都営三田線の新鋭6300形とメトロM線の02系の「集約」というか併結しての甲種車両輸送は、共に川重製だったから出来たことだった。丸ノ内線の車両がなんで?という人もいるかと思うが、ここではコキ50000で使われているTR223を仮台車に使って「車体」を運んでる訳で、メジャーゲージの本運転用のボギー台車は後から運んで組み立てるので心配無用なのだ。

初めて都営&メトロの併結甲種輸送は、93年6月にEF66 122(信じられないが、当時は広島区所属だった)牽引で都営の方を東京タよりに繋げて運転された。当時の8860レは4レ「はやぶさ」の15分続行で根府川を通過していたので時間的に撮りやすかったが、根府川近辺に拘れば「2編成一緒」とすぐ判る直線は一ヶ所しかなく、一旦下の真鶴道路まで下りてまた登っては、江ノ浦の直線まで通って撮っていた。
さてこの写真はその1年後に辻堂~茅ヶ崎の直線で撮った、パンタから落下してくるグリス避けのワムハチを控車代用に使って吹田区のEF66 34牽引で運転されたもの。この頃は首都圏私鉄各社とも直巻モーター車からVVVF駆動車への交換が盛んで、走ればロクロク牽引、走れば「ブイブイ」ばかり。新鶴見区のPF1059や1065が牽いて戻ってくるか、或いは吹田区の66でも901牽引という、ネタガマが牽いてなければ撮る人間は多くなく、況して貨物の0代がまだ全機健在なら、多くの鉄ちゃんが「どーせまた」という風に手をこまねく始末で、好きな人間がジョイトレ運転の合間に東海道本線のブルトレを撮りながら、今日はあったんだっけ・・・と思い出した時に撮っていた。
とは言え、国鉄時代はブルトレも牽いていた機の牽引で、見方によっては原型にみえる0代の牽引だったから喜んだのは間違いない。というのも、貨物の66の0代は当時夏場屋根上に外付けのエアコンが載って「外観を悪くする」のも多かったからだ。後にフルシーズン搭載になって、0代には無くてはならないアイテムになるエアコンも、夏場以外は取り外されてその跡に蓋をして走っていた訳だが、この6月という時期はそろそろ載るか載らないかというまた微妙な時期だった。

初めて都営&メトロの併結甲種輸送は、93年6月にEF66 122(信じられないが、当時は広島区所属だった)牽引で都営の方を東京タよりに繋げて運転された。当時の8860レは4レ「はやぶさ」の15分続行で根府川を通過していたので時間的に撮りやすかったが、根府川近辺に拘れば「2編成一緒」とすぐ判る直線は一ヶ所しかなく、一旦下の真鶴道路まで下りてまた登っては、江ノ浦の直線まで通って撮っていた。
さてこの写真はその1年後に辻堂~茅ヶ崎の直線で撮った、パンタから落下してくるグリス避けのワムハチを控車代用に使って吹田区のEF66 34牽引で運転されたもの。この頃は首都圏私鉄各社とも直巻モーター車からVVVF駆動車への交換が盛んで、走ればロクロク牽引、走れば「ブイブイ」ばかり。新鶴見区のPF1059や1065が牽いて戻ってくるか、或いは吹田区の66でも901牽引という、ネタガマが牽いてなければ撮る人間は多くなく、況して貨物の0代がまだ全機健在なら、多くの鉄ちゃんが「どーせまた」という風に手をこまねく始末で、好きな人間がジョイトレ運転の合間に東海道本線のブルトレを撮りながら、今日はあったんだっけ・・・と思い出した時に撮っていた。
とは言え、国鉄時代はブルトレも牽いていた機の牽引で、見方によっては原型にみえる0代の牽引だったから喜んだのは間違いない。というのも、貨物の66の0代は当時夏場屋根上に外付けのエアコンが載って「外観を悪くする」のも多かったからだ。後にフルシーズン搭載になって、0代には無くてはならないアイテムになるエアコンも、夏場以外は取り外されてその跡に蓋をして走っていた訳だが、この6月という時期はそろそろ載るか載らないかというまた微妙な時期だった。
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