for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

避暑映画

2015年07月25日 21時23分56秒 | 鑑賞

アカデミー賞他いくつかを受賞したそうで、「スウィッチ」というのを楽しんだ。南米の作品で、どんな作風だろうかとそそられた。

CGや爆発音はなかったのは、何より。

人間、感情の堪え限界というのが誰しもあるのだろう。「ばかばかしくて・頭にきた」とかいう言葉に代えられるかもしれない行動に移す

限界点をこの映画はスイッチと呼んだだろう。数編を作品にしたてている。滑稽だったのが、「バカ息子の代償」(?)とかいうタイトル小品で、

車で人を危めてしまった息子の弁護士が、問題を丸める金銭を数値で釣り上げてきた。関係者3人・余剰経費の始末の挙句、

支払うべき(社長である)親がスイッチをいれた!と、それまでごねて釣り上げた関係者全てが小さな額に落としたという結末。

堪忍袋の尾を切って、怒りまくった花嫁の結末は、ハッピーウェディング。怒って正解というのが、後編で取り上げられた人間ドラマのスイッチだったかもしれない。

エネルギーがほとばしっている国の人たちを感じた映画だった。これから更にどのように発展していくのだろう。

短編で、これほど楽しませてくれる。

 

 


新国立競技場建設計画

2015年07月23日 20時32分23秒 | 日記

建設契約を白紙に戻した決断は正解だと思う。だれも、採算の取れない建築物に賛同はしないだろう。

国の借金のニュースを知るたびに、「私の責任ではないわよ」と多くの政治に関与しない人たちは言いたい。少子高齢化という原因看板で

財源確保が難しいというのは、逃げ口上として安易に浸透させようとしているのではないだろうか。

建築物の尋常でない数値計画に多くの声が「ノー」をつきつけていたのだから、全ての計画に地に脚をつけて実行するのを願う。

国の威信・名誉?こういった名目に重なる借金が将来に加えられるはずはないとは、願うのだが。

と、イランのプランナーに期待したいことがある。彼女が新たなプランに道義的な数値で参加するなら、日本や他の企業が何らかの形で

母国に還元できる表明が起きても良さそうだ。 善意は、世界で共有できると、願いたい。

8月下旬、建設計画費用が変更の決断となり、1500億円ほど。番組報道を見ながら、既存の建物を使って、空き地には有効な別企画の為に取っておけばよいのに、

などと庶民感覚で思う。夏の東京オリンピックなんて、私には堪えられません。プールや温泉施設で実況中継ならかなえられるけれど、日本の経済効果を詠っているだろうにね。

世界の人たちの屋外と交通機関・公共機関の温度差、どれくらいなら移動しやすいでしょう。 どれくらいの年代の人たちがどれほど移動できるでしょう。

ミストシャワー歩道が競技施設移動エリア全域に取り入れられる?駅の通路やホームにも? 夏の数週間という期間限定だから、設置されれば、今後のためにも有益でしょう。

「東京の夏、なんてオシャレ!」と円安誘導が続いて「東京の夏イケルジャナイ大好き!」になれるかもしれません。

 

 

 

 


あちこちのちえ子「ふたつの家で」

2015年07月07日 14時58分22秒 | 日記

著者は初めてこの作品を描いたそうだ。そして多くの賞を受けている。

かつての会員のなかにもあちこち「ちえ子」がきっといただろう。自分が生まれてきて

ものごころついて、自分の心の空白やもやもやをはらしたくてきっとそれまでにためてきたものが

発露させているのだと思う。親といっしょに育っていても、多感な子供は別のさまざまな形で表すかもしれない。

それが良しとされ、徳とされるかは別問題として、わからなかったことを自分なりに折り合いをつけて向き合うのかもしれない。

自分ひとりの声ではどうにもならない(ならなかった)ことは、だれにもひとつぐらいはあるだろう。

人に語って済むまされる人も、なんとかだれかに文字で読んでもらったりして折り合いをつける人もいるだろう。

小説の形だったり、創作というアレンジでもあったりするだろう。

ひとひとりの一生、いろいろある。

 

 


ふたつの家のちえ子

2015年07月05日 08時12分12秒 | 

「ふたりのちえ子」と題名を読み違えて本を手に取ってみた。児童文学だから文字も大きめで視点を探すでもなく

懐かしい光景に惹かれて本を楽しんだ。5,6歳のちえ子目線の心の反応(子供がとるだろう身ぶり)が著者のことばで表現されている。

「ああ、そうだね」(そんなふうに、)あるいは「現代、どれくらいの年齢の子供が想像できてとりつくだろうか」と、少子化対策にはお勧めしたい

もし、(子育てが大いに補助されるなら)。 と、昔のおかあさんの奮闘と子供たちの暮らしの情景に度々ほろりとさせられた。 饒舌ではない、

描写に心がとらえられた。ことば表現が発達過程の幼い子供たちには、動きや行動に注目すると良いのでしょう。(それを著者は愛情として注いでいる)

現代の子供とは違うだろうか。

  

山の上の家は、おとうさんのいない家族のひとりひとりが奮闘していた「うちのおかあさん」象徴として読者の心象にとどまるでしょう。

年の瀬、何があったでしょう、山の家に。

 

 

 


old fashioned tool is available?

2015年07月01日 16時28分52秒 | 日記

Nowadays, a home telephone is not availble because of  avoiding  troublsome  deceiting calls or disgusting commercial calls.

(internet ads are increasing and chasing after research!)

How many people  will tell their own  mobile  number so  easily?  It is used for an approval of  Id now. 

Then how do we communicate ?  Do we inform ourselves in the internet social media ?  Are they really satisfied in those media?

There are various phases or faces to be used by expressing daily lives. It may possibly used for the target of other business opponent,

or learning media, big data etc.  To make it useful for own each business, that's it.

 

 It is up to our own decision and utility how to do and what to do. At least harassment 

standards must be defended for our free activities.

Old fashioned card or envelope (uninteresting, formal, not speedy tool ), I remembered  as simple communication style if the other person did not change the address.

 We do not like to be known by others directly but express ourselves in a diferent way ....

business decision depends on fee,the economy , all is going around now.