白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
天使は、天主の被創造物です。天使の夥しき数で、天主の全能さを表明しています。黙示録の表現を借りると、天使は「数え切れないほど」います。天主の栄光のために、天使を創造されました。とはいっても、天使を創造したときに、すぐに天国に置きませんでした。説明します。
天主は、天使の本性を付与し、純粋な霊で、智慧と意志という本性を持たせて創造しました。天主は、聖寵をも与えたおかげで、超自然世界にまで天使を高めました。言い換えると、天使本性を超えるまで高めたお陰で、天主の生命への参与を与えたのです。とはいえ、その時は、まだ天主との一対一の至福直感までは行っていませんでした。要するに、創造されたときに、成聖の恩寵は与えられましたが、天主の栄光の内には、まだいませんでした。言い換えると、まだ、天にいませんでした。
それで、良き天主は、天使が天に行く資格があるかどうか、ある試練を与えました。この試練をもって、ある種のテストで、天主は、天使の忠実心と感謝の心を試しました。試練の具体的な内容について、不明です。つまり、天使の受けた試練は何だったか、わかりませんが、或る神学者たちの説によると、こういった中身です。托身なさった御言葉なる私たちの主、イエズス・キリストを礼拝せよと言った試練になるだろうと。
天使たちは、人間となった天主への礼拝を命令されたのではないか、ということです。しかし、天使にとって、人間という被創造物は、劣る存在です。遥かに、天使より劣る存在のように見えます。想像してください。人間は体を持ちますが天使には体がありません。つまり、天使にとって、人となった天主とはいえ、人間を礼拝するとは、なんということでしょうか。劣る者の前に頭を下げるに他なりません。こういった試練を受けたと思われます。つまり、天主なるこの人間のイエズスを礼拝する試練。
試練を前に、天使には、選択せざるを得ませんでした。礼拝するか。礼拝したら、試練を突破して、試験合格で天に卒業です。天に行けるというのも、天主の永劫かつ幸せな至福直感を得ます。また、試練を拒絶する選択もあります。あえていえば、天使の「人生」において、悲劇的な瞬間です。
それで、一柱(位)の天使が出てきます。一番偉大な天使として知られている「ルチフェル」(英語でルシファー)です。ラテン語では、「光をもたらす者」という意味です。間違いなく、天使の間に一番優位の天使です。彼は前に出て、礼拝を拒絶しました。「ノン・セルビアム」といいだしました。「私は仕えない!」と。「へりくだらないぞ」と。「私より、この人間の優位性を認めないぞ」と。言い換えると、「自分自身において、自分の幸せを見つけてみせるぞ」という意味になります。
このように、ルシファーは試練を拒絶したことによって、天主が向かわせていた栄光を拒絶したことになります。「ノン・セルビアム」「仕えないぞ」と言い出すのです。ちなみに「言い出す」と言っても、人間的な理解に過ぎません。当然ながら天使は人間のような感覚的な言語はありませんからね。
とはいえ、「絶対に使えないぞ」という意志は確かにありました。傲慢の罪です。「ノン・セルビアム」を発した上に、聖書と特に黙示録に基づく伝統によると、ルシファーは、すべての天使たちの三分の一を彼の後につけたとされています。
ルシファーに対して、もう一柱(位)の天使が答えました。ミカエルです。ヘブライ語だと、ルシファーに対する答え自体が「ミカエル」です。「天主同等のような者などいるものか」と。「天主のように、自分自身においてこそ自分の幸せを得ると言えるものはいるものか」。「誰が天主と同等たるぞ」と。つまり、「自分自身においてこそすべての存在と完全性の起源があると自称する者はいるものか」とのことです。
創造の時に、見たとおりですが、すべては天主から来ているわけです。
それで、ルシファーを相手に、ミカエルが「誰か天主と同じなるぞ」と訴えます。ラテン語で、「クイス(誰が)・ウット(同様)・デウス(天主)」と言います。ヘブライ語で「ミ(誰が)・カ(同様)・エル(天主)」と言います。それから、聖書の記しているところ通りに、戦いが始まりました。ルシファーと伝統上三分の一の天使とは、一緒に、地獄に突き堕とされました。大天使ミカエルの後を付いた他の天使たちは、試練を合格して、天に行くことを得ました。
