図説 ユング―自己実現と救いの心理学河出書房新社このアイテムの詳細を見る |
わたしが学生の頃は、心理学といえばフロイトだった。
ユングも年はかなり下だがフロイトと同時代であり
フロイトをして「わが息子」「後継者」と言わせるような関係だった。
のちに決裂していくのだが、フロイトとユングを分かったものは
心理学における「女性性」「男性性」の考え方の相違であったと思う。
今の日本では、特にユングの方向性が抜群にマッチしているように思う。
(ユングでないと心理学じゃないような風潮…河合隼雄の影響力が大きい?)
結果として良い悪いが評価されているのかどうかも私達には分からないまま、小中学校や児童相談所に(たいていは)博士課程を卒業した心理師の皆さんが配置されています。
多分悪いことではなさそうですが、どういう効果があるかとか、どういうカウンセリングはよい結果を出し一方これは余りよい結果は出なかったといった評価なしにどんどん勧めていくのが果たして良いことなのか。。。と思います。結果が出ているのならしりたいです。
私は結構、青少年関連の臨床心理の症例などを
読んだりします。でも私は、巷に転がっている
「カウンセラーもどき」の人々を全然信用していません。思春期の子どもが、全身全霊を賭けて「ぐれて」いる時に、「お子さんのしたいようにさせてあげなさい」などと言うようなやつには「地獄に堕ちろ!」と
言いたくなります(あら、下品です)
また、ここ数年メキメキ儲けだしている
「コーチング」という代物もなんか違和感ありますね。
カウンセリングにしろコーチングにしろ
横文字になっていて、もともと外国から入ってきた
ものですが、私は地域社会が存在していた頃の日本では、このことは普通にその社会生活の中で行われ、人々の苦悩やストレスもそのなかで解消していったと思っています。
(井戸端会議や赤ちょうちんの付き合いなど)
ま、他に害もあったかもしれませんが。
「プライバシー」という概念が入ってきてから
日本人が失ったものは数限りなくあると思います。
琴音さんが書いてあるように、もっと日本人の感覚にあった方法があるように思います。
ぶっちゃけな言い方をすれば、カウンセリングもコーチングもただの技術です。
日本人がもっている、心の温度に響く方法があってもいいんじゃないかと思ってます。
勿論良くない面もあったけれど
色々な事情な人がいる・これ以上は他人は入り込んじゃいけないという距離感を学んだり
利害関係がないからこそ慰めたり慰められたり出来るという機会だったなあと思うんです。会社の人間関係じゃ出来ない事多いですから。働いている時間はおしゃべり出来ないし。他所の子に親しむ機会もありませんしね。琴音さんは地域社会に参加の場を持っておられますね。なかなか出来ないことと頭が下がります!
肩書きなしに他所の子に働きかけられるくらい信用して貰える大人になりたいわ。年は十分とっていてもそれだけじゃ駄目ですね。私が子供の頃近所のオバサンは重要なお手本でしたよ。。。
西洋から入ってきた心理学の手法がこなれていない
のかもしれませんよね。
日本のもので、ほんとにもともとここにあって
純粋なものって、なかなか少なくて、みな外国から
やってきたものを、日本流に変化させて
うまく使ってきた、というべきか…
まあ、それをして「さるまね」の文化といわれて
しまうのでしょうね。
自分の国の良さをあまり重視してないのは
戦後に始まったことではないようですよ。。。
今度読んでみようと思います。
若旦那さんのお話はなかなか難しいですね。
カウンセリングの考え方の中に、この禅の表現によくある「あるがままを受け止める」ということが
ありますね。
でも、どちらかというと、禅的な思考ではなく
人間存在をまるごと受け止めていく、という
「母性の愛」「母なる愛」みたいに私は感じていますが…どうなんでしょうか。
お金を出して、いろいろと学ぶ時代になったのかな?
疑問はつきませんが、今少子化になって
子どもを溺愛してるっていうけど
私が子どもの頃の親たちって、もっと子どもに
関心があったし、行事とかも熱心だったと記憶
しています。
(近所のおばさんにいっぱい世話になりました。)
そこでも、さまざま学んだと思うのですが
そういう場も今はなくなってしまったのですね。
カウンセリングにしろ、コーチングにしろ
そんなすぐには問題解決できるわけもなく
結局は時間をかけて、クライアントとカウンセラー
または、コーチが関係を作り上げた後に
いよいよ本題に入るわけですから、そんなんなら
その人の周辺に居る人の助けを借りれば!
とかって、思ったりしますね、僭越ながら。。。
つまり、信頼して打ち明けていく人間関係を
もっていないって、そういうことなんでしょうかね。
思いやりは大切だけれど、ご機嫌を取り合う関係というのはプライベートな関係としては息苦しいかなあ。
かたや、身近な相手には敏感なのに人の苦しみは分からない、車中で化粧したり大声出したり音漏れさせるのは平気・そういう風に変ってきていると何年か前から言われていますね。
考え方の違う者同士無駄に攻撃しあうのではなく、きれい事になってしまいますが良い点をいかしてある一定の分かり合える部分をもってやっていけるといいなと思っています。
「適切な人との距離」、それをを把握するのは
なかなか難しいことですよね。
それはむしろ、散々失敗した後に自分自身獲得する
そういうもののようにも思います。
人生の最初から、円滑な人間関係を築くということは、
実は夢想ではないかと私は思ったりします。
恐れず、自分をさらし、人と接する中でこそ
(たとえ軋轢に苦しむとしても)
より良い人間関係のはじまりを見つけられる、
と考えます。
傷つくことを避けようとすれば
深いところでの相互理解も生まれにくく
人との繋がりを実感しにくいでしょう。
つまり、いつもどこでも武装したままでは
人も自分を受け入れてくれないからです。
人との関係は、やはりさまざま揉まれる中で
自分も他者も傷つきながら
よりよく生きていこうと模索し続けるものだ、
それが人間の生きる道かも、と思う昨今です。