アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

340 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 亀山天皇 南禅寺創建の天皇

2018-04-15 09:27:36 | 日記

 

逆順でたどる平安京の天皇たち

90代 亀山天皇 南禅寺を創建した天皇

 

 
   
   
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 

 


在位期間
1260年1月9日 - 1274年3月6日

元号

正元
文応
弘長
文永

先代

後深草天皇

次代

後宇多天皇


誕生

1249年7月9日

崩御

1305年10月4日

陵所

亀山陵

恒仁

別称

禅林寺殿
万里小路殿
文応皇帝

父親

後嵯峨天皇

母親

西園寺姞子(大宮院)

皇后

洞院佶子(京極院)

中宮

西園寺嬉子(今出川院)

女御

近衛位子(新陽明門院)

子女

後宇多天皇
恒明親王
ほか(后妃・皇子女節参照)

 「ご花街 おどり」の画像検索結果

休日に「都をどり」を見て来た。京都の舞踊発表会は、5花街それぞれあるが、井上流の祇園甲部は、今年耐震工事の為、京都北白川の、京都工芸繊維大学「春秋座」で行われている。

毎年、5花街の内3月末の北野上七軒「北野をどり」から始まる。そして、「都をどり」、宮川町の「京おどり」、先斗町の「鴨川をどり」、秋になって祇園東の「祇園をどり」が行われる。それぞれ流派が違いその華やかさを競う。「をどり」と「おどり」の違いは?それは後日・・・・。

「都をどり」の画像検索結果「都をどり」の画像検索結果「都をどり」の画像検索結果寸分たがわぬ所作の見事さは脅威だ。

 一緒に見に行ったメンバーからは、逆順で天皇を紹介されても分りにくいとのご非難が相次いだが、勇気をもって進める事にする。

亀山天皇は、次回取り上げる後深草天皇の弟だが、両親に好かれる明るい性格だったようだ。結果的に、大覚寺統の始まりにつながり兄の持明院統との対決を生む。

在任中の出来事は、すでにほとんど書いた。元寇は、亀山上皇の院政時にあった。息子の後宇多天皇と共に

「身を以って国難に代える祈願」

と、伊勢神宮に願文を残している。この身をもっての、「身」は、亀山なのか後宇多なのかが大論争となったようで、いまだに学界の決着を見ていないようだ。(どちらでも良いが?)

Kyoto Nanzenji01s5s4272.jpg南禅寺三門(絶景かな・・・・・。)

なお、父後嵯峨天皇の離宮禅林寺永観堂の南に、自らの離宮を営み後に、南禅寺となる。五山の上という大寺院を創建した功績は大きい。

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339 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 なぜ?藤原氏は天皇にならなかった?

2018-04-14 08:08:18 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

箸休め コラム

「藤原鎌足」の画像検索結果中臣(藤原)鎌足

藤原家は、なぜ、天皇にならなかったか?よくある質問だ。

平清盛、源頼朝、足利義満、織田信長、豊臣秀吉など皇位を狙ってもおかしくない英雄は、あまたいる。弓削道鏡や平将門などあからさまに皇位を狙った人は、不幸な死に方をしているという事になっている。

筆者には答えるほどの知見はないが、「旧家の本家と分家」の関係に例えればどうか。本家が衰退し分家が如何に栄えても、本家は本家、分家は分家だ。本家の当主を「天皇」と思えばいい、分家は財力や権力をどんなに大きくしても、天皇ではなく、「将軍」とか「大臣」という地位で政治を牛耳れば本質的な欲求を満たすことが出来る。法事や祝い事の時に、本家の「天皇」を担いでいれば良いのだ。ただ、日本の皇室は、純粋に国民の幸福を祈る使命を守っているので、担いでいるという表現は当たらないが、形式的な権力構造は「本家」の皇族を頂点にしている。本家も、自分に近い親戚を重用するより、優秀な分家の人材を使う方が乗っ取られる危険性が少ない。藤原家は、忠実な分家として発展した。

「天照」の画像検索結果アマテラスと天児屋命

藤原家は、中臣鎌足を祖とするが、その祖先は神話の「天児屋命」であり天照大神に仕える。天の岩戸の伝説や、天孫降臨の際にも伴っていて、皇室に最初に仕えた「神」の子孫であるとなっている。従って、藤原家は、神になるのでなく「皇室(神)に使えること」に決めたのである。その事で存続の意義を見出したのである。一方、源氏も平家も、桓武平氏、清和源氏などと、皇室の分家である事がはっきりしている。いくら勢力をつけても「分家」は「分家」なのだ。

「将門」の画像検索結果逆賊?将門

源平藤橘(源氏、平家、藤原、橘)の4氏しか日本には姓はない。足利は源氏の宗家、北条は平家の分家、一条とか冷泉、近衛とかすべてが藤原氏である。唯一、歴史に別の姓をもうけたのが、豊臣家なのだ。彼は、征夷大将軍は源氏しかなれない、関白や摂政には藤原氏しかなれない事を知ると、最初は近衛氏を名乗る。しかし、人臣を極めて天皇になる代わりに「豊臣秀吉」を名乗った。残念ながら豊臣は、秀次、秀頼の3名しか名乗れなかった。