要するに、その試練から、試練を承って天に辿り着いた良き天使もいれば、試練を拒絶して、つまり天主への服従を拒絶して、ある意味で、自分の中に閉じこもるような感じで、地獄に墜ちた悪き天使もいるということです。
天使にとって、恐ろしい罰です。人間から見ると、ちょっと理解しづらい恐ろしさです。
ルシファーのように墜落した天使、つまり罪を犯した天使は、自分の智慧においてこそ自分を盲目にさせたのです。その上、天使は単一ですから、その行為も単一で、完全でもあります。つまり、決めた行為を取り消し、決定を変える、意志を変えることはもう一切出来ないのです。罪を犯した天使は、自分の智慧を曇らせた上に、悪において自分の意志を頑固させてしまいました。
人間なら、物体を持っているから、そして、理性で考えているから、物事において、段階的にやらざるを得ません。要するに、見ていることにも順番があって、つまりよく考えている時にも、段階でやっています。ちなみに、西洋語の「合理」の語源は、論理の段階・プロセスにあります。論理とは段階的に考える挙句に、結論に至るからです。しかし、引き返すことも出来るわけです。段階があるから、できます。
天使なら、段階抜きに、実施します。天使は直感なる存在と言われています。つまり、何か決定する時に、徹底的に全体的に決定するのです。同時に引き返せない決定になります。
また、人間とのもう一つの違いは、天使は、決定のすべてを一挙に見ていることです。要するに、ルシファーは天主への奉仕を拒絶したときに、徹底的に全体的にその決定をしたわけで、頑固なほどに決めました。決定をした時に、勿論、引き返せない決定であることも知っていました。もしも、仮に引き返そうとしてもできないし、いや、それより可哀そうなことに、引き返そうとすることでさえできません。後ろに戻ることはもうできません。悔い改めることはできません。意志は、それきり、頑固になってしまいました。段階的に働いていない意志だから、単純な一気の行為ですから。全体で完全な行為だからです。
要するに、地獄にいる天使らは、智慧においては盲目になり、悪において頑固になって、天国から排除されています。その上に、屈辱的な苦悩に苦しまされています。「火」と呼ばれる苦悩です。これは物質的な火です。ここも、天主の全能さの御業ですが、物質的な火が、純粋に霊的な存在へ作用します。神秘ですが、悪の神秘だからこそです。天使がよく承知の上に悪を犯したという神秘です。わざと。そして、頑固に、悪を犯しました。
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それ以来、一方良き天使もいるとしたら、もう一方悪き天使もいることになります。天使らは、地上と人間とへ作用を及ぼします。人間一人一人に、良き天使の守護天使が天主によって与えられました。
ところが、同時に、悪き天使らは、人間を試みに地獄に堕とそうとして誘うことも、天主によって許されています。というのも、悪き天使らは、地獄から地上の人間を見るばかりか、人間のために天主が施す恩寵を見てばかりいるので、人間に嫉妬してならないからです。劣るはずの人間が受けることのできる幸せに嫉妬してなりません。勿論、天使の不幸より、人間の幸福は遥かに上ですから。要するに、悪き天使らは嫉妬しています。というのも、自分らが拒絶した栄光の境地に人間が辿り着けるということに対して嫉妬しています。
それで、悪き天使らは人間を誘うのです。が、人間の意志を強制することはできません。天使らは、人間の霊魂の奥底に対して、何の力はありません。人間の意志に強制することはできません。だから、外面から、感覚を通じて、自分らと一緒に地獄に突き堕すために、人間を誘ってみます。これこそは、嫉妬の酷いところで、悪へ誘導してしまう嫉妬です。言い換えると、自分の墜落へ、他人を突き落とそうとする嫉妬です。悪き天使らのやっていることです。
