2012年7月22日(日)晴れ
京都芸術劇場 春秋座(京都造形芸術大学内)にて
『イジチュール』の夜へ
という不思議なパフォーマンスを見て来ました。
これを見ることになったのは
たまたまよく知る人がこの京都芸術劇場の会員に最近なって
何かを観にいこうということで目にとまったのがこれでした。
これを選んだ動機はおそらく多くの観客もそうであったように
教授こと坂本龍一氏が音楽で参加ということで彼の音楽を生で聴きたいという
それだけといっても過言ではありませんでした。
でも、見るからにはマラルメって?ってことで調べたりするのですが
あまりわからず、その詩とかも本屋さんで見つかるような多く流通しているものでもなく
アマゾンで見たら、パソコンが買えそうなぐらいの値段の全集しかありませんでした。
だから、まあいいかとなんの勉強もすることなく
ただ、見に行きました。
企画は浅田彰氏と渡邊守章氏
構成・演出は渡邊守章氏
朗読は渡邊守章氏と浅田彰氏
音楽・音響は坂本龍一氏
映像・美術は高谷史郎氏
ダンスは白井剛氏と寺田みさこ氏
ステージに登場するのは渡邊氏、浅田氏、坂本氏、白井氏、そして寺田氏と
5人だけでした。
最初から
「これはなんだ?」という摩訶不思議な世界に
戸惑うし、何を捉えたらいいのかも検討がつきませんでした。
とにかくフランスの19世紀後半の詩人のマラルメの詩人としての立場と
彼の作品を交差したものだというのがふんわりとわかってきました。
渡邊氏がまず一人で舞台に立ち、日本語でそしてフランス語で言葉を放たれます。
その日本語を頭の中で理解しようとするとどんどん先へ走っていってしまって
まったく追いつかないような言葉の群れに私は仕方が無く
まるで幼子が言葉を覚えるように、響いた単語だけを頭の中で繋げていきました。
虚無
夢想
美
永遠
精神
純粋
深夜
時間
鏡
無限
絶対
狂気
混沌
不能力
これらの言葉がぐるぐるといろんな言葉の合間に何度となく
くりかえされていきました。
この中に「暁鳥」という言葉が出て来た時に
なぜか私は村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を思い出していました。
あの夜と窓とねじまき鳥のシーンが
このマラルメの描く世界に重なってきました。
このパフォーマンスを説明するのはとても難しいけれども
渡邊氏が朗読するのに合わせて美しい肉体のパフォーマンスを
静かに動いているのに静かに音もなく見せてくれる白井氏と寺田氏は
ほんとうに素晴らしくて、生きているアートを見ているようでした。
そして、ピアノをピアノとして扱うのではなく
音を出すものとしてあらゆるところから音を生み出していく
坂本氏のパフォーマンスにも驚くとともに不思議な感覚を覚えました。
そして、何より私が感動したのはステージにおかれた2枚のスクリーン板というのか
それを使って幻想的な映像を2人のダンサーと溶け合わせてみせる演出に
ほんとうにうっとりとしてしまいました。
そのシーンの中では最近発売された
The John’s Guerrilla というバンドの
『ALL POWER TO THE PEOPLE』というアルバムジャケットをそのまま
ステージで展開しているようなものもありました。
同じっていうのではなく、同じ空気感というのか。
実際にステージでその裸体をさらすというのではないけれども
おそらく絹が張られたスクリーン板(なんていうのか知らないので)の
向こうに見える人影はまさに人間の体そのものであって
それがスクリーンに写し出される映像や文字の中で
オレンジがかった肌色を自由自在に動かしていくのです。
それが本当に美しくて。
2枚のスクリーンが並べられて
それぞれに肌色の幻想がくりひろげられて対をなすわけです。
全体的にパフォーマンスにはろうそくがとても重要な小道具であり
その光がマラルメのしがみつこうとする最後の夢のような気すら
していました。
正直、日本語を聴いている時はとても重い気持ちになってしまうのに
フランス語になると体はリラックスしてほっとしていくのがなぜなんだろう?