このように、日本人の誰もが皇室である「本家」の「分家」なのだ。本家に血統の近しい人から順番に男子男系でつないできたのだ。

従って、我々に天皇の使命は来ない。ご安心あれ・・・・・。

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338 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 91代 後宇多天皇

2018-04-13 08:51:59 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

91代 後宇多天皇 元寇の時代の天皇

元号 文永
建治
弘安
先代 亀山天皇
次代 伏見天皇

誕生 1267年12月17日
崩御 1324年7月16日
大覚寺殿
陵所 蓮華峯寺陵
世仁
別称 大覚寺殿
金剛性
父親 亀山天皇
母親 洞院佶子


後嵯峨天皇から後醍醐天皇まで、両統の争いを書いたので、後宇多天皇の立ち位置はすでに紹介した。父、亀山天皇が非常に両親に好かれた事で、その兄である後深草上皇の皇子を差し置いて即位した。

因みに、最愛の皇后は、その叔父後深草天皇の皇女を頂いている。つまりは従妹の婚姻だが古代は当たり前のことだ。

両統の親密さなのか、両統融和の意図があったのか、いずれにしてもまだ両統の争いも激しくない時代だった。

Mōko Shūrai Ekotoba.jpg元寇

また、在位中の大事件が「元寇」である。普通、元寇の時の天皇は誰だか分からないが、執権は有名な北条得宗家の時宗である。

御承知の通り「神風」が吹き「元」と高麗の連合軍を二度にわたり撃破した。結果、鎌倉幕府の結束を強めたが、その後の国防費がかさみ御家人たちの不満が募り衰退することにもなる。

Hōjō Tokimune.jpg時宗

後宇多天皇は上皇として2度院政を敷く。大覚寺統の後二条・後醍醐天皇の時代の11年間院政を行う。そして後醍醐天皇の親政により院政を停止した。その後、しばらく院政は歴史から消える事になる。

最愛の中宮(遊義門院)に先立たれ、失意のうちに崩御し、蓮華峰寺陵(北嵯峨)に葬られる。

因みに、宇多天皇の子が醍醐天皇、その子が村上天皇だったので、後宇多~後醍醐~後村上となる。

次回は、父亀山天皇。

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337 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 92代 伏見天皇 わが世の春?

2018-04-12 08:11:10 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

92代 伏見天皇  持明院統の「我が世の春?」

元号 弘安
正応
永仁
先代 後宇多天皇
次代 後伏見天皇

誕生 1265年5月10日
崩御 1317年10月8日
陵所 深草北陵
熈仁
別称 持明院殿
父親 後深草天皇
母親 洞院(玄輝門院)
中宮 西園寺鏱子(永福門院)
子女 後伏見天皇
花園天皇
ほか(后妃・皇子女節参照)


次帝

後伏見天皇(持明院統)

生年~崩御

1265年 5月10日~1298年8月30日

在位

1287年11月27日~1301年3月 2日

在位中年号

弘安・正応・永仁

中宮

西園寺鏱子(永福門院)

御陵

深草北陵

父・母

父 後深草天皇 母 洞院愔子


前回の解説で、伏見天皇の立場・背景はお分かりいただけると思う。皇太子に自らの息子の後伏見天皇を指名したのだから、実父の後深草の院政と合わせて「わが世の春」であった。

しかし、在任中に大事件が二つ発生する。

まず、宮中で天皇の命を狙う騒乱がおこる。源氏の武将、浅原為頼(いかにも源氏の名だ)が、御所の右衛門陣より乱入し、中宮はじめ女官たちが逃げ惑い天皇も女装して逃げるという騒ぎとなり、最後は為頼が壮絶な自刃を遂げるという事件があった。背景には、大覚寺統の関与が発覚し、しかも亀山上皇が背景にあるのではという噂が広まる。しかし、亀山院が誓書を書き沙汰止みとなる。(嘘でも何でも誓書「熊野誓詞」など書けば信じられた時代)誓詞を差し出しそれが虚偽ならばたちまち狂い死にすると信じられていた。

「熊野誓詞」の画像検索結果「熊野誓詞」の画像検索結果誓詞(現代ではその場の誓いでしかないが・・・・。)

また、伏見天皇側近で持明院統におけるブレーンの京極為兼が追放される事件が起こる。京極家は、御堂関白藤原道長を祖とする宮中歌壇に君臨した御子左家(みこひだりけ)の、西園寺家、冷泉家、二条家などと並ぶ名家の一つである。最初は、西園寺實兼に使えるが、その後皇子時代の伏見天皇に歌の指南で仕える。万葉集への回帰を主導し、二条家とは対立するが伏見天皇の支援を得て歌道だけでなく、政治的にも実権を握る。しかし、以前の師匠西園寺實兼が、大覚寺統であった事から、その反感を買って土佐に流される。

以上の二つの事件は、いずれも両統の対立が背景にあり、表面上は持明院統の世の中だったが、水面下での応酬は激しいものだったと分かる。

伏見天皇は、自ら「13箇条の新制」を発布するなど、政道刷新に努めるが皇統の統一を見ぬまま崩御し、深草北陵に葬られた。

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訂正 336 回号を356は間違い 訂正

2018-04-11 09:06:41 | 日記

画像後醍醐の呪い?

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