54 アキレス腱つながった
歩行訓練は、二日目。朝、足湯で温めてから家の中を歩く。ひたすら狭い家の中をぐるぐる巡る。洗濯物、クッション、孫のおもちゃ、数々の障害物を避けながら巡る。一周7メートルほどだから10周しても100メートルにもならない。松葉杖への頼り度を低下させつつ、自立歩行の可能性を考えながらひたすら歩く。
配偶者に洗濯物等の障害物の除去を依頼する。「外で歩けば?」 「・・・・・・。」
外は、車や凸凹など障害が多い。
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西賀茂の正伝寺に行って来た。数年前の寒い雪の日だった。
山門
猪子の児わたしの庭
京都の寺巡りに魅了された理由の一つに、「血天井巡り」なるものがあった。血天井?
寺の天井板に切腹した武将の血痕が付いている。東山の養源院、大原の宝泉院、鷹峯の源光庵、その他数か所あるが、その話というのは関ケ原の時代だ。
徳川家康は、石田三成の策略と知りつつ、京都から、会津上杉征伐に遠征する。その留守中に三成は、西の毛利・東の上杉と結託し家康を挟み撃ちに滅ぼす作戦だ。家康はそれを知りつつ起死回生の天下取りの勝負に出るのだ。従って、留守中の居城(伏見城)は、捨城になる。三成が必ず攻めてくる時には捨てる城である。その留守を守る武将に、名乗り出たのが「鳥居元忠」。
当時、「三河武将の鏡」と言われた元忠は、この時すべてを悟り、家康の天下取りに一命をささげた。今川家の人質時代の13歳の時から家康に仕えた彼は、戦場での「感状」さえも断った。戦場においてはその武功を後の報償の為に、その場で「感状」なる書置きを大将からもらっておくのが一般的だ。元忠は、自分にはそのようなものは必要なしと言った。生涯家康以外に仕える気のない自分には、そんな形式は不要という事だ。
さらに、伏見城から出立する家康に、「討ち死にするわが身に兵は不要」と、さらに「殿が天下を取りなされる為に一兵でも多くの兵をお連れめされよ。」と言ったという。家康は、最後の夜、深夜まで、酒を酌み交わしその温情を惜しんだという。
そして、その通り元忠は、西軍の数万の大軍を前に華々しく討ち死にし、関ケ原に西軍が到着するのを遅らせて家康の天下取りに貢献した。
その功績をたたえて切腹時の血痕残る
廊下板を天井に掲げた寺がある。その一つが、正伝寺。
西賀茂は、市バスの終点「西賀茂車庫前」で降りて歩いて行く。京都の西北方面。五山の送り火の船形のふもとにある。山門から登りの続く参道の突き当りに入り口があり、すぐ左本堂は伏見城の遺構だ。小堀遠州作の庭園は、「猪子の児渡しの庭」竜安寺の石庭に似て七五三調になっていて、ここは石ではなくサツキの刈込を配している。さらに遠く比叡山を借景にしているのが壮大だ。うっすら雪をかぶった様子を楽しんでいたら屋根から大量の雪が落ちて来て驚かされた。「喝」!
そして血天井。人の形も生々しく残っている。忠義の武将たちも断末魔の苦しさに、床をつかんだのであろう、手の形が痛々しい。このような形で冥福を祈るのも一つの形かと思う。
狩野山楽の襖絵や、蒙古襲来の時の「蒙古降伏祈願文」など、寺宝は国立博物館に預けている。
もう一度庭に目を向けて、しばし思いにふける。
先ほどの祈願文の最後に、
世の末の 末の末まで 我が国は よろずの国に すぐれたる国
と書かれた和歌が伝わっている。
昔の高僧は、真に日本の将来を考え、国難に際しては心を込めて祈願していたのだ。
因みに当寺の正式名称は、「正伝護国禅寺」
良いお寺だ。