アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

356 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 両統分裂の解説 幕府の朝廷弱体化戦略?

2018-04-11 08:47:29 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち  (解説)

後嵯峨

   ①後嵯峨天皇

 (持明院統) (大覚寺統)

 ②後深草天皇  ③亀山天皇

   |      |

 ⑤伏見天皇   ④後宇多天皇

   |      |

 ⑥後伏見天皇  ⑦後二条天皇

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 ⑧花園天皇   ⑨後醍醐天皇(南朝第1代)正式皇統

   |

 ⑩光厳天皇(北朝第1代)

後嵯峨以降の皇位順番

ここまで書いていて、逆順なので両統てい立の経緯を書かないと読者に理解してもらえない事が判明した。

なぜ、持明院統と大覚寺統の対立が始まったのか?

簡単に書く。88代後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇、第4皇子亀山天皇から話が始まる。兄弟で天皇位を継いだので、その次をどうするか?当たり前なら長兄の後深草の皇子に行くはずが、弟の亀山の皇子を皇太子にし、その後、後宇多天皇が誕生する。後嵯峨の遺言が曖昧で、荘園の相続については詳細に残しているのに、後継については明確にしていなかった。


同母の兄弟でありながら母の大宮院(西園寺きつ子)も、やはり弟の亀山の血統に継がせたがった事から、亀山・後深草の仲は一層悪くなる。ここから治天(上皇として院政を行い実質的な権力者)、天皇、皇太子、場合によっては鎌倉将軍(この頃は源氏が滅んで宮将軍の時代)の主要ポストを争う事になる。当然、天皇が大覚寺統なら治天も大覚寺統、天皇が持明院統なら治天は持明院統に自動的に代わる。ただし皇太子は時の幕府が介入して両統てい立するようにした。

また、経済的なバックとしての荘園も、全国100か所の大荘園群(長講堂領)を後嵯峨から相続した、大覚寺統は全国200か所に及ぶ八条院領を後に得る。遂には、公家衆も当初はどちらつかずにいたが、両統に分かれて対立することになる。

伏見天皇

さて、憤懣やるかたない後深草は、北条得宗家の執権時宗に画策し自らの皇子を次期天皇(伏見天皇)にすることの約束を取り付けた。加えて、亀山天皇の中宮の兄、西園寺實兼があろうことか、後深草の立場を支持する。(前回書いたが、中宮と亀山天皇の不仲が原因)こうして、徐々に複雑な事情が重なって行く。

画像

鎌倉幕府から見ると、王家分裂により権力の分散とその低下を狙ったものとも言われている。ちょうどこの頃には、藤原摂関家も分家を繰り返し、近衛家、一条家、冷泉家などに分裂している。古代から続く国家権力が歴史的転換を迎えていたのだ。世界的にも王朝が、兄弟、いとこ、分家と弱体化して滅ぶ例は枚挙にいとまがない。

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335 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 93代 後伏見天皇 流浪の天皇?

2018-04-09 15:38:22 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

93代 後伏見天皇(持明院統) 両統の争いが激化する中の天皇

次帝

後二条天皇(大覚寺統)

生年~崩御

1288年 4月 5日~1336年5月17日

在位

1298年 8月30日~1301年3月 2日

在位中年号

永仁・正安

御所

御陵

深草北陵

父・母

父 伏見天皇 母 五辻経子

 

 遂に両皇統の大混乱の極致の時の天皇にさかのぼって来た。実は、父の伏見天皇に至って、持明院統の天下に治まったかのような様相を呈した。院政・天皇・皇太子・鎌倉将軍のすべてを持明院統(以下G)で占めたのだ。当時、「関東(幕府)申次」という重要な職務があった。当時の申次は西園寺實兼という公家で北条執権と申し合わせて次期天皇を決めていた。その實兼の妹が、大覚寺統(以下D)の亀山天皇の中宮であったが、夫婦仲が悪く冷遇されていた為、Dの後宇多天皇の皇太子にGの伏見天皇を推した。その皇太子もGの後伏見天皇としたのだ。当然、Gの後深草の院政が続いた。この時点で、Gの完全支配が完成した。

