見る影もない
古来、このことばは、一時存在感を発揮した大きな人物や組織・団体が、現在に至り存在感を発揮出来ないか
今やそれどころかその可能性も見いだせない時に使う。
「先日、アントニオ猪木が単独、北朝鮮に赴き高官と会談した。帰国後、会見したが、その姿は
見る影もない ものであった。」
「政権政党であった民進党。以前の民主党は、前原さんが党首になった矢先、女性幹部の不倫報道に
より支持率が上がらない。今や 見る影もない。」
「入団当時の藤波晋太郎。いつでも三振が取れる球威を誇り、フォームの欠点などのアドバイスには
耳を貸さない傲慢ささえ気にならなかった。自信に満ちていたからだ。それが今や、一つのデッドボールで委縮し
ストライクが入らない。もう 見る影もない。トレードの可能性すらある。」
「私は、実はテニス選手だった。若い時はトーナメントにも参戦し若い人の指導もしていた。
しかし、今や 見る影もない。」
しかし、これは誤用である。私のようにその昔、さしたる存在感も発揮していない人間には使わない。
(自分で言うのは勝手だ。)
さて、洛陽 21 番 法性寺は、見る影もない寺だった。(その時はそう思った)
勿論現在の、住職のせいではない。長い長い歴史の中で埋没したのだろう。
平安初期、藤原忠実の創建。その後、歴代の藤原長者の所縁のお寺になる。
中でも藤原忠通は、道長・頼道の4代後の人で、一条家・九条家・近衛家・鷹司家の元になった人物だ。
法住寺殿と呼ばれた。東寺の寺域は現在の東寺や東福寺も及ばない広大なものだったようだ。
近くの東福寺塔頭 同聚院の「不動明王像」がここの創建当時の仏像らしい。(以前紹介したが凄い憤怒の顔が怖い)
また、写真の国宝千手観音も創建当時からの御本尊だ。いずれも当時の勢いを感じる雄大な仏像だ。
京都には往時の隆盛からは考えられない小さなお寺が多いが、ここはその格差が半端ではない。
伏見街道沿いにあるが、普通の民家並みの軒幅で、近くの交番で聞いてやっと見つけたほどだ。
門は閉まっていて、インターフォンを鳴らして出て来てもらったのが、お年を召したおばあさんだった。
あんじゅ様か住職の奥様か?
品格を感じる丁寧な対応で、安心したが「御本尊はどこで拝めば良いですか。」「どうぞそこで正面向いて拝んでください。」
玄関先ではあったが、正面方向に安置されているらしい。
法性寺
玄関先からは入れなかったので、往時をしのぶ歴史的な存在感はうかがえない。
HPから写真を拝借。国宝の立派な仏像だ。一般公開すれば人気が出るだろうが、お寺のポリシーがそうしないらしい。
それも一つの「矜持」なのだ。見る影がないわけではない。