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オリーブ山(ゲッセマネ園)でのキリストの苦悶 【公教要理】第三十七講 贖罪の玄義[歴史編]

2019年04月02日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第三十七講  贖罪の玄義・歴史編・オリーブ山(ゲッセマネ園)でのキリストの苦悶


最後の晩餐の後の垂訓が終わり、律法に定められた賛美歌を歌って、私たちの主は立ち上がりチェナクルム(高間)を下り去ります。

そしてエルサレムを去り、ケドロンの谷を経て、ケドロン川を渡り、向こう側の坂を途中まで登られます。オリーブ山のふもとに着きます。園ですが、名前通りオリーブの木のある園なのです。ゲッセマネの園とも呼ばれています。

そこで私たちの主は苦悶に入ります。苦悶・憂い(agoniaアゴニア)という言葉はギリシャ語から由来しますが語源は「戦い」という意味です。私たちの主は、使徒たちに向けて「誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈れ」 と仰せになります。それから、聖ペトロと聖ヨハネと聖ヤコブを連れて行き他の弟子たちからちょっと離れて、ご自分の祈りに合わせて祈るように三人の使徒に御頼みになります。そこで私たちの主は「憂(うれ)い悲しみに捕らわれだして」 、苦悶に入って伏して跪いてしまいます。

苦悶の状態に入って、私たちの主は御自分の心の深くまで不安で憂(うれ)います。苦難において受けるべきすべての苦しみに対する苦悶です。艱難のすべての苦しみをすでにご存じです。
また、苦難の苦しみの一つ一つに細かく知り御覧になられます。イエズス・キリストがそこで苦しみの一つ一つを心理上、既に感じて経験されます。というのは、私たちもまた体で苦しみを受けていないものの、心理上、苦しみを思うだけで感じうる苦しみがあるように、主もそれを感じておられたからです。

その上、イエズス・キリストの感じた苦悶(憂い悲しみ)は、御自分が負われた人類のすべての罪のせいでもあります。私たちのために、罪とさえなってくださったからです。
最後に、苦悶の理由は、その後、ご自分の御血でお捧げする犠牲が、残念ながらもある霊魂たちによっては侮辱されることを知り、御自分の犠牲によって人間を贖った贖罪の功徳をそれらの霊魂が得られないことを知り、憂い悲しみに捕らわれだし苦悶なさるのです。
私たちの主は、心の底まで苦悶を深く経験なさります。



それほど深く激しく感じるあまり、人間としての本性は恐れて気持ちが挫かれます。苦しみに対する人間の本性にある自然な反応です。私たちの主はそれから受ける大きな苦しみに対する嫌気が湧きます。そこで、ご自分の心で本当の意味での戦いが起きます。
「父よ、できればこの杯を私から取り去り給え」と。
「けれども、私の思うままではなく、み旨のままに」と続いて祈りだされます。

以上の言葉はお互いに矛盾関係にあることに見えているかもしれませんが、前者はイエズス・キリストの人間本性から来る言葉で、後者はイエズス・キリストの天主性から出てくる言葉です。前者は感覚上から来ており、後者は天主性が覆った意志から来ています。

つまり、私たちの主は、み心の奥深いところで、「ご自分」対「ご自分」という戦いを味わうのです。これはまた罪に対する戦いでもあります。しかし「み旨のままに」と言われます。
それから、私たちの主は一時間ぐらい祈りに耽ってから、使徒たちのところに戻ります。すると三人の使徒は眠っています。

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考えてみると、なんて惨めな情けないことでしょう。私たちの主は三人の使徒たちを起こして、聖ペトロを叱ります。「そんなふうにしてあなたたちは、一時間さえ私とともに目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈れ。心は熱しても肉体は弱いものだ」 と仰せになります。
それから聖ルカに言われてるように「石を投げて届くほどの距離をおき」 、私たちの主は再び祈りに耽るのです。
一回目と同じ祈りを捧げて、苦悶が続きます。医者なる聖ルカが指摘するところですが、私たちの主の苦悶は額に血の汗をかくほど激しい苦しみとなりました。血をかくのです。医学上に稀になるものの、精神上の大衝撃を示す症状です。で、私たちの主はその大衝撃を受け入れることになさいました。が、その大衝撃で(普通の人間なら死んでいたはずなのに)それでは死なぬことになさいました。すべての苦しみを受け入れて最後まで、すべての苦しみを味わうことになさいました。「苦杯をなめ尽くす」ことになさいました



一方、使徒たちはずっと眠ってしまっています。しかしながら、義人なら安眠できるような睡眠のではなくて、福音に記されるように「まぶたが重くなっていた」 のです。使徒たちは今何が起きているか分からないのです。彼らにとって、たんなる謎に見えています。そこで、一柱(一位)の天使が私たちの主の前に現れます。私たちの主を慰めるために、もしかしたら贖罪の実りをお見せするために、また同時に、「もう行くべき時が来た」と知らせるために現れます。
「この杯を遠ざけることはできない」と言わんばかりに。
「み旨のままにならん」と私たちの主が仰せになりました。苦悶の場面です。二度目、使徒たちを起こして、二度目祈りに耽ります。