ってずっと考えていました。
日本人だから日本語に訳さないと意味がわからないということで
日本語になっているのだろうけれども、この詩はフランス語によって
初めてその生命を輝かせるようにも感じました。
別に意味なんてわからなくてもいいのかもと思いました。
感じること。
それが詩の望むところなのでは?と。
言語を超えて、
その音だけで実は人を癒していく。
私が幼少の頃から英語の歌を聴いてそれらを愛して来たように
それぞれの国の言葉には実はみんな音楽が伴っていて
それがその言葉が一番伝えたいことなんじゃないかと。
日本語には日本語で伝える音が
フランス語にはフランス語で伝える音が
それを変えてしまうと
伝わるものも伝わりにくくなるのかもしれないと
このステージを見ていて感じました。
このステージの素晴らしいのは
それを具現化して見せてくれたことです。
日本語の朗読もしてくださって
それはいわゆる音声を選んで聴いてくれていいですよって
いうサービスであったと私は思うのです。
本当のところはそのダンスと音楽と映像とフランス語だけで
日本人の私たちでも十分に「したがって」(イジュールの意味)
夜を魂を夢を絶望を混沌を感じれると思いました。
同じ渡邊氏が朗読しているのに
自分の母国語である日本語より
フランス語で読まれている方が
数倍も心に滲みて来ました。
で、ほっとしました。
その言葉に体を委ねていたいと思いました。
今回行った動機は坂本氏だったかもしれませんが
私はフランス語の音の響きと
ダンサーの方と映像にほんとうに
すっかりまいってしまいました。
坂本氏の奏でる音たちは
そのダンスや詩にまるで真珠のネックレスでも
かけるかのようでした。
このプロジェクトは
心から素晴らしいと感動したし
意味はまったくわからなくても
自分自身に何かを持ち帰れました。
あ~もっとこのパフォーマンスを深く考えたいとも思いました。
遠い昔、イギリスで見たリンゼイ・ケンプが彼の劇団とは関係なく
だれか(忘れました)とのプロジェクトでやったパフォーマンス劇を
思い出しました。スペイン戦争が舞台となっていたそのパフォーマンス。
パントマイムと映像が交差する世界。
私は言葉を超えた言葉に心を昔から振るわして来たんだなと
人間は言葉を超えた大事なものをもっているというのを
思い出させてくれた夜でした。
京都芸術劇場 春秋座(京都造形芸術大学内)にて
『イジチュール』の夜へ
という不思議なパフォーマンスを見て来ました。
これを見ることになったのは
たまたまよく知る人がこの京都芸術劇場の会員に最近なって
何かを観にいこうということで目にとまったのがこれでした。
これを選んだ動機はおそらく多くの観客もそうであったように
教授こと坂本龍一氏が音楽で参加ということで彼の音楽を生で聴きたいという
それだけといっても過言ではありませんでした。
でも、見るからにはマラルメって?ってことで調べたりするのですが
あまりわからず、その詩とかも本屋さんで見つかるような多く流通しているものでもなく
アマゾンで見たら、パソコンが買えそうなぐらいの値段の全集しかありませんでした。
だから、まあいいかとなんの勉強もすることなく
ただ、見に行きました。
企画は浅田彰氏と渡邊守章氏
構成・演出は渡邊守章氏
朗読は渡邊守章氏と浅田彰氏
音楽・音響は坂本龍一氏
映像・美術は高谷史郎氏
ダンスは白井剛氏と寺田みさこ氏
ステージに登場するのは渡邊氏、浅田氏、坂本氏、白井氏、そして寺田氏と
5人だけでした。
最初から
「これはなんだ?」という摩訶不思議な世界に
戸惑うし、何を捉えたらいいのかも検討がつきませんでした。
とにかくフランスの19世紀後半の詩人のマラルメの詩人としての立場と
彼の作品を交差したものだというのがふんわりとわかってきました。
渡邊氏がまず一人で舞台に立ち、日本語でそしてフランス語で言葉を放たれます。
その日本語を頭の中で理解しようとするとどんどん先へ走っていってしまって
まったく追いつかないような言葉の群れに私は仕方が無く
まるで幼子が言葉を覚えるように、響いた単語だけを頭の中で繋げていきました。
虚無
夢想
美
永遠
精神
純粋
深夜
時間
鏡
無限
絶対
狂気
混沌
不能力
これらの言葉がぐるぐるといろんな言葉の合間に何度となく
くりかえされていきました。
この中に「暁鳥」という言葉が出て来た時に
