白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
これは、信教の第一条ですが、それを説明するには、時間がかかっていますね。今回も、「天地の創造主」という部分について、注目していきたいと思います。「天地」という表現には、存在しているすべてが織り込まれています。というのも、天主は本当にすべてを創造したということを示します。天主こそ至上存在であるので、存在しているすべては、少しでも存在を持っているモノは、この存在を天主から承っているのです。
被創造物の中のある一種は、人間の理性だけで知りえない存在があります。「天使」と呼ばれている被創造物です。天使とは、純粋に霊的な被創造物で、自然には人間には知られえない存在です。
というのは、人間の知識はすべて感覚を通じざるを得ない知識だからです。知っているすべては、感知できる周辺の世界から引き出さないといけないからです。天使は、感知できる存在ではありません。天使は感覚界に属さないので、自然には人間には知れない存在となります。
しかしながら、信仰の天啓によると、天使が存在すると教えられています。ちなみに、聖書の何処も開いてみると、天使の登場は、頻繁にあります。創造の御業の当初からあります。アダムとエワが天主によって 天国から追い出された際に 、楽園の門の前に、アダムとエワが戻らないように、ある天使が置かれて見張っているとあります。
また、聖書に沿って読んでみると、天使の登場はどんどん頻繁になってきます。例えば、アブラハムが、三柱(位)の天使に遭うときをはじめに、多くあります。我々の主イエズス・キリストまで、続々と天使は登場します。聖母は、ガブリエル大天使から、御告げを承ります。また、我々の主イエズス・キリストは、御受難の直前に、橄欖山(ゲッセマネの園)で、天使からの慰めを受けます。また、我々の主イエズス・キリストがこの地上を去った後でも、使徒の前に現れてきます。使徒聖ペトロは、天使に助けられて、牢獄を脱出します。天使についての証言は、新約聖書において数えきれないほどにありますし、現代に至るまでに、天使出現の事件は多く確認されています。
信仰によって、天使が存在することを知っています。とはいっても、神学の大教師なる聖トマス・アクィナスによると、天使の存在を解明しています。勿論、便宜上の論拠で、厳密に言うと、証明になっていませんが、次のような説明をしています。
天使は、創造物の全体を調和的に美しく完全化する存在です。それで、天使の存在のおかげで、人間の知っている被創造物界には、すべての存在段階が備わってきます。地上にある単なる鉱物から出発して、生命の欠片を持つ植物へ上がり、それから、動物へ上がります。動物は、まだ感覚上の生活に留まりますが、植物より完成度 が高いですね。それから、人間があります。感覚上の生活もありますが、理性上の生活もできる存在です。それから、最後に、天使があります。天使は、感覚上の生活はなく、純粋に単に認知上の生活しか持たない存在です。そして勿論、最上階に、至上存在なる天主です。
以上は、便宜上の証明だけになりますが、天使の存在の説明です。
それは兎も角、天使たちの存在は、信仰上の教義で、信じるべきです。天使の存在を信じることを拒絶する者は、単純にいうと、異端者になります。
~~
要するに、天使は存在しています。純粋な霊です。純粋な霊というのは、天使には体がないということを意味しています。簡単に言うと、教科書臭いかもしれませんが、天使とは、人間にたとえると、体抜きの霊魂と言えるでしょう。言い換えると、天使は無形ながら、智慧と意志は備わっているのです。ただ、体に関する要素は全く持たないのです。天使には、感覚というものがありません。感覚とは、体にだけあるからです。
従って、感覚から由来する知識(感知)がありません。想像も感覚上の記憶もないのです。同時に、人間と違って、天使には感覚上の情念もありません。情欲、倦怠、嫌悪感などありません。要するに、天使は、体に関するものは一切持たないのです。
したがって、天使は不死な存在です。純粋な霊なので、単一な存在でもあります。ところで、構成物だけが死を迎えます。死というのは、分解ですから。単一なる存在は、分解することがそもそもありません。天使は単一なので、分解しません。死ぬことができません。要するに、天使は不死です。体がないからです。
