白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
前の講座で、聖なる三位一体の玄義を紹介しました。天主は一つの本性でありながら、三つの位格だとご紹介しました。三つの位格は、同じ本性においてです。同質な三つの位格です。聖父と聖子と聖霊です。聖父は知性を通じて、聖子を生みます。聖霊は、愛を通じて、聖父と聖子と両方よりも発出します。
それで、以上の三つの位格は、三位一体において、それぞれは固有の名前を持っています。その名前は、それぞれの位格の作用を語ります。
聖父(ちち)を聖父というのは、聖子(こ)を発生するからです。それほど一般名ではないものの、「生まれざる者」ingenitusとも呼ばれています。何者よりも生じることはないからです。何の位格からも発することがないからです。また、「聖なるすべてなる原理と源泉」とも呼ばれています。他の二つの位格の原理点であるからです。
聖子が、聖子と呼ばれているのは、生まれたからです。前に見たように、「御言葉」とも呼ばれています。知性を通じて発生されるからです。人間の知性において生む物は、言葉(概念・ロゴス)に他ならないわけです。精神面の言葉であるか、概念を述べたら、言い出すので、口頭の言葉であるかどちらかですけど。聖子は「御言葉」と呼ばれるのは、知性を通じて発生するからです。天主がご自分についての知識(概念)は聖子そのものですから。この意味で、聖子は「聖父の写し」とも呼ばれています。確かにそうです。天主のすべてにおいて、且つ限りなく完全に、聖子は天主を写しているからです。
聖霊に関しては、聖霊と呼ばれるのは、前回に見たように、ラテン語の「スピリトゥス」から来ます。一番、直感しにくいものですね。一番霊的なもの、一番把握しがたいものです。聖霊は「愛」とも呼ばれています。また、「賜物」とも呼ばれています。というのは、与えること、捧げることは、愛することですから。そういえば、私の主は、昇天する際に、私たちに聖霊を賜わることを約束されました。
以上に見たのは、三位一体においてのそれぞれの位格の固有名詞でした。ところが、三つの位格を区別できるのは、三位一体においてだけです。つまり、奥底の生活においてだけ、区別できます。一方、外でのすべての働き・御業は、三つの位格は、常に共同の働きしています。
創造なら、聖父だけが創造することではなくて、三位一体が創造します。というのも、聖父は聖子と区別できるのは、聖父が聖子を発生することにおいてだけです。一方で、聖父が宇宙を創造したといって、聖子は創造しなかっただろうなどと、区別できません。聖父と聖子と聖霊が、宇宙を創造したわけです。だから、聖なる三位一体の外面のすべての働きは、天主の本性を通じて、三つの位格が揃って行うと言われる所以です。
とはいえ、実際にある働きを個別の位格に振り付けることはあります。帰属に過ぎませんが、私たちにとって、三位一体の中の位格をより理解しやすくするためだと思います。
だから、聖父の役割をより理解するために、「万物の創造主なる私たちの父」と呼んでいます。というのも、創造するとは、すべてのモノに存在を与えることですから。
他の二つの位格は、聖父より発しますね。つまり、聖父は他の位格の源泉です。類推して、聖父を「創造主」と呼んでいます。しかしながら、実際において、聖父と聖子と聖霊はそろって、創造したわけです。ふさわしいという意味において、聖父を「創造主」と言います。
同じように、ふさわしいという意味において、聖子を「智慧」と呼びます。天主の知性を完璧に映している聖子ですから。天主の思いそのものである聖子ですから。つまり、天主の智慧ですから。しかしながら、繰り返しますが、外面のすべての御業において、聖父と聖子と聖霊は共同に必ず働くのです。
~~
最後に、三位一体の玄義に対して、残念ながらも、言及された諸誤謬を見る必要があります。幾つかあります。
第一は、紀元後三世紀において、サベリウスという人物が言い出した、サベリウス主義とも、様相主義とも呼ばれている誤謬です。要するに、位格は一つしかないとする誤謬です。聖父だけの位格です。つまり、天主の玄義が、三位一体の玄義でなく、一位一体の玄義となってしまいます。この誤謬によると、他の二つの位格は、聖父の属性にすぎないとされます。アレクサンドリアの聖ディオニュシオスによって特に反駁されました。