その後のDの反撃は前回の後二条天皇の時に書いた。

事実上の後伏見天皇の出番は、譲位後にある。後任天皇のDの後二条が若くして崩御すると、弟のGの花園天皇の時代には院政を始める。いわゆる治天の君となったのである。その後、一旦Dの後醍醐天皇の時代になるが、鎌倉幕府は、倒幕(謀反)の首謀者の後醍醐を廃し、Gの光厳天皇(後日北朝初代の天皇とされる)に成り再び後伏見は院政を行う。しかしすでに実権は発揮できず建武の親政以降、G側の光厳天皇や花園上皇と共に京都を逃れ流浪の後、捕らえられ出家した。その流れは北朝になって行くが、正式な皇統にはならなかった。

光厳上皇

以上書いて来て、ご理解いただけているか甚だ不安だ。

要するに、禁中御簾奥深くにいらしゃるべき高貴な血統の天皇が、庶民もあり得ないような逃亡生活になり、野原に過ごしたのである。自らの足で歩き、矢を受け戦い逃亡した。歴史上、暗殺や誅殺された天皇もいるが、このように自らの責任ではなく苦労された天皇は珍しい。

それでも記録に残るだけでも16名以上の皇子・皇女を残している。生殖はやはり高貴な方の義務なのだ。一方、文化的業績は残っていない。(手元の資料を見る限り記載はない)陵墓は深草北陵。深草12帝のおひとりである。

次回は、父伏見天皇

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334 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 94代 後二条天皇 多くの上皇たちに翻弄される

2018-04-09 07:57:33 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

94代 後二条天皇 

画像

改めて、この前後の天皇を整理する。

88代 後嵯峨天皇から以降、

89代 後深草天皇(持明院統)

90代 亀山天皇(大覚寺統)

91代 後宇多天皇(大覚寺統)

92代 伏見天皇(持明院統)

93代 後伏見天皇(持明院統)

94代 後二条天皇(大覚寺統)・・・今回紹介する天皇

95代 花園天皇(持明院統)

 

この天皇の最大の特徴は、在任中5名の上皇が存在した事だ。89代から93代まで5代に亘るお歴々が君臨していた。ご自身が大覚寺統なので、亀山上皇や後宇多上皇の院政であった。当時の常識として早々に譲位して、上皇として院政を行う事で権勢をふるうのが当たり前であったのだ。この時代以前や、戦国時代のように在位期間が長く上皇になれず崩御するケースは、即位の儀式を行う財力もなくなっていた為という事だ。

次帝

花園天皇(持明院統)

生年~崩御

1285年 3月9日~1308年9月10日

在位

1301年 3月2日~1308年9月10日

在位中年号

正安・乾元・嘉元・徳治

御所

二条富小路

御陵

北白川陵

父・母

父 後宇多天皇 母 堀川基子

後二条天皇は、持明院統の天皇が2代続いたことから、祖父亀山上皇が鎌倉幕府に強く申し入れた結果の即位であった。事実上南北朝時代のような様相を呈し、世間は

「天の下の人、又押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」

と、世相を嘆いている。国民の幸せのみ願う皇室が、自らの皇位を争うとは嘆かわしいとでも言いたかったのだろう。幕府は得宗家の権威も落ちた10代執権師時の時代。元寇の後の幕府の衰退の兆しも始まっている、そんな時代の天皇だった。

後宇多上皇

在位中、「後二条院歌合」という歌会・歌合を度々催すなど、文化的貢献は多く、自ら「後二条院後集」を残している。

一方、天皇在位中後宇多上皇の指示で 「新後選和歌集」を編纂しているが、大覚寺統の正当性を主張する政治的行為と言われている。何につけても、両統の対立の中で翻弄された。24歳の短い人生だった。墓所は北白川陵である。

