ミラノのブレア美術館で後戻りして、その作家を確かめたところ、カラヴァッジョだった。私の知っているかぎりでは、意外な表情の絵で、
ルーブルに寄った時も作品を探していた。そのカラヴァッジョが来ているそうで、オープンの週に出かけてきた。どんな絵だったか想像すらできなかったけれど、
惹かれた絵は、「エマオの晩餐」だった。
同じ題名で、イギリス大英博物館所蔵の作品もあるけれど、キリストの顔が全く違う。自らの顔を投影したような(?)絵が多く見られ、恵まれた状況で
描いたばかりではなかったようだ。
1606年の作品は、何かをそぎ落としたかのように感じられ、自分に似た顔のキリストに描かれていないように見える。
他にも同じような顔の作品が何点かある。どんな状況だったのでしょう。援助があったのでしょうか。
カラヴァッジョの絵は、使徒聖人が普通の人のように描かれていて、親近感があり、ドラマチックだ。
人の一生、その旅立ちの時に当たって、幸運な人ばかりではない。
今世紀とは違うからだろうけれど、作品を残し、何世紀を経ても思い起される人と国の文化保持に、感謝。
文物に言葉を送り、人に回し人を回す。これも小さな経済文化交流維持のひとつに思います。
[美術の物語」を開いてみると、カラヴァッジョへの創作に対して聖書を誠実に汲み取って表現したと、著者が綴っている。
確かに、聖人となるのは、普通の人だったからこそ聖人になったので、カラヴァッジョのひとつを静かにみると、
聖書への読みが、まさに彼自身なりに真剣で誠実だったといえるようだ。
表現物は、社会構造影響によって個人の才能と表現が充分に評価されるかは、わからないと、カラヴァッジョ時代を
ちらりと想像してみた。