第二は、アリウスによる誤謬です。おそらく、後に何れかまた触れることになると思いますが、アリウス主義を生んだ誤謬です。また紀元後3-4世紀の誤謬です。アリウスはこう言います。イエズス・キリストは天主ではない、と。つまり、聖子が天主ではないということです。イエズス・キリストの神性は否定されています。イエズス・キリストは、他の被創造物に優位している被創造物にすぎない、それ以上ではないと。この誤謬は、325年のニケア公会議によって排斥されました。
第三の誤謬は、紀元後四世紀のマセドニウスによる誤謬です。マセドニウス主義を生んだ誤謬ですが、聖霊は天主ではないという内容です。聖霊は他の被創造物に優位している単なる被創造物にすぎないと。この誤謬は、381年のコンスタンティノポリス公会議によって、排斥されました。
最後に、第四の誤謬は、九世紀のフォティオスによります。残念ながら、教会において分離を生んでしまって、ギリシア分離教会と正教会を生んでしまいました。フォティオスの誤謬というと、聖霊は、聖父よりしか発しないという内容です。聖子より発しないと。この誤謬は、信経によって反駁されて、「フィリオ・クェ」とあります。「と聖子より」という意味です。「パトリ・フィリオ・クェ」といって、「聖父と聖子より」という意味です。
聖なる三位一体の玄義の紹介を結ぶために、参考になるので、聖アタナシオスの信経を朗読していきたいと思います。この長い信経において、三位一体の玄義が紹介されています。分かりやすく、心に良く伝わる上に、天主の奥底への理解をより深く把握しうる信経です。ちなみに、すべての司祭は、毎年、聖務日課書で、聖なる三位一体の祭日の際に、拝読します。この信経は次の通りです。
救われんと欲するものは、誰といえども、まづカトリック信仰を擁せねばならぬ。
この信仰を完璧に且つ欠くことなく守りし者でなくんば、誰といえど、疑うことなく永遠に滅びるべし。
カトリック信仰とは、そのペルソナを混同することなく、またその本体を分かつことなく、唯一の天主を三位において、また三位を一体において礼拝することこれなり。
何となれば、聖父のペルソナは、聖子のペルソナにあらず、聖霊のペルソナにあらず。
されど聖父と聖子と聖霊との天主性は一にして、その光栄は等しくその御稜威はともに無窮なればなり。
聖子は聖父の如く、聖霊もまた聖父の如く。
聖父も創られたる者にあらず、聖子も創られたる者にあらず、聖霊も創られたる者にあらずなり。
聖父も宏大にして、聖子も宏大にして、聖霊も宏大なり。
聖父も永遠にして、聖子も永遠にして、聖霊も永遠なり。
しかれども三つの永遠なるものあるにあらずして、永遠なる者は一つなり。
しかも三つの創られざる者および宏大なる者あるにあらずして、創られざる者は一なり、宏大なるもの一なるが如し。
同じく聖父も全能なり、聖子も全能なり、聖霊も全能なり。
されど全能なる三者あるにあらずして、一の全能者あるのみ。
かくの如く聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主なり。
されど三つの天主あるにあらずして、天主は一なり。
また、聖父は主、聖子は主、聖霊は主なり。
されど三つの主あるにあらずして、主は一なり。
何となれば、キリスト教の真理は、各々のペルソナを個々に天主および主なりと告白することを我らに強いるとともに、三つの天主および主ありと言うことも、カトリック教の禁ずるところなればなり。
聖父は何ものよりも成らず、創られず、且つ生まれず。
聖子は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、唯聖父より生まるるなり。
聖霊は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、生まれしにもあらず、聖父と聖子とより発するなり。
故に、聖父は一にして、三つの聖父あるにあらず。聖子も一にして三つの聖子なく、聖霊も一にして三あるにあらず。
またこの三位において前後なく、大小なく、三つのペルソナは皆互いに同じく永遠に且つ等しきなり。
されば前に言える如く、一切を通じて、三位において一体を、また一体において三位を拝すべきなり。