天使には、不死の上に、生殖もありません。天使は、生むことはありません。生殖は、体に依存することだからです。動物や人間なら、生殖をもって、自分の種を繁殖しますね。天使なら、何時までも有るわけです。つまり、天使は、自分の種を繁殖する必要はありません。
もう一歩、説明してみましょう。天使は、純粋な霊として、自分自身において、自分の種のすべての完全性を含んでいます。そう言っても、不思議なことで、分かりづらいかもしれません。
人間は、皆一人一人が同じ種に属します。われわれは、皆「人間」です。人間の種に属すると言われます。人々を区別できるのは、それぞれの個体性ですね。私がこうだが、相手はこうではありませんね。それぞれは、違う個体性、しいて言えば、違う「性格」を持っているからです。とはいえ、人々は皆、同じ種に属することに変わりがありません。人々のそれぞれは一緒ではない理由というと、「体」に他なりません。われわれの物質的な側面においてこそ、皆が別です。それで、それぞれの個体性は皆違います。従って、地上においての繁殖こそが、種の完全化のために貢献することになります。
しかしながら、天使には体はありません。したがって、天使の一柱(位)にして、自分自身において、自分の種のすべてを代表しながら、また、品種のすべての完全性を具現化しています。
つまり、天使の種の数というと、天使の数と同じほどあると結論すべきです。これは、人間にとって、神秘です。ですが、この神秘を通じて、天主の偉大さと全能さを感じ得ます。
地上に限ってでも、人間をはじめ、存在している多くの動物や植物の種を観て、無数にあるほど見えていますね。その上に、それぞれの種は、種を代表するそれらの個人が多ければ多いほど、完全化されていきます。
天使なら、一柱(位)にして、自分のすべての種を代表します。天使の種の数は、天使の数と同じほどあります。何という神秘でしょう。何という被創造物の偉大さでしょう。天主の全能の偉大さの御前に、感嘆せずにいられません。
以上、天使とは何であるかを見てきました。純粋な霊で、体無しで、不死で、感覚無しに、つまり人間と違う生き方をしている存在ですが、そして、天使一柱(位)は、自分の種のすべてを代表する存在です。
公教要理-第十二講 天使について
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
これは、信教の第一条ですが、それを説明するには、時間がかかっていますね。今回も、「天地の創造主」という部分について、注目していきたいと思います。「天地」という表現には、存在しているすべてが織り込まれています。というのも、天主は本当にすべてを創造したということを示します。天主こそ至上存在であるので、存在しているすべては、少しでも存在を持っているモノは、この存在を天主から承っているのです。
被創造物の中のある一種は、人間の理性だけで知りえない存在があります。「天使」と呼ばれている被創造物です。天使とは、純粋に霊的な被創造物で、自然には人間には知られえない存在です。
というのは、人間の知識はすべて感覚を通じざるを得ない知識だからです。知っているすべては、感知できる周辺の世界から引き出さないといけないからです。天使は、感知できる存在ではありません。天使は感覚界に属さないので、自然には人間には知れない存在となります。
しかしながら、信仰の天啓によると、天使が存在すると教えられています。ちなみに、聖書の何処も開いてみると、天使の登場は、頻繁にあります。創造の御業の当初からあります。アダムとエワが天主によって 天国から追い出された際に 、楽園の門の前に、アダムとエワが戻らないように、ある天使が置かれて見張っているとあります。
また、聖書に沿って読んでみると、天使の登場はどんどん頻繁になってきます。例えば、アブラハムが、三柱(位)の天使に遭うときをはじめに、多くあります。我々の主イエズス・キリストまで、続々と天使は登場します。聖母は、ガブリエル大天使から、御告げを承ります。また、我々の主イエズス・キリストは、御受難の直前に、橄欖山(ゲッセマネの園)で、天使からの慰めを受けます。また、我々の主イエズス・キリストがこの地上を去った後でも、使徒の前に現れてきます。使徒聖ペトロは、天使に助けられて、牢獄を脱出します。天使についての証言は、新約聖書において数えきれないほどにありますし、現代に至るまでに、天使出現の事件は多く確認されています。
