ファチマの聖母の会・プロライフ

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なかなかの平手打ち|サンタクロースの知られていない奇跡

2022年01月28日 | ファチマの聖母の会とは?
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

サンタクロースのモデルと言われている聖ニコラス司教は、多くの奇跡をおこしたことが伝えられています。



プーガ(D.Puga)神父様のお説教  
なかなかの平手打ち
2021年12月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、本教会の守護聖人、聖ニコラスを祝うために、大勢集まられて嬉しく思います。また、本教会は大聖人聖ニコラスの守護を仰ぎ、光栄に思います。

リュキアにあるミラの聖ニコラスです。リュキアは当時、小アジアと称して、今のトルコにあたります。聖ニコラスは単なる司教でしたが、司教らしく、自分に与えられた群の世話をつづけました。3-4世紀ごろでした。聖ニコラスは大変に有名になったのは、死後、多くの奇跡を起こしたからです。聖ニコラスの墓に参ると、聖ニコラスの執り成しによって多くの驚く奇跡がありました。

だからといって、この世での聖ニコラスの戦いを忘れてはいけません。なぜなら、聖ニコラスの司教在位の最初のころ、迫害を受けました。古代ローマのディオクレティアヌス帝の大迫害の時代でした。逮捕されて、数年にわたって牢屋にいました。そして、牢屋にいても信徒さんたちの信仰を支え続けました。

そして、司教在位の後半、コンスタンティヌス帝が回心するようになって、迫害が収まりましたが、今度、大変な異端が現れました。アリウス主義でした。異端名はアリウスという司祭に由来していて、アリウスがはじめて提唱した異端です。アリウスはアレクサンドリアの大きな小教区の一人の司祭です。

アリウスは我らの主、イエズス・キリストにすこぶる驚嘆して、善意をもって信仰を守ろうと思っていたはずですが、傲慢になり誤謬に陥りました。なぜ傲慢になったかというと、アリウスは苦行で広く知られて多くの人々が彼の教えを聞きに来たりしていたからです。このせいで、傲慢に陥り、また捨てるべきだった誤った哲学を見捨てることを拒んだ結果、我らの主イエズス・キリストのご神聖を否定するようにいたりました。はい、そうなのです。

なぜなら、アリウスにとって創造と発生とは同じ事柄でした。創造はある時点から始まるものですね。そしてアリウスにとって、発生というのも、時間において始まりを持たなければならないと思い込んだのです。また聖書において、明らかに御子の「発生」があると啓示されています。ですから、アリウスはこう結論しました。意向を踏まえて、合理的にいうと「イエズスは永遠ではない」という結論に至りました。そうなると、イエズスは天主ではないと結論せざるを得なくなってしまいました。そうなると、天主において、御父と御子とがなかった時代もあったと。
これらは重大な異端です。

残念ながらこれらの異端は意外と広く受け入られました。なぜなら、これらの異端を肯定すると、信徒の日常生活を楽にさせるからでした。イエズスが人間だけなら、わかりやすくて、厄介な質問がされなくても済むし、またアリウスは音楽を作成することが上手でしたので、自分の教えを覚えやすい音楽・歌にして、広く流されて一般信徒までおぼえられてしまいました。
そして、アリウス主義の異端は非常な規模まで拡大しました。カトリック教会自身がアリウス主義になったのではないかを思わせるぐらい流布しました。

聖アタナシオスだけは確固たる姿勢を示し、一歩も譲りませんでした。ニケア公会議を遵法しました。アリウス主義の異端が拡大し始めたころ、コンスタンティヌス帝の招集令の下、教皇シルウェステル1世の承認の下、ニケア公会議がはじまりました。アリウスをも誘いました。そこに参列していた300人以上の司教の前で、アリウスが自分の教えを説明させるためでした。325年のことです。第一回の公会議です。

コンスタンティヌス帝の回心はつい最近のことです。要するに、アリウス神父は自分の神学説を弁護するために誘われました。そして、そこに集まる司教たちは話し合って、カトリック信仰に照らして、この神学説の是非を判断する目的を持った公会議でした。
公会議に参列した司教たちの内に、ミラの聖ニコラスもいました。ですから、今晩、ニケア公会議と聖ニコラスについてご紹介します。