一方、天主から私たちに与えられた良き天使らは、守護の天使と呼ばれています。私たち一人に一柱(位)の天使が守ってくれています。つまり、良き天使らは、私たちを守り助けるためにいます。守護の天使のもっている限界として、悪き天使らと同様に(善においてですが)、良き天使らも人間の意志に対して力はありません。私たちの内面的な良心に、入り込むことはできません。影響力を持てるだけで、実際に、私たち一人一人に影響を及ぼしています。これが守護の天使です。私たちはかれらを敬うべき、尊敬すべきです。愛すべきです。その上に、当然ながら、天国に辿り着ける助けとして、こういった守護を与え給った天主に感謝すべきです。以上は、良き守護天使の説明でした。
因みに、天において、天使らは、あえていえば、部類別に分類されています。階級(天主を讃美する「聖歌隊」の階級とも)呼ばれています。パウロの書簡に、特に多くこの名称は引用されていますが、伝統に沿って、こう分類します。天使の9つの階級を分類します。
9つの階級は、天主の近くに侍って熾(も)えているセラフィム(熾天使)。天主に一番近い天使です。それから、ケルビム(智天使)、トロニ(座天使)、ドミナチオネス(主天使)、力天使、能天使、権天使、大天使、天使です。これが天使らの位階・階級です。
位階といっても、私たちを遥かに超えています。というのも、前回にも話したように、一柱(位)の天使にして、種のすべてを持っていますから。従って、植物か動物の種において、階級を設けることと違います。天使の位階は、天使の職能・聖務で決まるわけです。つまり、天主が向かわせた目的次第で決まります。ところが、この位階は、聖書において啓示されています。
最後に、存在している天使らの中で、非常に多くの天使ら、無数に多い天使たち、人間一人一人に、違う守護天使が付いているほどに多い天使らの中で、天啓によって私たちが知る天使らの名前は3柱(位)しかありません。まず既に触れた聖ミカエルです。
第二は聖ガブリエルです。これは聖書において、預言者ダニエルの前に出現する天使で、私たちの主イエズス・キリストの御降誕を知らせる天使です。また、聖ザカリアの前にも出現して、洗礼者ヨハネの誕生を予言する天使です。さらには、勿論、聖母マリアの前に出現して、救い者の母になることを御告げする天使です。
第三の天使は、聖ラファエルです。ラファエルとは「天主の薬」という意味です。旧約聖書において、若いトビアの共にして、一緒に旅立っている天使です。長い旅行の危険を守る天使です。他の天使らの名前は、聖書において天啓されていません。
公教要理-第十三講 守護の天使について
天使は、天主の被創造物です。天使の夥しき数で、天主の全能さを表明しています。黙示録の表現を借りると、天使は「数え切れないほど」います。天主の栄光のために、天使を創造されました。とはいっても、天使を創造したときに、すぐに天国に置きませんでした。説明します。
天主は、天使の本性を付与し、純粋な霊で、智慧と意志という本性を持たせて創造しました。天主は、聖寵をも与えたおかげで、超自然世界にまで天使を高めました。言い換えると、天使本性を超えるまで高めたお陰で、天主の生命への参与を与えたのです。とはいえ、その時は、まだ天主との一対一の至福直感までは行っていませんでした。要するに、創造されたときに、成聖の恩寵は与えられましたが、天主の栄光の内には、まだいませんでした。言い換えると、まだ、天にいませんでした。
それで、良き天主は、天使が天に行く資格があるかどうか、ある試練を与えました。この試練をもって、ある種のテストで、天主は、天使の忠実心と感謝の心を試しました。試練の具体的な内容について、不明です。つまり、天使の受けた試練は何だったか、わかりませんが、或る神学者たちの説によると、こういった中身です。托身なさった御言葉なる私たちの主、イエズス・キリストを礼拝せよと言った試練になるだろうと。
天使たちは、人間となった天主への礼拝を命令されたのではないか、ということです。しかし、天使にとって、人間という被創造物は、劣る存在です。遥かに、天使より劣る存在のように見えます。想像してください。人間は体を持ちますが天使には体がありません。つまり、天使にとって、人となった天主とはいえ、人間を礼拝するとは、なんということでしょうか。劣る者の前に頭を下げるに他なりません。こういった試練を受けたと思われます。つまり、天主なるこの人間のイエズスを礼拝する試練。
試練を前に、天使には、選択せざるを得ませんでした。礼拝するか。礼拝したら、試練を突破して、試験合格で天に卒業です。天に行けるというのも、天主の永劫かつ幸せな至福直感を得ます。また、試練を拒絶する選択もあります。あえていえば、天使の「人生」において、悲劇的な瞬間です。