三度目起こし、三度目祈りに耽るのです。そして、三度目に使徒たちを起こしたら、「さあ立って行こう」 と仰せになります。すぐさまに、カチャカチャと聞こえてきて、遠くから松明の光が近よるのが見えます。兵士たちです。ユダが先立って道を案内しながら司祭たちに送られた兵士たちが近寄ります。
ユダはオリーブ山に入り、私たちの主イエズス・キリストのもとまで近寄ります。確かにユダが言ってあったのです。「私が口づけするのがその人だから、それを捕えよ」 とユダが合図をしてあったのです。言った通りです。合図は口づけです。「Tenete eum」「それを捕らえよ」と。つまり「しっかりと捕らえよ。私の良く知っている彼だから、奇跡をしやがる者だからね、逃げられるからしっかりと」と言わんばかりに。「しっかりと捕まろ」と。で、兵士たちが近寄ってきます。

先ず、ユダが私たちの主に向けて「アヴェ・ラビ」「主よ、挨拶を申し上げます」といってから、口づけしました 。

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その時に、私たちの主はユダに対してもう一度憐憫(れんびん)の言葉を施すのです。「友よ、」 とユダに仰せになります。「友よ」と。偽善では全くありません。「あなたは口づけをして人の子を裏切るのか」 とユダに仰せになります。確かに逆説ですね。口づけというのは、愛を示すはずなのに、この場面では口づけをもってユダが裏切るのです。つまり、口づけをもって主に対する憎しみを示し、「あなたは口づけをして人の子を裏切るのか」 と。

ユダは答えないままです。それから、恐らく、目立たずにその場を去ったのでしょう。私たちの主は一歩進み出ます。ここも、私たちの主は、ご自分の天主性及びご自分の愛の聖心を示すのです。「誰を捜しているのか」 とお聞きになります。すると、兵士たちは「ナザレトのイエズス」 と答えます。「わたしがそうだ」とお答えになります。次に具体的に何があったか、兵士たちの一列目がちょっと下がったか明白ではないけど、福音者に曰く「彼らは後ずさりして地に倒れた」 とあります。なんといっても凄いでしょう。私たちの主の天主性のもう一つの証しなのです。兵士たちは地に倒れたのは、もっともなわけです。というのも主を捕らえるのは不正なことですから。

同時に、私たちの主は、ご自分自身の意志でご自分を捕えさせるということを示します。捕えられるのを待たないで、ご自分から進んで出て、お聞きになります。まさに私たちの主は、逮捕の時も含めて出来事のすべてを司る御方なのです。「私を捕えることがでできるのは、私が望んでいるからであり、自分を自分で差し出すからにすぎない」ということを示す場面です。「私を捕えることがでできるのは、私が望むからだ」と。
「誰を捜しているのか」 「ナザレトのイエズスなら、この私だ」と。「私が自分で私を渡すので、私を捕えなさい」といわんばかりに。要するに、私たちの主は、捕らえられたのではなく、捕えさせました。同意して捕らえさせました。聖パウロ曰くに「天主に御自分を渡されたキリスト」 とある通りです。「わたしがそうだ」 とお答えになります。

兵士たちは立ち上がり、私たちの主が二度目に「誰を捜しているのか」 とお聞きになります。「ナザレトのイエズスを」ともう一度兵士たちが答えます。「私だと言っている」 と主はお答えになります。その時、血気はやる聖ペトロは自分の主を守ろうとして、剣を抜きます。わざだったのか、不器用でそうしてしまったのか、警告のしるしだったのか不明ですが、兎に角、聖ペトロはある下男の耳を斬るのです。
私たちの主は、聖ペトロに向けて「剣をもとに納めよ」 と仰せになります。繰り返しのような説教または思い出させるような言葉です。つまり、「ユダヤ人が私を捕らえようとするたびに私は逃げることができただろう」といわんばかりに。
「ずっと私は逃れてきた。私が捕えられる運命なら、天主の御旨のままに」と言わんばかりに。

「私が父に頼めば、今すぐ十二軍にも余る天使たちを送られることをしらないのか」 と仰せになります。ここで、私たちの主はご自分の王という本性と、ご自分の天主性を示し給います。聖ペトロに言っていることは結局、「私は、十字架上で死ぬことにした。私の時は来た。もうよい。」ということです。



それから、私たちの主は耳を拾って、斬られた兵士の傷跡の元に戻して直します。死ぬまでになさった私たちの主の最後の奇跡となります 。この奇跡をもって繰り返し、ハッキリと御自分の天主性を示すのです。周辺の皆の目に余るほど、その天主性を確認します。耳を拾って元に戻して瞬間に直すなんて只者の業ではないでしょう。この単純なちょっとした業だけで、ご自分の天主性を皆に知らせるのです。

しかしながら、兵士たちは命令を果たします。私たちの主を逮捕します。そこで、死ぬ前の最後の親切な振る舞いを施す、というか兎に角、目立つような私たちの主の親切な行為の最後になります。使徒たちに向けての親切さです。
「私だと言っている。私を捜しているのならこの人々を去らせよ」 と仰せになって、使徒たちを逃させます。つまり、「苦しむべき者は私だ。最後までこの杯を飲むべき者は独りにわたしだ」ということです。「彼ら使徒たちも杯を飲むが、それを飲むのはいまではない。去らせよ。」ということです。
そこで、兵士たちは使徒たちを逃します。だから、私たちの主のお陰で使徒たちは逮捕されず済むのです。まあ、どちらかというと、その時に使徒たちは、皆、独りも欠かさず逃亡します。私たちの主を一人にさせてしまいます。それから、オリーブ山で、私たちの主は縛られたのです。


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