なぜか私は村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を思い出していました。
あの夜と窓とねじまき鳥のシーンが
このマラルメの描く世界に重なってきました。
このパフォーマンスを説明するのはとても難しいけれども
渡邊氏が朗読するのに合わせて美しい肉体のパフォーマンスを
静かに動いているのに静かに音もなく見せてくれる白井氏と寺田氏は
ほんとうに素晴らしくて、生きているアートを見ているようでした。
そして、ピアノをピアノとして扱うのではなく
音を出すものとしてあらゆるところから音を生み出していく
坂本氏のパフォーマンスにも驚くとともに不思議な感覚を覚えました。
そして、何より私が感動したのはステージにおかれた2枚のスクリーン板というのか
それを使って幻想的な映像を2人のダンサーと溶け合わせてみせる演出に
ほんとうにうっとりとしてしまいました。
そのシーンの中では最近発売された
The John’s Guerrilla というバンドの
『ALL POWER TO THE PEOPLE』というアルバムジャケットをそのまま
ステージで展開しているようなものもありました。
同じっていうのではなく、同じ空気感というのか。
実際にステージでその裸体をさらすというのではないけれども
おそらく絹が張られたスクリーン板(なんていうのか知らないので)の
向こうに見える人影はまさに人間の体そのものであって
それがスクリーンに写し出される映像や文字の中で
オレンジがかった肌色を自由自在に動かしていくのです。
それが本当に美しくて。
2枚のスクリーンが並べられて
それぞれに肌色の幻想がくりひろげられて対をなすわけです。
全体的にパフォーマンスにはろうそくがとても重要な小道具であり
その光がマラルメのしがみつこうとする最後の夢のような気すら
していました。
正直、日本語を聴いている時はとても重い気持ちになってしまうのに
フランス語になると体はリラックスしてほっとしていくのがなぜなんだろう?
ってずっと考えていました。
日本人だから日本語に訳さないと意味がわからないということで
日本語になっているのだろうけれども、この詩はフランス語によって
初めてその生命を輝かせるようにも感じました。
別に意味なんてわからなくてもいいのかもと思いました。
感じること。
それが詩の望むところなのでは?と。
言語を超えて、
その音だけで実は人を癒していく。
私が幼少の頃から英語の歌を聴いてそれらを愛して来たように
それぞれの国の言葉には実はみんな音楽が伴っていて
それがその言葉が一番伝えたいことなんじゃないかと。
日本語には日本語で伝える音が
フランス語にはフランス語で伝える音が
それを変えてしまうと
伝わるものも伝わりにくくなるのかもしれないと
このステージを見ていて感じました。
このステージの素晴らしいのは
それを具現化して見せてくれたことです。
日本語の朗読もしてくださって
それはいわゆる音声を選んで聴いてくれていいですよって
いうサービスであったと私は思うのです。
本当のところはそのダンスと音楽と映像とフランス語だけで
日本人の私たちでも十分に「したがって」(イジュールの意味)
夜を魂を夢を絶望を混沌を感じれると思いました。
同じ渡邊氏が朗読しているのに
自分の母国語である日本語より
フランス語で読まれている方が
数倍も心に滲みて来ました。
で、ほっとしました。
その言葉に体を委ねていたいと思いました。
今回行った動機は坂本氏だったかもしれませんが
私はフランス語の音の響きと
ダンサーの方と映像にほんとうに
すっかりまいってしまいました。
坂本氏の奏でる音たちは
そのダンスや詩にまるで真珠のネックレスでも
かけるかのようでした。
このプロジェクトは
心から素晴らしいと感動したし
意味はまったくわからなくても
自分自身に何かを持ち帰れました。
あ~もっとこのパフォーマンスを深く考えたいとも思いました。
遠い昔、イギリスで見たリンゼイ・ケンプが彼の劇団とは関係なく
だれか(忘れました)とのプロジェクトでやったパフォーマンス劇を
思い出しました。スペイン戦争が舞台となっていたそのパフォーマンス。
パントマイムと映像が交差する世界。
私は言葉を超えた言葉に心を昔から振るわして来たんだなと
人間は言葉を超えた大事なものをもっているというのを
思い出させてくれた夜でした。