ニケア公会議はご存知のように、アリウスの説を断罪しました。
ニケア公会議の間に起ったある場面が記憶に残りました。これはアリウスが自分の説を紹介する時でした。そして、聞いている司教たちからアリウスへ問われました。「そうなると、アリウスにとってイエズスは天主の被創造物であるということですか」と。そしてアリウスは「はい、その通り、イエズスは被創造物です」と答えました。会衆にはざわざわとして、いっぺんに、皆、恐れおののいたかのような空気になりました。なぜなら、これほどの冒涜を平気に言えることはショックでしたし、またアリウスの結論から生じるとんでもない帰結をも予想したからでした。

アリウスの理論を追求させたら、イエズスは天主によって創造された、ある種の偉い、高等天使のような存在で、肉体を問った天使だとします。そしてこのすごい天使は天主の全能を通じて、全宇宙を創造したとされます。そして肉体をとったのですが、天主ではないとアリウスは言います。聖なる三位一体の第二の位格ではないということです。

しかしながら、肉体をとったからといって、アリウスにとってイエズスは本当に人間でもないという立場です。なぜなら、アリウスにとってイエズスの霊魂は人間の霊魂ではなく、霊的なロゴスと称する、いわゆる天主以外の至上の天使の霊魂であるとアリウスが言っているからです。
愛する兄弟の皆さま、以上のアリウス説の帰結はなんですか。キリスト教の全滅を意味します。なぜなら、イエズスが天主ではないのなら、天主は御托身(肉体になりたまう)を実現しなかったことになります。つづいて、イエズスは天主でなければ、十字架上に我々を贖罪し給うたのは天主ではないという意味になります。さらに、イエズス・キリストは本当の人間でなければ、人類を贖罪したのも人間でなくなります。人類の一員が贖罪の玄義を行ったという意味がなくなります。御托身の玄義も、贖罪の玄義も、聖なる三位一体の玄義も否定されます。つまりアリウスの愚論は信仰の基盤を攻撃していました。



ニケア公会議のその場面にもどりましょう。この冒涜を聞いた司教たちは声をあげて反論します。訴えます。
すると、一人の司教は立ち上がって、アリウスの説を聞いて憤ったあまり、アリウスの近くまで来て、アリウスへかなり激しい平手打ちを与えました。この司教は他でもないミラの聖ニコラスでした。

それを見ていた他の司教たちは驚いてちょっと異議を立てます。「アリウスがこれほど冒涜したとしても、これほどの反応までする必要はないだろう。アリウスも司祭なので、司祭職に対する尊厳はどうなるのか。あなたは司教だろう。教会法に照らしても聖職者が殴られるべきではないと定められている」などの批判が高まりました。

この結果、そこにいた全員揃って、その司教に対して罰することを決意します。聖ニコラスの司教服はその場で脱がせられました。また、皇帝に申し付けて、「聖ニコラスを投獄するよう」と要求しました。理由は「教会法を甘くみることを放置するわけにはいかない」というものです。
また当時の東洋では、司教職を象徴していた「Omophorion」という布をも取り上げられました。西洋では「パリウム」とちょっと似ていますが、パリウムと違って、当時の司教なら身につける一般的な司祭服でした。要するに、司教職を示す服でしたね。

可哀そうなミラの聖ニコラスはそのまま、牢屋に投じられました。しかしながら、聖ニコラスの平手打ちは激情に負けてのことではなく、聖なる怒りによってイエズス・キリストに誘導された行為だったのです。
つまり、聖ニコラスは牢屋にいましたが、牢屋に聖母マリアが現れました。聖母マリアは何も言いませんが、聖母マリアの手には司教職を示すOmophorionがありました。そして、そのOmophorionは聖母マリアにより聖ニコラスへ渡されました。

数日が経ちました。投獄の期間は数日間でした。なると、ミラの聖ニコラスは赦免されて、公会議に戻ることが許されます。たしか、公会議に出る時、没収されたはずのOmophorion即ち司教服を身につけていました。それを見た会衆は聖ニコラスが改めて他の司教と一緒に公会議で座れるべきだと認めざるを得なかったです。

