エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

中島敦という作家

2009年07月20日 | 日記
中島敦を読み返してみた。

書斎の中島敦である。




漢文の古典的教養とふくいくと香り立つ文体で読む者を圧倒する。
とりわけ「山月記」の序は秀逸である。

籠西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
(ろうせいのりちょうははくがくさいえい てんぽうのまつねん わかくしてなをこぼうにつらね ついでこうなんいにほせられたが せい けんかいみずからたのむところすこぶるあつく せんりにあまんずるをいさぎよしとしなかった。)

なんという文章の韻であろうか。

スラスラとリズミカルに読み下していける。

心地よい文体である。
少なくとも、ぼくはこの文体に憧れたものだった。


科挙・・・人材登用のシステムであるけれど、李徴はこの科挙に合格して、役人としてスタートをきったばかりである。

科挙の考試の模様が残されている。



しかし、李は官僚の腐敗堕落に愛想を尽かして、ある日忽然と姿を隠すのだが、数年の後、虎となってかつての友人の前に現れるのである。




山月記の最大の見せ場である。


いま、官僚の腐敗が言われる
官僚はもともとそうした性行なのであって、いかにコントロールし活用しきるのかが問われるのである。
官僚の無責任体質は、明治以来の官僚システム疲弊であって、その制度の金属疲労に他ならない。

そもそも政治が、その制度を容認して利用?してきたではないか。

反転!
もっとも政治が利用されてきたのだが・・・。

いま、明治維新以来最大のターニングポイントを迎えている!ということには異論を差し挟むつもりは無い。

だがしかし、自らの政治的意識を越える政治と政治家を望めないのも真実である。

背の丈に合った政治しか望めないのである。

自分が選ぶ政府であるのだから。
ぼくは、結構絶望している。


この絶望感は、暑い夏で区切りになるのだろうか?
この夏は、ある意味「決着の夏」になるのかもしれない。

あまり期待しないでいようと思う。
期待していて裏切られるのは、もうこの年になると辛いものがある。

中島敦を読み返して、そんな所感を強くしたのである。
この感慨は、果たして不幸だろうか・・・。

とまれ「中島 敦」は今に通用する。
今年は生誕100年。
団塊の世代のおじさんたちは、こんな作家を読んでいたのである。

そしてパトスをたぎらせていたのだ。
燃ゆる情熱は迸って(ほとばしって)あらゆる対象に遠慮会釈なく突き刺さっていたはずだ。



丸いロイド眼鏡がよく似合っている。


鎌倉の「鎌倉近代文芸館」に敦の部屋がある。
一度訪ねてみたらいかがだろうか?
老いも若きも、その価値はある。
ここが鎌倉近代文学館のホームページである。

http://www.kanabun.or.jp/index.html





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