順徳天皇は 84代である。(訂正)
逆順でたどる平安京の天皇たち
第83代 土御門天皇 → 第84代 順徳天皇
(ココだけ正順)
土御門在位 |
1198年~1210年 |
土御門生没 |
1195年~1231年 |
在位中年号 |
建久・正治・建仁・元久・建永・承元 |
先代・次代 |
後鳥羽天皇→当代→(異母弟)順徳天皇 |
御陵 |
金原陵 |
父・母 |
後鳥羽天皇・源通子 |
中宮 |
西園寺姞子(大宮院) |
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順徳在位 |
1210年~1221年 |
順徳生没 |
1197年~1242年 |
在位中年号 |
承元・建暦・建保・承久・ |
先代・次代 |
土御門天皇→当代→(子)仲恭天皇 |
御陵 |
嵯峨南陵 |
父・母 |
後鳥羽天皇・藤原重子 |
中宮 |
今回は、偉大なる父天皇を持つ二人の天皇を同時に取り上げる。異母兄弟ではあるが、性格が全く違った。
極めて温和な性格で世情に疎い兄と、何事にも聡明で激しい気性の弟であった。当然後鳥羽上皇の寵愛は弟順徳帝に向く。
まず、時代背景を確認する。頼朝の鎌倉幕府の発足は、極めて危うく頼朝の死と共に大混乱に陥る。2代将軍頼家の政務停止、その後の北条氏の権力争い。そして、頼家も3代実朝も暗殺で命を落とす。一方、宗教界も比叡山の寺門派、山門派の争い、新興勢力の法然や親鸞の台頭は「建永の法難」により遠島処分に至る。禅宗では、栄西が建仁寺を創建している。また、文化的には、藤原定家が歌壇のトップに君臨し、運慶・快慶の全盛期でもあった。
法然
あらゆる事が、平安の太平から源氏平家の戦乱を越えて、転換期を迎えていた。
天皇史には、突然誠に正直な善人の天皇が出現する。土御門帝は、承久の変では主役ではない。父後鳥羽院と弟順徳院のお二人に従っただけだ。しかし自ら遠島を申し出されて土佐に流された。父の隠岐、弟の佐渡と比べれば温暖な地で、その後阿波・鳴門に移る。世間はその境遇からいずれ許されて還幸するとのうわさが常にあった。また、その様な過酷な状況でも旺盛な生殖活動の結果21人以上の皇女・皇子を残している。しかし、遂に都の地を踏むことはなかった。
御陵も都に遠く現在の長岡京市の金原陵に葬られている。別名、土佐院・阿波院ともいう。
順徳天皇の治世は同時に父後鳥羽上皇の院政時になるが。自らも「禁秘抄」を著すなど積極的に宮中儀式の定式化(今で言うマニュアル化)に尽力した。倒幕を考えていただけではなかった。また、藤原定家との交流も深く、百人一首の最後は、順徳院の
百敷(ももしき)や古(ふる)き軒端(のきば)のしのぶにも
猶(なほ)あまりある昔(むかし)なりけり
である。
因みに、第1番の 天智天皇
秋(あき)の田(た)のかりほの庵(いほ)のとまをあらみ
わが衣手(ころもで)は露(つゆ)にぬれつつ
は、あまりに有名だ。
順徳天皇は、承久の変の第二の首謀者で、佐渡への遠島は仕方がない事であった。20年に及ぶ長い長い隠遁生活であった。新潟の地で火葬された後、大原に葬られる。
次回は、ご謀反の天皇 後鳥羽天皇だ。
逆順でたどる平安京の天皇たち
第85代 仲恭天皇 (廃帝)
御真影なし
先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
九條陵 |
諱 |
懐成 |
父親 |
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母親 |
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子女 |
この天皇は誠に気の毒だ。別称が、九条廃帝、後廃帝、はたまた半帝。
先代の順徳天皇が、父後鳥羽上皇の倒幕の実行により急遽譲位した結果即位したのだ。即位したのかどうかも不確かだ。即位の礼も大嘗祭も行われた記録はない。当然、乱後、幕府の命により退位・譲位させられた。無論3歳の幼児ではすべてが自らの判断ではない。
ここまで摂関家の九条家がバックにいたが、倒幕の計画を西園寺公経が密告した事から、これより摂関家の外にあった(精華家)西園寺家の時代が来る。勿論すべて藤原氏の流れではあるが・・・。