救われんと欲する者は、三位についてかく信ずべし。
アメン
公教要理-第十一講 三位一体について(下)
前の講座で、聖なる三位一体の玄義を紹介しました。天主は一つの本性でありながら、三つの位格だとご紹介しました。三つの位格は、同じ本性においてです。同質な三つの位格です。聖父と聖子と聖霊です。聖父は知性を通じて、聖子を生みます。聖霊は、愛を通じて、聖父と聖子と両方よりも発出します。
それで、以上の三つの位格は、三位一体において、それぞれは固有の名前を持っています。その名前は、それぞれの位格の作用を語ります。
聖父(ちち)を聖父というのは、聖子(こ)を発生するからです。それほど一般名ではないものの、「生まれざる者」ingenitusとも呼ばれています。何者よりも生じることはないからです。何の位格からも発することがないからです。また、「聖なるすべてなる原理と源泉」とも呼ばれています。他の二つの位格の原理点であるからです。
聖子が、聖子と呼ばれているのは、生まれたからです。前に見たように、「御言葉」とも呼ばれています。知性を通じて発生されるからです。人間の知性において生む物は、言葉(概念・ロゴス)に他ならないわけです。精神面の言葉であるか、概念を述べたら、言い出すので、口頭の言葉であるかどちらかですけど。聖子は「御言葉」と呼ばれるのは、知性を通じて発生するからです。天主がご自分についての知識(概念)は聖子そのものですから。この意味で、聖子は「聖父の写し」とも呼ばれています。確かにそうです。天主のすべてにおいて、且つ限りなく完全に、聖子は天主を写しているからです。
聖霊に関しては、聖霊と呼ばれるのは、前回に見たように、ラテン語の「スピリトゥス」から来ます。一番、直感しにくいものですね。一番霊的なもの、一番把握しがたいものです。聖霊は「愛」とも呼ばれています。また、「賜物」とも呼ばれています。というのは、与えること、捧げることは、愛することですから。そういえば、私の主は、昇天する際に、私たちに聖霊を賜わることを約束されました。
以上に見たのは、三位一体においてのそれぞれの位格の固有名詞でした。ところが、三つの位格を区別できるのは、三位一体においてだけです。つまり、奥底の生活においてだけ、区別できます。一方、外でのすべての働き・御業は、三つの位格は、常に共同の働きしています。
創造なら、聖父だけが創造することではなくて、三位一体が創造します。というのも、聖父は聖子と区別できるのは、聖父が聖子を発生することにおいてだけです。一方で、聖父が宇宙を創造したといって、聖子は創造しなかっただろうなどと、区別できません。聖父と聖子と聖霊が、宇宙を創造したわけです。だから、聖なる三位一体の外面のすべての働きは、天主の本性を通じて、三つの位格が揃って行うと言われる所以です。
とはいえ、実際にある働きを個別の位格に振り付けることはあります。帰属に過ぎませんが、私たちにとって、三位一体の中の位格をより理解しやすくするためだと思います。
だから、聖父の役割をより理解するために、「万物の創造主なる私たちの父」と呼んでいます。というのも、創造するとは、すべてのモノに存在を与えることですから。
他の二つの位格は、聖父より発しますね。つまり、聖父は他の位格の源泉です。類推して、聖父を「創造主」と呼んでいます。しかしながら、実際において、聖父と聖子と聖霊はそろって、創造したわけです。ふさわしいという意味において、聖父を「創造主」と言います。
同じように、ふさわしいという意味において、聖子を「智慧」と呼びます。天主の知性を完璧に映している聖子ですから。天主の思いそのものである聖子ですから。つまり、天主の智慧ですから。しかしながら、繰り返しますが、外面のすべての御業において、聖父と聖子と聖霊は共同に必ず働くのです。
~~
最後に、三位一体の玄義に対して、残念ながらも、言及された諸誤謬を見る必要があります。幾つかあります。
第一は、紀元後三世紀において、サベリウスという人物が言い出した、サベリウス主義とも、様相主義とも呼ばれている誤謬です。要するに、位格は一つしかないとする誤謬です。聖父だけの位格です。つまり、天主の玄義が、三位一体の玄義でなく、一位一体の玄義となってしまいます。この誤謬によると、他の二つの位格は、聖父の属性にすぎないとされます。アレクサンドリアの聖ディオニュシオスによって特に反駁されました。