それで、一柱(位)の天使が出てきます。一番偉大な天使として知られている「ルチフェル」(英語でルシファー)です。ラテン語では、「光をもたらす者」という意味です。間違いなく、天使の間に一番優位の天使です。彼は前に出て、礼拝を拒絶しました。「ノン・セルビアム」といいだしました。「私は仕えない!」と。「へりくだらないぞ」と。「私より、この人間の優位性を認めないぞ」と。言い換えると、「自分自身において、自分の幸せを見つけてみせるぞ」という意味になります。
このように、ルシファーは試練を拒絶したことによって、天主が向かわせていた栄光を拒絶したことになります。「ノン・セルビアム」「仕えないぞ」と言い出すのです。ちなみに「言い出す」と言っても、人間的な理解に過ぎません。当然ながら天使は人間のような感覚的な言語はありませんからね。
とはいえ、「絶対に使えないぞ」という意志は確かにありました。傲慢の罪です。「ノン・セルビアム」を発した上に、聖書と特に黙示録に基づく伝統によると、ルシファーは、すべての天使たちの三分の一を彼の後につけたとされています。
ルシファーに対して、もう一柱(位)の天使が答えました。ミカエルです。ヘブライ語だと、ルシファーに対する答え自体が「ミカエル」です。「天主同等のような者などいるものか」と。「天主のように、自分自身においてこそ自分の幸せを得ると言えるものはいるものか」。「誰が天主と同等たるぞ」と。つまり、「自分自身においてこそすべての存在と完全性の起源があると自称する者はいるものか」とのことです。
創造の時に、見たとおりですが、すべては天主から来ているわけです。
それで、ルシファーを相手に、ミカエルが「誰か天主と同じなるぞ」と訴えます。ラテン語で、「クイス(誰が)・ウット(同様)・デウス(天主)」と言います。ヘブライ語で「ミ(誰が)・カ(同様)・エル(天主)」と言います。それから、聖書の記しているところ通りに、戦いが始まりました。ルシファーと伝統上三分の一の天使とは、一緒に、地獄に突き堕とされました。大天使ミカエルの後を付いた他の天使たちは、試練を合格して、天に行くことを得ました。
要するに、その試練から、試練を承って天に辿り着いた良き天使もいれば、試練を拒絶して、つまり天主への服従を拒絶して、ある意味で、自分の中に閉じこもるような感じで、地獄に墜ちた悪き天使もいるということです。
天使にとって、恐ろしい罰です。人間から見ると、ちょっと理解しづらい恐ろしさです。
ルシファーのように墜落した天使、つまり罪を犯した天使は、自分の智慧においてこそ自分を盲目にさせたのです。その上、天使は単一ですから、その行為も単一で、完全でもあります。つまり、決めた行為を取り消し、決定を変える、意志を変えることはもう一切出来ないのです。罪を犯した天使は、自分の智慧を曇らせた上に、悪において自分の意志を頑固させてしまいました。
人間なら、物体を持っているから、そして、理性で考えているから、物事において、段階的にやらざるを得ません。要するに、見ていることにも順番があって、つまりよく考えている時にも、段階でやっています。ちなみに、西洋語の「合理」の語源は、論理の段階・プロセスにあります。論理とは段階的に考える挙句に、結論に至るからです。しかし、引き返すことも出来るわけです。段階があるから、できます。
天使なら、段階抜きに、実施します。天使は直感なる存在と言われています。つまり、何か決定する時に、徹底的に全体的に決定するのです。同時に引き返せない決定になります。
また、人間とのもう一つの違いは、天使は、決定のすべてを一挙に見ていることです。要するに、ルシファーは天主への奉仕を拒絶したときに、徹底的に全体的にその決定をしたわけで、頑固なほどに決めました。決定をした時に、勿論、引き返せない決定であることも知っていました。もしも、仮に引き返そうとしてもできないし、いや、それより可哀そうなことに、引き返そうとすることでさえできません。後ろに戻ることはもうできません。悔い改めることはできません。意志は、それきり、頑固になってしまいました。段階的に働いていない意志だから、単純な一気の行為ですから。全体で完全な行為だからです。
