たまには地元のネタも書かないとね・・・ということで、わが地元京都府舞鶴市の
史跡である「田辺城址」を今回は2回にわけて紹介いたします。
まず地理的にですが、京都府舞鶴市は京都市から約100キロほど北にある
日本海若狭湾に面した港湾都市で山を挟んで東西に分かれ、西は城下町として
東は軍港として栄え、現在も海上自衛隊舞鶴地方総監部が置かれています。
歴史を古代にまで遡れば、平安期には醍醐寺の荘園地であり、室町期には守護大名である
一色家が領地として治め、近世には一色家を滅ぼした細川藤孝が丹後国主として入封し、
田辺城を築きました。細川藤孝は室町幕府管領細川家の傍流の家系で室町将軍家・織田信長・
豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将で文化人としても超一流の人物として有名です。
嫡男は細川忠興で関ヶ原の勲功により細川家は肥後熊本へと加増転封となり、
次いで京極家、京極家転封ののちは牧野家が大名領主として幕末に至ります。
田辺城址は舞鶴西地区の中心街にあります。入り口の大手門(本丸櫓門)は平成4年の復元。
城址は現在は公園として整備されています。建造物はすべて復元で遺構としては石垣が残るのみです。
天守台の石垣。天守閣は築かれませんでした。
本丸石垣。僕が子供の頃は城攻めごっこでこの石垣をよくよじ登って遊んでいましたよ。
城址公園の外側にある二の丸石垣。いかにも城址ですがどっしりと残っています。
堀址も残っています。
「黒駒思いのままの記」←こちらも見てやってください。
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まず地理的にですが、京都府舞鶴市は京都市から約100キロほど北にある
日本海若狭湾に面した港湾都市で山を挟んで東西に分かれ、西は城下町として
東は軍港として栄え、現在も海上自衛隊舞鶴地方総監部が置かれています。
歴史を古代にまで遡れば、平安期には醍醐寺の荘園地であり、室町期には守護大名である
一色家が領地として治め、近世には一色家を滅ぼした細川藤孝が丹後国主として入封し、
田辺城を築きました。細川藤孝は室町幕府管領細川家の傍流の家系で室町将軍家・織田信長・
豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将で文化人としても超一流の人物として有名です。
嫡男は細川忠興で関ヶ原の勲功により細川家は肥後熊本へと加増転封となり、
次いで京極家、京極家転封ののちは牧野家が大名領主として幕末に至ります。
田辺城址は舞鶴西地区の中心街にあります。入り口の大手門(本丸櫓門)は平成4年の復元。
城址は現在は公園として整備されています。建造物はすべて復元で遺構としては石垣が残るのみです。
天守台の石垣。天守閣は築かれませんでした。
本丸石垣。僕が子供の頃は城攻めごっこでこの石垣をよくよじ登って遊んでいましたよ。
城址公園の外側にある二の丸石垣。いかにも城址ですがどっしりと残っています。
堀址も残っています。
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