愛する兄弟の皆さま、しいて言えば、なかなかの平手打ちでしたね。確かに、我々は異端者を殴るようなことをしてはいけません。我々の戦いは霊的なものだからです。ただし、この平手打ちは正しい憤慨の現れです。
そして、最終的に、ニケア公会議は改めてはっきりと信仰を断言しました。つまり、イエズス・キリストは聖なる三位一体の第二位格であることが示されました。御父と同質であり、永遠であるのです。また、肉体になりたもうた人間です。また、十字架上にて我々を救い給いました。本物の天主からうまれた本物の天主です。

その後、信経を唱えられます。聖ニコラスの信仰を念頭において唱えましょう。この信経はニケア公会議が制定した祈祷です。ですから、ニケア公会議はカトリック教会において非常に重要な役割を果たしました。それにもかかわらず、アリウス主義という異端は広まり、流布しますが、聖アタナシウスや歴代教皇がそれに対して戦いました。
聖ニコラスは天主の良い僕として、自分の教区にて安らかに亡くなりました。

愛する兄弟の皆さま、なぜ以上の話をしたかというと、1975年との関係があります。
本教会、聖ニコラスは現在、聖ピオ十世会の司祭たちがお世話になっています。ご存じのように、聖ピオ十世会はルフェーブル大司教によって創立されて、70年代になって、多くの困難にあいましたね。公会議に続いて、多くの新しい典礼や改革に対して抵抗し始めた大司教でしたので、多くの困難にあいました。公会議などの改革は本来ならば平信徒に影響を及ばないはずでした。

そして、70年代なら、多くの人々はルフェーブル大司教が新しい聖アタナシウスではないかと言われたりしましたが。つまり、新しいアリウス主義に対するカトリック信仰を守る聖アタナシウスだと。時々、聞いたことですが、本当であるかどうかわかりませんが、ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)は「ルフェーブル大司教は20世紀において司教の内でも数少ない一番優れている方です」と言ったそうです。そのように言われたかもしれません。

それはともかく、1975年になって、思い出すのも悲しい教皇パウロ六世はルフェーブル大司教に書簡を書きました。思い出すのも悲しいというのは、いま、聖伝典礼は虐待されて、非常に限られたところでしか捧げられなくなった状態はそもそもパウロ六世のせいだからです。それはともかく、パウロ六世は1975年、ルフェーブル大司教に書簡を送りました。いまでも聖ピオ十世会は保管している書簡です。1975年6月29日の書簡です。こうあります。

「第二ヴァチカン公会議はニケア公会議ほど重要であり、もしかしたら、ニケア公会議より重要であるかもしれない」という教皇の文章があります。問題は第二ヴァチカン公会議が信条に関する断言と誤謬に対する断罪をあらかじめあきらめていました。これは公会議の最初から明らかにされて、司牧活動に限っての公会議だとあらかじめことわっていました。

また第二ヴァチカン公会議は正式に、王たるイエズス・キリストの社会への統治権などを横へうっちゃったのです。このような教義を無視した公会議と教会の宝石なるニケア公会議とをいったいどうやって比較できるでしょうか。今でも毎日曜日に唱える信経を定めたニケア公会議です。第二ヴァチカン公会議と比較できるものですか。第二ヴァチカン公会議は「エキュメニカル」だと自称しましたが、「エキュメニカル」の二重の意味を利用して誤魔化し、公会議は他の宗教との合併を障害するあらゆる要素を斬り捨てようとしました。

愛する兄弟の皆さま、あさっては無原罪の御宿りの御祝日となります(12月8日)。聖母マリアはリベラルの方ではありません。自由主義者ではありません。聖母マリアはよく知っておられました。聖ニコラスはアリウスにたいして平手打ちをした時、罪をおかさなかったのです。ちなみに、アリウスの最期は惨めで酷かったです。

いや、聖ニコラスの平手打ちはイエズス・キリストへの激しい愛、礼拝などの心から生じました。愛される御主が侮辱されて、何もせずにいられませんでした。このような激しい愛をだれよりも理解しておられる方は聖母マリアです。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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