉は食べれるようになった。それは、今でも変わっていない。よそったものは綺麗に平らげる、これが、今でも信条になっているし、好き嫌いを言うなどもってのほかだと思っている。まあ、そんな私が世間一般からずれていると言われれば、そうなのかも知れないけどね・・・。