要するに、地獄にいる天使らは、智慧においては盲目になり、悪において頑固になって、天国から排除されています。その上に、屈辱的な苦悩に苦しまされています。「火」と呼ばれる苦悩です。これは物質的な火です。ここも、天主の全能さの御業ですが、物質的な火が、純粋に霊的な存在へ作用します。神秘ですが、悪の神秘だからこそです。天使がよく承知の上に悪を犯したという神秘です。わざと。そして、頑固に、悪を犯しました。
~~
それ以来、一方良き天使もいるとしたら、もう一方悪き天使もいることになります。天使らは、地上と人間とへ作用を及ぼします。人間一人一人に、良き天使の守護天使が天主によって与えられました。
ところが、同時に、悪き天使らは、人間を試みに地獄に堕とそうとして誘うことも、天主によって許されています。というのも、悪き天使らは、地獄から地上の人間を見るばかりか、人間のために天主が施す恩寵を見てばかりいるので、人間に嫉妬してならないからです。劣るはずの人間が受けることのできる幸せに嫉妬してなりません。勿論、天使の不幸より、人間の幸福は遥かに上ですから。要するに、悪き天使らは嫉妬しています。というのも、自分らが拒絶した栄光の境地に人間が辿り着けるということに対して嫉妬しています。
それで、悪き天使らは人間を誘うのです。が、人間の意志を強制することはできません。天使らは、人間の霊魂の奥底に対して、何の力はありません。人間の意志に強制することはできません。だから、外面から、感覚を通じて、自分らと一緒に地獄に突き堕すために、人間を誘ってみます。これこそは、嫉妬の酷いところで、悪へ誘導してしまう嫉妬です。言い換えると、自分の墜落へ、他人を突き落とそうとする嫉妬です。悪き天使らのやっていることです。
一方、天主から私たちに与えられた良き天使らは、守護の天使と呼ばれています。私たち一人に一柱(位)の天使が守ってくれています。つまり、良き天使らは、私たちを守り助けるためにいます。守護の天使のもっている限界として、悪き天使らと同様に(善においてですが)、良き天使らも人間の意志に対して力はありません。私たちの内面的な良心に、入り込むことはできません。影響力を持てるだけで、実際に、私たち一人一人に影響を及ぼしています。これが守護の天使です。私たちはかれらを敬うべき、尊敬すべきです。愛すべきです。その上に、当然ながら、天国に辿り着ける助けとして、こういった守護を与え給った天主に感謝すべきです。以上は、良き守護天使の説明でした。
因みに、天において、天使らは、あえていえば、部類別に分類されています。階級(天主を讃美する「聖歌隊」の階級とも)呼ばれています。パウロの書簡に、特に多くこの名称は引用されていますが、伝統に沿って、こう分類します。天使の9つの階級を分類します。
9つの階級は、天主の近くに侍って熾(も)えているセラフィム(熾天使)。天主に一番近い天使です。それから、ケルビム(智天使)、トロニ(座天使)、ドミナチオネス(主天使)、力天使、能天使、権天使、大天使、天使です。これが天使らの位階・階級です。
位階といっても、私たちを遥かに超えています。というのも、前回にも話したように、一柱(位)の天使にして、種のすべてを持っていますから。従って、植物か動物の種において、階級を設けることと違います。天使の位階は、天使の職能・聖務で決まるわけです。つまり、天主が向かわせた目的次第で決まります。ところが、この位階は、聖書において啓示されています。
最後に、存在している天使らの中で、非常に多くの天使ら、無数に多い天使たち、人間一人一人に、違う守護天使が付いているほどに多い天使らの中で、天啓によって私たちが知る天使らの名前は3柱(位)しかありません。まず既に触れた聖ミカエルです。
第二は聖ガブリエルです。これは聖書において、預言者ダニエルの前に出現する天使で、私たちの主イエズス・キリストの御降誕を知らせる天使です。また、聖ザカリアの前にも出現して、洗礼者ヨハネの誕生を予言する天使です。さらには、勿論、聖母マリアの前に出現して、救い者の母になることを御告げする天使です。
第三の天使は、聖ラファエルです。ラファエルとは「天主の薬」という意味です。旧約聖書において、若いトビアの共にして、一緒に旅立っている天使です。長い旅行の危険を守る天使です。他の天使らの名前は、聖書において天啓されていません。