信仰によって、天使が存在することを知っています。とはいっても、神学の大教師なる聖トマス・アクィナスによると、天使の存在を解明しています。勿論、便宜上の論拠で、厳密に言うと、証明になっていませんが、次のような説明をしています。
天使は、創造物の全体を調和的に美しく完全化する存在です。それで、天使の存在のおかげで、人間の知っている被創造物界には、すべての存在段階が備わってきます。地上にある単なる鉱物から出発して、生命の欠片を持つ植物へ上がり、それから、動物へ上がります。動物は、まだ感覚上の生活に留まりますが、植物より完成度 が高いですね。それから、人間があります。感覚上の生活もありますが、理性上の生活もできる存在です。それから、最後に、天使があります。天使は、感覚上の生活はなく、純粋に単に認知上の生活しか持たない存在です。そして勿論、最上階に、至上存在なる天主です。
以上は、便宜上の証明だけになりますが、天使の存在の説明です。
それは兎も角、天使たちの存在は、信仰上の教義で、信じるべきです。天使の存在を信じることを拒絶する者は、単純にいうと、異端者になります。
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要するに、天使は存在しています。純粋な霊です。純粋な霊というのは、天使には体がないということを意味しています。簡単に言うと、教科書臭いかもしれませんが、天使とは、人間にたとえると、体抜きの霊魂と言えるでしょう。言い換えると、天使は無形ながら、智慧と意志は備わっているのです。ただ、体に関する要素は全く持たないのです。天使には、感覚というものがありません。感覚とは、体にだけあるからです。
従って、感覚から由来する知識(感知)がありません。想像も感覚上の記憶もないのです。同時に、人間と違って、天使には感覚上の情念もありません。情欲、倦怠、嫌悪感などありません。要するに、天使は、体に関するものは一切持たないのです。
したがって、天使は不死な存在です。純粋な霊なので、単一な存在でもあります。ところで、構成物だけが死を迎えます。死というのは、分解ですから。単一なる存在は、分解することがそもそもありません。天使は単一なので、分解しません。死ぬことができません。要するに、天使は不死です。体がないからです。
天使には、不死の上に、生殖もありません。天使は、生むことはありません。生殖は、体に依存することだからです。動物や人間なら、生殖をもって、自分の種を繁殖しますね。天使なら、何時までも有るわけです。つまり、天使は、自分の種を繁殖する必要はありません。
もう一歩、説明してみましょう。天使は、純粋な霊として、自分自身において、自分の種のすべての完全性を含んでいます。そう言っても、不思議なことで、分かりづらいかもしれません。
人間は、皆一人一人が同じ種に属します。われわれは、皆「人間」です。人間の種に属すると言われます。人々を区別できるのは、それぞれの個体性ですね。私がこうだが、相手はこうではありませんね。それぞれは、違う個体性、しいて言えば、違う「性格」を持っているからです。とはいえ、人々は皆、同じ種に属することに変わりがありません。人々のそれぞれは一緒ではない理由というと、「体」に他なりません。われわれの物質的な側面においてこそ、皆が別です。それで、それぞれの個体性は皆違います。従って、地上においての繁殖こそが、種の完全化のために貢献することになります。
しかしながら、天使には体はありません。したがって、天使の一柱(位)にして、自分自身において、自分の種のすべてを代表しながら、また、品種のすべての完全性を具現化しています。
つまり、天使の種の数というと、天使の数と同じほどあると結論すべきです。これは、人間にとって、神秘です。ですが、この神秘を通じて、天主の偉大さと全能さを感じ得ます。
地上に限ってでも、人間をはじめ、存在している多くの動物や植物の種を観て、無数にあるほど見えていますね。その上に、それぞれの種は、種を代表するそれらの個人が多ければ多いほど、完全化されていきます。
天使なら、一柱(位)にして、自分のすべての種を代表します。天使の種の数は、天使の数と同じほどあります。何という神秘でしょう。何という被創造物の偉大さでしょう。天主の全能の偉大さの御前に、感嘆せずにいられません。
以上、天使とは何であるかを見てきました。純粋な霊で、体無しで、不死で、感覚無しに、つまり人間と違う生き方をしている存在ですが、そして、天使一柱(位)は、自分の種のすべてを代表する存在です。