承久の変を「神皇正統記」は、どう書いているか。後白河法皇の時代以降政権が乱れたが、源頼朝が戦乱の無い世の中に統一した。臣下ではあるが、頼朝の威光が天下を治めたのだと言い。その後頼朝の妻政子及び、北条家などの陪臣が政治を専横したが、倒幕はまだ神意に基づくものではなかったと言っている。つまり、後鳥羽院は世間(神意)を読み誤ったと断じている。一方、後醍醐天皇は、誠に思慮深く正統な天皇として、世の中を天皇親政に導いたと絶賛している。
仲恭天皇については、一行のみ。
『廃帝。懐成親王、順徳院の太子。御母は東一条院藤原立子で、故摂政太政大臣良経の娘。』
と、だけ書かれているのみ。
平家と共に、瀬戸の海に身を沈めた安徳天皇もそうだが、幼くして自分の判断ではなく政治にほんろうされた天皇だった。
ただし、お種は残しておられる。16歳で亡くなる直前おひとりだけ皇女を残している。
男子の証、生殖のお勤めは果たしていた。せめてもの救いだ。
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86代 後堀河天皇
在位 |
1221年~1232年 |
生没 |
1212年~1234年 |
在位中年号 |
承久・貞応・元仁・嘉禄・安貞・寛喜・貞永・ |
先代・次代 |
仲恭天皇→当代→四条天皇 |
御陵 |
観音寺陵 |
父・母 |
守貞親王・持明院棟子 |
中宮 |
九条・近衛良子 |
承久の変の事件処理の真っただ中の即位であった。当代の天皇始め3人の上皇が揃って「謀反」を起こしたのだから異常な事態であった。
ここでも天皇を空位には出来ないのが日本らしい。後白河上皇の皇子である高倉天皇のそのまた皇子の中で、皇位につけなかった守貞親王が唯一存在していた。結果、その子後堀河天皇の登場だ。
母は、持明院棟子。その母は、頼朝の命を救った池禅尼(いずれ詳しく書く)の娘だ。つまり幕府の恩人の子孫なのだ。父も頼朝の姻戚関係者だ。多少無理はあるが、血統の中でも比較的優位な理由があった。幕府執権は、得宗家北条泰時で最も安定した時代だ。
残念ながらこの天皇も後世に継がれるような功績はない。すぐ四条天皇に譲位するが、院政も2年足らず、窮屈な一生を送ったに違いない。諡号を後堀河、父には後高倉の追号を贈る。
神皇正統記には、天皇にならずにその子が即位した事で、追号を贈られた例を列挙している。
文武天皇の父草壁に長岡天皇。
淳仁天皇(淡路廃帝)の父(舎人親王)に儘敬天皇。
光仁帝の父には田原天皇。
また、早良親王には怨霊を恐れてご自身に崇道天皇を贈っている。いずれも事情があり歴代天皇には入らない。後堀川天皇については残念ながら神皇正統記にも功績は書かれていない。
次回から、いよいよ承久の変を詳しく書いていく。
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87代 四条天皇
在位 |
1232年~1242年 |
生没 |
1231年~1242年 |
在位中年号 |
貞永・天福・文暦・嘉禎・歴仁・延応・仁治・ |
先代・次代 |
後堀河天皇→当代→後嵯峨天皇 |
御陵 |
月輪陵(泉涌寺に埋葬された初見) |
父・母 |
後堀河天皇・九条竴子 |
中宮 |
九条彦子(宣仁門院) |
承久の変の後、後鳥羽院の直系の系統には絶対即位させなかった。しかし、四条天皇には兄弟も自身の皇子もいなかった。従って、仕方なく後鳥羽を祖父に持ち共に島に流された土御門院の子、後嵯峨天皇を天皇にせざるを得なかったことは、前回書いたが、
その、繋ぎの天皇が四条天皇だ。従って業績は書くべきものがない。
なにせ、2歳で即位している。12歳で崩御された。中宮はいたがいかに精力旺盛な天皇家でも、生殖行為には及ばなかった。
死因は、「女性の陰部を覗こうとして、廊下に蝋を塗って女官たちが滑って転ぶのを見ようとしたところ、自ら転んで脳挫傷で死んだ。」という。また、後鳥羽院の「怨霊」のせいとも言われる。
誠に御不幸な天皇だ。
時代は、飢饉の連続、その為天然痘の大流行の時代でもあった。その証拠に、わずかな間に元号がいくつも変わっている。
在位10年の間に、7つの元号だ。