第二は、アリウスによる誤謬です。おそらく、後に何れかまた触れることになると思いますが、アリウス主義を生んだ誤謬です。また紀元後3-4世紀の誤謬です。アリウスはこう言います。イエズス・キリストは天主ではない、と。つまり、聖子が天主ではないということです。イエズス・キリストの神性は否定されています。イエズス・キリストは、他の被創造物に優位している被創造物にすぎない、それ以上ではないと。この誤謬は、325年のニケア公会議によって排斥されました。
第三の誤謬は、紀元後四世紀のマセドニウスによる誤謬です。マセドニウス主義を生んだ誤謬ですが、聖霊は天主ではないという内容です。聖霊は他の被創造物に優位している単なる被創造物にすぎないと。この誤謬は、381年のコンスタンティノポリス公会議によって、排斥されました。
最後に、第四の誤謬は、九世紀のフォティオスによります。残念ながら、教会において分離を生んでしまって、ギリシア分離教会と正教会を生んでしまいました。フォティオスの誤謬というと、聖霊は、聖父よりしか発しないという内容です。聖子より発しないと。この誤謬は、信経によって反駁されて、「フィリオ・クェ」とあります。「と聖子より」という意味です。「パトリ・フィリオ・クェ」といって、「聖父と聖子より」という意味です。
聖なる三位一体の玄義の紹介を結ぶために、参考になるので、聖アタナシオスの信経を朗読していきたいと思います。この長い信経において、三位一体の玄義が紹介されています。分かりやすく、心に良く伝わる上に、天主の奥底への理解をより深く把握しうる信経です。ちなみに、すべての司祭は、毎年、聖務日課書で、聖なる三位一体の祭日の際に、拝読します。この信経は次の通りです。
救われんと欲するものは、誰といえども、まづカトリック信仰を擁せねばならぬ。
この信仰を完璧に且つ欠くことなく守りし者でなくんば、誰といえど、疑うことなく永遠に滅びるべし。
カトリック信仰とは、そのペルソナを混同することなく、またその本体を分かつことなく、唯一の天主を三位において、また三位を一体において礼拝することこれなり。
何となれば、聖父のペルソナは、聖子のペルソナにあらず、聖霊のペルソナにあらず。
されど聖父と聖子と聖霊との天主性は一にして、その光栄は等しくその御稜威はともに無窮なればなり。
聖子は聖父の如く、聖霊もまた聖父の如く。
聖父も創られたる者にあらず、聖子も創られたる者にあらず、聖霊も創られたる者にあらずなり。
聖父も宏大にして、聖子も宏大にして、聖霊も宏大なり。
聖父も永遠にして、聖子も永遠にして、聖霊も永遠なり。
しかれども三つの永遠なるものあるにあらずして、永遠なる者は一つなり。
しかも三つの創られざる者および宏大なる者あるにあらずして、創られざる者は一なり、宏大なるもの一なるが如し。
同じく聖父も全能なり、聖子も全能なり、聖霊も全能なり。
されど全能なる三者あるにあらずして、一の全能者あるのみ。
かくの如く聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主なり。
されど三つの天主あるにあらずして、天主は一なり。
また、聖父は主、聖子は主、聖霊は主なり。
されど三つの主あるにあらずして、主は一なり。
何となれば、キリスト教の真理は、各々のペルソナを個々に天主および主なりと告白することを我らに強いるとともに、三つの天主および主ありと言うことも、カトリック教の禁ずるところなればなり。
聖父は何ものよりも成らず、創られず、且つ生まれず。
聖子は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、唯聖父より生まるるなり。
聖霊は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、生まれしにもあらず、聖父と聖子とより発するなり。
故に、聖父は一にして、三つの聖父あるにあらず。聖子も一にして三つの聖子なく、聖霊も一にして三あるにあらず。
またこの三位において前後なく、大小なく、三つのペルソナは皆互いに同じく永遠に且つ等しきなり。
されば前に言える如く、一切を通じて、三位において一体を、また一体において三位を拝すべきなり。
救われんと欲する者は、三位についてかく信ずべし。
アメン