次回は、持明院統 後伏見天皇

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333 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 95代 花園天皇 妙心寺創建の天皇

2018-04-06 08:14:53 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

95代 花園天皇 父や兄に翻弄された天皇

先帝

後二条天皇

次帝

後醍醐天皇(南朝)光厳天皇(北朝)

生年~崩御

1297年 8月14日~1348年12月2日

在位

1308年12月28日~1318年3月29日

在位中年号

延慶・応長・正和・文保

御所

? 上皇になって萩原殿へ

御陵

十楽院上陵

父・母

父 伏見天皇 母 洞院季子


花園天皇真影

花園天皇は、自ら親政を行えた時期はない。即位時は、父の伏見上皇の院政、後半は、兄の後伏見上皇の院政だった。そして盟約通り持明院統の花園天皇は、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位する。その後の混乱は今まで書いた。

持明院統の天皇に戻れば自ら院政の希望もあった。因みに後醍醐より9歳若い花園上皇であったからだ。しかし戦乱の世に突入し政治の手腕を振るう事は叶わなかった。それでも甥の光厳天皇を熱心に教育したらしい。

しかし、この天皇の大きな功績は二つある。仏教への関心が深く、特に禅宗に帰依し宗峰妙超や関山慧玄のもと現在の妙心寺を創建した。算盤面と言われる経営上手な妙心寺は、広大な勢力を誇る臨済宗の大本山になる。その礎をつくった天皇だ。また、自らの日記「花園院宸記」全7巻を残している。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての貴重な一次資料となっている。

異属蜂起の相次ぐ世情にあって、ひたすら自重し、文化的・宗教的活動に終始し高いレベルに達したとどの資料にも伝わる。世が世なら聖徳ある天皇として評価されたはずだった。

なお、「神皇正統記」では、『実父伏見天皇の崩御の時も喪に服さず、これは前例のない事。』と、こき下ろしている。南朝方親房公によって不当におとしめられている。

52歳まで宝寿を全うしたが、南北朝の統一は見れなかった。

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番外 日本の伝統とモラル  (男は住みにくい)

2018-04-06 07:59:08 | 日記

大相撲の話題が尽きない。土俵上で倒れた舞鶴市長を介抱した女性に、土俵から降りるようにアナウンスしてしまったらしい。

二階のアナウンス室からは事情が分からず、野次馬が上がっていると勘違いして、仕来たり通りアナウンスしたようだ。

「土俵 女性禁止」の画像検索結果

あれっ?だったら女性にではなく、皆さんにアナウンスすべきではないか?

協会も正式にお詫びした上に、当該女性たちに感謝に意を表明した。

残念なのは、これでまた、土俵の女人禁制が、テレビが一斉に批判し、「それはおかしい!」とやかましい事だ。

女性専用車に男性が乗ったら大騒ぎするご婦人たちが!今度は女性差別だと主張するのだ。

「土俵 女性禁止」の画像検索結果

救命行為は別として、伝統的仕来たりは、その主宰団体に任せるべきだ。他人の家庭の仕来たりをとやかく言うべきではない。世間の常識とは違うチョンマゲを結っている集団に、非常識だと騒ぐではない。そんな頑なな伝統があって良いではないか。

貴女には関係無いですよ!

ここまで来た!男性の危機。

世の男性は、このような女性たちの過剰・過激な論調にもううんざりなのだ。

一部の不埒な男の仕業であり、一方常識的な冷静な女性もいらっしゃる。

もう、企業ではスムーズなコミュニケーションは望めなくなっているのだ。正当な指導もハラスメントになるし、ちょっとした親切はいつセクハラに認定されるか分からないのだ。企業に入っても家庭でのしつけが十分ではない女性も多いが、その様な女性ほどハラスメントに過剰になる傾向がある。確かに家庭で厳しく指導を受けた方は、企業でも厳しさに順応性がある。

企業ホットラインも「タレコミ」の氾濫で人事は疲れている。もういい加減にしてくれ・・・・・。


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