黒駒 寺社参拝記

畿内を中心とした寺社参拝記です。主に西国三十三所や聖徳太子霊場を巡礼中です。

丹後 田辺城址 その2

2009-02-08 12:35:42 | 歴史
田辺城は宮津城を本城とする丹後国主細川家にとっては支城のひとつです。
そんな田辺城が歴史上にその名を大きく残したのが関ヶ原の戦いの前哨戦である
田辺城の攻防戦でした。

細川家は当主が藤孝(剃髪して幽斎と号す)から忠興に移っていました。
徳川側の東軍と石田側の西軍の総力戦の前に石田三成は畿内を制圧すべく
東軍に組みしていた細川家の領地である丹後にも1万5千の兵を送り込みました。
当主忠興は細川軍の主兵力を率いてすでに東軍に合流していたため、丹後の細川軍の
兵力は隠居の幽斎のもとに約500人のみ。幽斎は本城である宮津城を自ら焼いて
田辺城に兵500とともに籠城して1万5千の西軍と対峙することになりました。

ここで幽斎を救ったのが、古今伝授という古今和歌集の秘儀を伝承している当代随一の
文化人であったことです。朝廷は講和を勧めますが、幽斎も隠居とはいえ武将なのでこれを拒み、
古今和歌集の奥義とともに一首の和歌を朝廷に進呈しました。そして決戦に挑もうとしましたが、
朝廷はなんとしても幽斎を落命させてはならないと考えて勅命をもって両軍に講和を命じたので、
幽斎もようやく田辺城を開城して降伏するに至ったのです。

しかしこの田辺城の攻防が本戦である関ヶ原の戦いに大きく影響しました。
田辺城を包囲していた西軍1万5千の兵がこの攻防戦のために関ヶ原での戦いに
間に合わなかったのです。
一方、忠興率いる細川本軍は関ヶ原の戦いで石田本隊に猛烈な勢いで攻めかかり、
その軍功によって丹後12万石から豊前40万石、さらには肥後54万石と加増されて、
有力外様大名となり明治維新を迎えました。子孫には細川護煕元総理大臣がいます。

幽斎が古今伝授の書を勅使に渡した場所は、後に田辺城主となった牧野氏に
よって庭園がつくられ「心種園」と名づけられて今も城址に残っています。
右上方の碑のある小高い丘の松の木が「古今伝授の松」




幽斎の歌碑。子孫の細川護貞侯爵(元総理の父)による揮毫。




細川家が豊前に転封ののちは、京極家・牧野家が入封して城下町の整備が行われます。
今も市内には「二の丸」「三の丸」「職人町」「寺内町」「大手通」など城下町特有の地名が残ります。
また城址付近にはかつての外堀が小川として今も水が流れています。




田辺城址の前にある「明倫小学校」の正門は幕末の藩校「明倫館」の門。僕の母校ですが
この正門は入学式と卒業式の時だけ開門されて通りました。


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