(まだまだしぶとい) チラシの裏日記

鉄道写真中心に、撮影行記やその思い出話、音楽鑑賞記などを

1999年1月

2007年05月25日 | ▲EF62・EF64▲遥かなる山の呼び声▲甲信越・中央東線▲
 給料日から始まった5月攻勢の1週間で気が付いたら7本(36枚撮りRDPⅢ)も撮っていた。よくまあそんなエネルギーが残ってたもんだと半ば呆れるやら驚くやら。
 だがネタのまだまだ多かった20世紀末頃だとこの程度は朝飯前で、ことに信越線にシュプール号が走る1月~3月になると運転日の土日2日間で最低4本、6本7本なんかは当たり前に抜いて帰ったもんだった。
 金曜の夜に『能登』で出撃して翌朝直江津から南下、関山~二本木~新井間や脇野田~南高田間あたりでさんざんぱら撮影し、午後は長野まで南下して『あさま』(新幹線開業後も)で帰京、その後また上野から『能登』で舞い戻っては今度はシュプール・ユーロを追うか、セメント貨物の5374レを追うかして南下して、再び『あさま』で大宮目指し、埼京線経由で帰宅というのがパターンだった。
 1999年1月。
 この時の月間20本(36枚撮り)というバカみたいな自己記録は破られていない。
 元旦の磐西のSL(D51)に始まったこの月の撮影はかなりの範囲に及び、週末のシュプールはもちろん、南武線・上越線にも足を伸ばした。また『能登』での乗り過ごしも2回あり、折り返しの富山駅で413系とかも撮影したりしていた。

回9333レ (松崎にて:17.01.'99)

 何せ、この年のシュプールには「トワイライトExp」のクルマが使われたり、「あかつき」用のレガートシート付き14系15形が使われたりと、関西発客車信越シュプール最後の輝きを放っていた時でもあったから、事前に土日に休みを振込んだ勤務指定をお願いしてガンガン出掛けてたし、平日に南武線とか撮り歩きやってりゃ勢い、月間二桁は軽くクリアーしてしまう。あまつさえモードラ病という難病にかかってたとくればもう撃ちして止まん、怒濤の本数になった。
 今も確かに同じぐらいガンガンと『詣で』に奔走したりしてるが、モードラぶん回して撮影、ってことがかなり少なくなったので月の本数は10本がやっと、というトコロ。列車本数は東北本線が相手だから倍以上に増えたが、列車の速度が速いので、ぶん回して失敗する危険が増えて大事に1コマ切りで撮影することが多くなった。そうやってちまちま撮ってくから1本抜くのにかなりの時間がかかるのも当然。尤もヒトがみたら『まだ多い』と言うかもわからないけど。
 それでも月10本がやっとという状況は、昔に比べればやはり寂しい。ネタはなくても鉄はできるけど、出かけるのに必要な体力とか時間とかが足りなかったり。ことに体力はどうしようもない。明けで疲れて帰って、一眠りしても起きればもう日がとっぷりと暮れかかってるなんてのはしょっちゅう。明けでバッグ担いで「トセイ撮ってくる」とかやってたのは、もう昔話だ。
 ネタが揃ってて、時間と体力があってそれで毎週出かけてたからこそできた月間20本の「大記録」。これを再演する時は、もうないんじゃないだろうか。


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